「語られる言葉」の美 関連リンク

岸田 国士 のオススメ作品

作家別索引

作品別索引

「語られる言葉」の美 - 岸田 国士 ( きしだ くにお )

  • ■SWITCH 2007.1■ 桜井和寿[愛の言葉、想いの言葉]Mr.Children
  • 言葉を、もっと言葉を!・・・ 開高健文学対談集
  • 正しい言葉づかいのための似た言葉使い分け辞典★類語研究会編
  • 斎藤一人さんの天国言葉を壁紙にしました。 魂に良い言葉を
  • 勇気のでる言葉たち×やさしくなれる言葉たち☆折原みとポプラ社
  • ★2冊 ほめ言葉ハンドブック&その気にさせるほめ言葉のつかい方
  • ■谷川俊太郎■ 谷川俊太郎の問う言葉答える言葉
  • 今日をありがとう 365日の言葉 曽野綾子 徳間書店
  • 『マーク・トゥエイン150の言葉』★中古美品200円
  • 『アインシュタイン150の言葉』発言集★中古美品200円
次のページ
岸田國士      一 書かれた言葉と語られる言葉  われわれ日本人は、子供の時分から、文字を眼で読むといふ努力をあまりに強ひられた結果、「口から耳へ」伝へられる言葉効果に対しては、余程鈍感になつてゐるやうである。もちろんその他にも原因はあるだらうが、書かれた言葉、即ち文章についてやかましい批評をする人も、「語られる言葉」即ち「談話」については、案外、無関心であるなども、その証拠だらうと想はれる。
 雄弁術といふものを正統的に育てて来なかつた国だから、それも無理はないのであるが、しかし、私がここで云はうとするのは、必ずしも、さういふ限られた技術問題ではない。物を言ひはじめた子供の語る言葉は、いかに魅力に富んでゐるか、さういふ子供に乳をふくませてゐる若い母親言葉が、いかに屡々われわれを微笑ましめるか。行軍疲れ兵士らが、道ばたで取り交す会話のうちに、時として、いかに面白い調子を発見するか。われわれの耳の周囲には、寧ろ、月並な思想の月並な表現が充満してゐることは事実である。しかしながら、稀に、われわれの耳は、ある種の「魅力」に遭遇して、忘れ難き印象を留めるのである。この快感は、美しき自然と、傑れたる芸術のみがわれわれに与へ得る快感である。
 私は、この快感を特に名づけて「語られる言葉の美」と呼びたいのである。そして、この機会に、われわれの国語をもつてする「語られる言葉の美」を数多発見し、新しく培養する必要を力説したいのである。
 西洋諸国国語は、「書かれる言葉」と「語られる言葉」とを区別はしてゐるが、その差は日本のそれほど著しくない。まして、日本のやうに、所謂口語体さへも、「語られる言葉」としての生命を失つてゐるやうな、不合理な状態に置かれてはゐないのである。西洋口語体は、即ち「語られる言葉」である証拠には、西洋人演説活字で読んで見るがいゝ。更に一層注意すべき事実がある。それは、彼等が、いかに長い手紙を屡々書くかといふことである。そして、その手紙がいかに生彩に富んでゐるかといふことである。彼等こそ手紙を「話すやうに書く」からである。寧ろ、彼等はそれを「話しながら書く」のである。「書きながら話す」のである。
「語られる言葉」の美は、これを「語り手」に求むべきことはむろんであるが、われわれ日本人は、前に述べた如く「語り手」として、多くはその点、甚だ幼稚である以上に、「聴き手」として、この魅力に鈍感であるばかりでなく、更に、自分関係なく語られる言葉の中から、第三者として、この種の魅力を素早く捉へるといふ訓練に至つては、最も欠けてゐると云はねばならぬ。この事実こそ、わが国現代劇を不振ならしめてゐる最大原因なのである――作者の側からも、俳優の側からも、将たまた、観客の側からも。
 試みにさつきの例を挙げて見よう。こゝに一人の若い母親がゐる。子供に乳をふくませながら、かう云つてゐる。――
「さ、早く、おつぱいを飲んで、ねんねして頂戴。そいでないと、母ちやんは、……どうするか知つてて……?」
 さて、こんなつまらない独白めいた言葉から、実際、われわれが、何か魅力らしいものを感じたとしたら、どうだらう。その母親美しい女性だからだと云ふものがあれば、私は、そればかりではないと答へる。若い母親としての優しさが、言葉の調子に表はれてゐるからだと云ふものがあれば、私はそれだけでもないと答へる。それなら、その言葉つきが極め自然で、厭味がないからだと云ふのか。いや、そればかりでもない。声が朗らかで、歌のやうだからか。いや、いや、そればかりでもない。それならなんだ。私はかう答へるより外はない。――「さういふことがらをみんな含めた上で、なほ、その外に、その女は自分言葉をもつてをり、そして、その言葉自由に使つてゐるからだ。言ひ換へれば、いかにもその女に応しい言葉で、その女でなければ表せないやうなものを、最も適切な時機に、最もはつきり現はしてゐるからだ」。
「語られる言葉」の美は、かくて、立派文学的批判を受くべきものとなるのであるが、しかも、それは、「書かれた言葉」の美以上に、デリケェトで且つ複雑な効果をもつてゐるのである。何となれば、それは一層、人間そのものの生命に近いからである。
 それにつけても、私は、日本人不思議国民だと思ふ。なるほど、無表情といふことも、時によると、一つの魅力ではあるが、自分思想感情を常に歪めながら発表することを、さほど苦痛と感じないらしいのである。以心伝心とか、暗黙の裡に語るとかいふ甚だ神秘的な趣味を解する如く見えて、実は、誤解と泣寝入と気まづさとを生涯背負つて歩いてゐるのである。そして、最も困つたことは、対手を退屈させ、一座を白けさせ、人前で調子を外す妙を心得てゐることである。
 現代日本語が、実に蕪雑を極めてゐることは、識者の等しく認めるところであるが、その識者自らが、その蕪雑さを如何にして救ひ、少しづつでも国語品位と魅力とを恢復しなければならないかについて、十分の用意と努力とを払つてゐないやうに思はれる。尤もこの問題は、所謂識者だけに委しておくべき問題ではない。今朝も不図、読売新聞を開いて見ると、巴里にゐる中村星湖氏が、その通信の中で次のやうなことを語つてゐる。
フランス国民くらゐ国語を大切に取扱ふ国民はない。殊にフランス女、といふ中でも、生粋のパリの女くらゐ、フランス語発音綺麗なのを得意とするものはないやうです。コメディイ・フランセエズの女優達が劇場に出かける前でも、そこから帰つて来てからでも、暇さへあればフランス語発音練習に夢中になつてゐるといふ事ですが、これは綺麗な声を生命とする職業だからと言つてしまへばそれまでだが、さういふ特殊の職業婦人でなくても、よく話す事、よい発音をひとに聞かせる事は、フランス女、殊にパリ女の誰でもが、一般的に、もしくは歴史的に、心掛けて来た、また心掛けつゝあるところのやうです。「古きラテン文化」――それはフランス文化人、及びフランス女が最上の誇りとする、それは、こんな日常の用意から来てゐると言つてよいかと思ふ。
 日本の女の人でも花柳界などには、よほどこの声の練習があり、たしなみがあるらしいが、動機目的も全く違ふ。


次のページ

岸田 国士 (きしだ くにお) 以外のオススメ作品

「語られる言葉」の美 (かたられることば」のび) のリンク元

「「語られる言葉」の美-岸田 国士」の関連ページ


関連ページ
Web Services by Yahoo! JAPAN