あのころ ――幼ものがたり―― 関連リンク

上村 松園 のオススメ作品

作家別索引

作品別索引

あのころ ――幼ものがたり―― - 上村 松園 ( うえむら しょうえん )

  • SALE★即決《もんもんシティー内田春菊》文庫あのころの風俗
  • レオナルド・ディカプリオ▼あのころ僕らは★新品パンフレット
  • ◆新品DVD★『あのころ僕らは』レオナルド ディカプリオ★1円
  • あのころまる子だったももこの話 さくらももこ テレカ
  • 山本夏彦 久世光彦 昭和恋々 あのころこんな暮らしがあった
次のページ
あのころ ――幼ものがたり――         父  私が生まれたのは明治八年四月二十三日ですが、そのときには、もう父はこの世にいられなかった。  私は母の胎内にあって、父を見送っていたのであります。
写真を撮ると寿命がない」
 と言われていた時代であったので、父の面影を伝えるものは何ひとつとてない。しかし私は父にとても似ていたそうで、母はよく父のことを語るとき、
「あんたとそっくりの顔やった」
 と言われたものです。それでとき折り父のことを憶うとき、私は自分の顔を鏡に映してみるのであります。
「父はこのような顔をしていなさったのであろうか」
 そう呟くために。

        祖父

 祖父は、上村貞八といって、天保の乱を起こした大阪町奉行大塩平八郎の血筋をひいたものであると伝えられています。
 その当時はお上のせんぎがきびしかったので、そのことはひたかくしに隠して来たのだそうです。

 この祖父京都高倉三条南入ルのところに今もあるちきり屋という名代呉服屋につとめて、永らくそこの支配人をしていましたそうです。
 夏は帷子、冬はお召などを売る店として京都では一流だったそうです。

 この貞八が総領息子麩屋町六角質店をひらかせましたが、三年目には蔵の中に品物がいっぱいになったと言われています。
 ところが、京都どんどん焼きとも言い、また鉄炮焼きとも言って有名蛤御門の変で、隣の家へ落ち大砲の弾から火事を起こし、その質蔵も類焼し、一家は生命からがら伏見親類へ避難したのでした。
 そのときは母の仲子は十六、七でしたが、そのときの恐ろしさをときどき話していられました。
 元治元年の年のことであります。

 間もなく四条御幸町西入奈良物町に家をたてて、そこで今度は刀剣商をはじめました。
 参勤交代大名行列が通るたびに、店には侍衆がたくさん立たれて、刀や鍔を買って行ったそうで、とてもよく流行(はや)ったそうです。
 また帰国のときには子供用の刀や槍がどんどん売れたそうで、これは国表へのお土産になったのであります。

        葉茶屋

 それも間もなくのことで、御一新になり、天子様が御所から東京宮城へお移りになられたので、京都は火の消えたようにさびれてしまい、廃刀令も出たりしたので、刀剣商をたたんでしばらくしもたやでくらしていましたが、母の仲子が養子を迎えたので、それを機会に葉茶屋をひらきました。養子の太兵衛という方はながらくお茶商売屋に奉公していたので、その経験を生かそうとしたわけであります。
 葉茶屋の家号を「ちきり屋」と名づけたのは、祖父がつとめていた呉服屋の家号をもらってつけたのかもしれません。
 もっとも葉茶屋に「ちきり屋」というのはむかしからよくある名だそうですから、べつだん呉服商の「ちきり屋」にチナまなくともつけられたのではありましょうが……

 今でも寺町一保堂あたりにいぜんの面影が残っていますが、私の家の店は表があげ店になっていて、夜になるとたたんで、朝になると下へおろし、その上に渋紙を張った茶櫃を五つ六つ並べておきます。
 店の奥には棚ものといって上等のお茶を入れた茶壺たくさんならんでいました。

 私は子供のころから――さよう、五つの頃から絵草紙をみたり、絵をおもちゃ描きしたりすることが好きで、店先のお客さんの話を聞きながら、帳場の机に坐りこんで、硯箱の筆をとり出しては、母のくれた半紙に絵ばかりかきつけていました。
 いつ来ても絵ばかりかいているので、お客さんはよく笑いながら、母に、
あんさんとこのつうさんは、よほど絵がすきとみえて、いつでも絵をかいてはるな」
 と、言っていたのを憶えている。
 店へ来る画家の人で、桜花研究家として名をとっていた桜戸玉緒という方が、極彩色の桜の絵のお手本を数枚下さって、うまくかけよ、と言ったり、南画を数枚下さって、これを見てかくとええ、などとはげまして下さった。
 また甲斐虎山翁が幼い私のためにわざわざ刻印を彫って下さったこともあります。その印は今でも大事に遺してあります。

        絵草紙屋

 私は絵の中でも人物画が好きで、小さいころから人物ばかり描いていました。
 それで同じ町内に吉野屋兵衛――通称よしかんという絵草紙屋がありましたので、私は母にねだって江戸絵や押絵に使う白描を買ってもらい、江戸絵を真似てかいたり、白描に色をつけては悦んでいました。
 また夜店をひやかしていますと、ときどき古道具の店に古い絵本があったりしますので、母にねだって買ってもらうのでした。
 母は私が絵を買うとさえ言えば、いくらでも、おうおうと言って買ってくれました。将来絵かきにするつもりではなかったのでしょうけれど、好きなものなら――と言った気持ちから訊いて下さったのでしょう。

 たしか五つか六つの頃と思います。
 お祭によばれて親類の家へ遊びに行ったときのこと、そこの町内に絵草紙店があって、なかなかいい絵があるのです。
 子供心にほしくてほしくてたまらなかったが、親類の人に遠慮して言い出せずもじもじしていたが、折りよくそこへ家の丁稚通り合わしましたので、私はこれ幸いと、丁稚に半紙へ波の模様のある文久銭を六つならべて描いて、
「これだけ貰って来ておくれ」
 とことづけて、やっとそれを買うことが出来ました。
 文久銭というのを知らないので絵にして言づけた訳ですが、あとで母は、この絵手紙を大いに笑って、つうさんは絵で手紙をかくようになったんやなア、と言われました。

 ガス燈電燈もなかった時代のことで、ランプを往来にかかげて夜店を張っている。その前に立って、芝居役者似顔絵や、武者絵などを漁っている自分の姿をときどき憶い出すことがありますが、あの頃は何ということなしに絵と夢とを一緒にして眺めていた時代なので私には懐かしいものであります。
 芝居中村富十郎似顔絵など、よしかんの店先に並んでいる光景は、今でも思い出せばその顔の線までハッキリと浮かび上って来るのです。

        北斎の※絵

 母は読み本が好きで、河原町四条上ルの貸本屋からむかしの小説の本をかりては読んでいられたが、私はその本の中の絵をみるのが好きで、よく一冊の本親子で見あったものでした。
 馬琴の著書など多くて――里見八犬伝とか水滸伝だとか弓張月とかの本が来ていましたが、その中でも北斎の※絵がすきで、同じ絵を一日中眺めていたり、それを模写したりしたもので――小学校へ入って間もないころのことですから、ずいぶんとませていた訳です。
 字体も大きく、和綴じの本で、※絵もなかなか鮮明でしたからお手本には上々でした。
 北斎の絵は非常動きのある力強い絵で、子供心にも、
上手な絵やなあ」
 と思って愛好していたものです。

 貸本屋というのは大抵一週間か十日ほどで次の本と取り替えにくるものですが、その貸本屋はいたってのん気で、一度に二、三十冊持って来るのですが、一ヵ月経っても三ヵ月しても取りに来ません。
 四ヵ月目に来たかと思うと、新しい本をもって来て、
「この本は面白いえ」
 と言って置いてゆき、前の本を持って帰るのを忘れるという気楽とんぼでした。
 廻りに来るのは、そこの本屋息子ですが、浄瑠璃に大へん凝って、しまいには仕事をほり出して、そればかりうなっている仕末でした。
 息子呑気さに輪をかけたように、その貸本屋の老夫婦ものんびりとしたいい人達でした。
 いつでも店先で、ぼんやりと外を眺めていましたが、とき折り私が借りた本を返しにゆくと、
「えらいすまんな」
 といって、色刷りの絵をくれたりしました。店にはずいぶんたくさんの本があり、私の好きな絵本もありました。
 御一新前に、その老夫婦勤皇志士をかくまったそうですが、その志士がのちに出世して東京で偉い人になったので、
お礼返しに息子さんを学校へ出してやろう」
 と言われたので、老夫婦息子をつれて東京へ行ってしまいましたが、その時たくさんの本を屑屋へ払い下げて行ったそうですが、あとでそのことをきいて、
「あれをたくさん買って置けばよかった」
 と残念におもいました。


次のページ

上村 松園 (うえむら しょうえん) 以外のオススメ作品

あのころ ――幼ものがたり―― のリンク元

「あのころ ――幼ものがたり――-上村 松園」の関連ページ


関連ページ
Web Services by Yahoo! JAPAN