おせん - 邦枝 完二 ( くにえだ かんじ )
虫(むし)
一
「おッとッとッと。そう乗(のり)出(だ)しちゃいけない。垣根(かきね)がやわだ。落着(おちつ)いたり、落着(おちつ)いたり」
「ふふふ。あわててるな若旦那(わかだんな)、あっしよりお前(まえ)さんでげしょう」
「叱(し)ッ、静(しず)かに。――」
「こいつァまるであべこべだ。どっちが宰領(さいりょう)だかわかりゃァしねえ」
が、それでも互(たがい)の声(こえ)は、ひそやかに触(ふ)れ合(あ)う草(くさ)の草(は)ずれよりも低(ひく)かった。
「まだかの」
「まだでげすよ」
「じれッてえのう、向(むこ)う臑(ずね)を蚊(か)が食(く)いやす」
「御辛抱(ごしんぼう)、御辛抱(ごしんぼう)。――」
谷中(やなか)の感応寺(かんおうじ)を北(きた)へ離(はな)れて二|丁(ちょう)あまり、茅葺(かやぶき)の軒(のき)に苔(こけ)持(も)つささやかな住居(すまい)ながら垣根(かきね)に絡(から)んだ夕顔(ゆうがお)も白(しろ)く、四五|坪(つぼ)ばかりの庭(にわ)一|杯(ぱい)に伸(の)びるがままの秋草(あきぐさ)が乱(みだ)れて、尾花(おばな)に隠(かく)れた女郎花(おみなえし)の、うつつともなく夢見(ゆめみ)る風情(ふぜい)は、近頃(ちかごろ)評判(ひょうばん)の浮世絵師(うきよえし)鈴木晴信(すずきはるのぶ)が錦絵(にしきえ)をそのままの美(うつく)しさ。次第(しだい)に冴(さ)える三日月(みかづき)の光(ひか)りに、あたりは漸(ようや)く朽葉色(くちばいろ)の闇(やみ)を誘(さそ)って、草(くさ)に鳴(な)く虫(むし)の音(ね)のみが繁(しげ)かった。
「松(まっ)つぁん」
「へえ」
「たしかにここに、間違(まちが)いはあるまいの」
「冗談(じょうだん)じゃござんせんぜ、若旦那(わかだんな)。こいつを間違(まちが)えたんじゃ、松(まつ)五|郎(ろう)めくら犬(いぬ)にも劣(おと)りやさァ」
「だってお前(まえ)、肝腎(かんじん)の弁天様(べんてんさま)は、かたちどころか、影(かげ)も見(み)せやしないじゃないか」
「御辛抱(ごしんぼう)、御辛抱(ごしんぼう)、急(せ)いちゃァ事(こと)を仕損(しそん)じやす」
「ここへ来(き)てから、もう半時近(はんときちか)くも経(た)ってるんだよ。それだのにお前(まえ)。――」
「でげすから、あっしは浅草(おくやま)を出(で)る時(とき)に、そう申(もう)したじゃござんせんか。松(まつ)の位(くらい)の太夫(たゆう)でも、花魁(おいらん)ならば売(う)り物(もの)買(か)い物(もの)。耳(みみ)のほくろはいうに及(およ)ばず、足(あし)の裏(うら)の筋数(すじかず)まで、読(よ)みたい時(とき)に読(よ)めやすが、きょうのはそうはめえりやせん。半時(はんとき)はおろか、事(こと)によったら一時(いっとき)でも二時(ふたとき)でも、垣根(かきね)のうしろにしゃがんだまま、お待(ま)ちンならなきゃいけませんと、念(ねん)をお押(お)し申(もう)した時(とき)に、若旦那(わかだんな)、あなたは何(な)んと仰(おっ)しゃいました。当時(とうじ)、江戸(えど)の三|人女(にんおんな)の随(ずい)一と名(な)を取(と)った、おせんの肌(はだ)が見(み)られるなら、蚊(か)に食(く)われようが、虫(むし)に刺(さ)されようが、少(すこ)しも厭(いと)うことじゃァない、好(す)きな煙草(たばこ)も慎(つつし)むし、声(こえ)も滅多(めった)に出(だ)すまいから、何(な)んでもかんでもこれから直(す)ぐに連(つ)れて行(い)け。その換(かわ)りお礼(れい)は二|分(ぶ)まではずもうし、羽織(はおり)もお前(まえ)に進呈(しんてい)すると、これこの通(とお)りお羽織(はおり)まで下(くだ)すったんじゃござんせんか。それだのに、まだほんの、半時(はんとき)経(た)つか経(た)たないうちから、そんな我儘(わがまま)をおいいなさるんじゃ、お約束(やくそく)が違(ちが)いやす。頂戴物(ちょうだいもの)は、みんなお返(かえ)しいたしやすから、どうか松(まつ)五|郎(ろう)に、お暇(ひま)をおくんなさいやして。……」
「おっとお待(ま)ち。あたしゃ何(なに)も、辛抱(しんぼう)しないたいやァしないよ。ええ、辛抱(しんぼう)しますとも、夜中(よなか)ンなろうが、夜(よ)が明(あ)けようが、ここは滅多(めった)に動(うご)くンじゃないけれど、お前(まえ)がもしか門違(かどちが)いで、おせんの家(うち)でもない人(ひと)の……」
「そ、それがいけねえというんで。……いくらあっしが酔狂(すいきょう)でも、若旦那(わかだんな)を知(し)らねえ家(いえ)の垣根(かきね)まで、引(ひ)っ張(ぱ)って来(く)る筈(はず)ァありませんや。松(まつ)五|郎(ろう)自慢(じまん)の案内役(あんないやく)、こいつばかりゃ、たとえ江戸(えど)がどんなに広(ひろ)くッても――」
「叱(し)ッ」
「うッ」
帯(おび)ははやりの呉絽(ごろ)であろう。引(ひ)ッかけに、きりりと結(むす)んだ立姿(たちすがた)、滝縞(たきじま)の浴衣(ゆかた)が、いっそ背丈(せたけ)をすっきり見(み)せて、颯(さっ)と簾(すだれ)の片陰(かたかげ)から縁先(えんさき)へ浮(う)き出(で)た十八|娘(むすめ)。ぽつんと一|本(ぽん)咲(さ)き初(はじ)めた、桔梗(ききょう)の花(はな)のそれにも増(ま)して、露(つゆ)は紅(べに)より濃(こま)やかであった。
明和(めいわ)戌年(いぬどし)秋(あき)八|月(がつ)、そよ吹(ふ)きわたるゆうべの風(かぜ)に、静(しず)かに揺(ゆ)れる尾花(おばな)の波路(なみじ)。娘(むすめ)の手(て)から、団扇(うちわ)が庭(にわ)にひらりと落(お)ちた。
二
顔(かお)を掠(かす)めて、ひらりと落(お)ちた桔梗(ききょう)の花(はな)のひとひらにさえ、音(おと)も気遣(きづか)う心(こころ)から、身動(みうご)きひとつ出来(でき)ずにいた、日本橋通(にほんばしとおり)油町(あぶらちょう)の紙問屋(かみどんや)橘屋徳兵衛(たちばなやとくべえ)の若旦那(わかだんな)徳太郎(とくたろう)と、浮世絵師(うきよえし)春信(はるのぶ)の彫工(ほりこう)松(まつ)五|郎(ろう)の眼(め)は、釘着(くぎづ)けにされたように、夕顔(ゆうがお)の下(した)から離(はな)れなかった。
が、よもやおのが垣根(かきね)の外(そと)に、二人(ふたり)の男(おとこ)が示(しめ)し合(あわ)せて、眼(め)をすえていようとは、夢想(むそう)もしなかったのであろう。娘(むすめ)は落(お)ちた団扇(うちわ)を流(なが)し目(め)に、呉絽(ごろ)の帯(おび)に手(て)をかけると、廻(まわ)り燈籠(どうろう)の絵(え)よりも速(はや)く、きりりと廻(まわ)ったただずまい、器用(きよう)に帯(おび)から脱(ぬ)け出(だ)して、さてもう一|廻(まわ)り、ゆるりと廻(まわ)った爪先(つまさき)を縁(えん)に停(とど)めたその刹那(せつな)、俄(にわか)に音(ね)を張(は)る鈴虫(すずむし)に、浴衣(ゆかた)を肩(かた)から滑(すべ)らせたまま、半身(はんしん)を縁先(えんさき)へ乗(の)りだした。
「南無(なむ)大願成就(だいがんじょうじゅ)。――」
「叱(し)ッ」
あとには再(ふたた)び虫(むし)の声(こえ)。
京師(けいし)の、花(はな)を翳(かざ)して過(すご)す上臈(じょうろう)達(たち)はいざ知(し)らず、天下(てんか)の大将軍(だいしょうぐん)が鎮座(ちんざ)する江戸(えど)八百八|町(ちょう)なら、上(うえ)は大名(だいみょう)の姫君(ひめぎみ)から、下(した)は歌舞(うたまい)の菩薩(ぼさつ)にたとえられる、よろず吉原(よしわら)千の遊女(ゆうじょ)をすぐっても、二人(ふたり)とないとの評判娘(ひょうんばんむすめ)。下谷(したや)谷中(やなか)の片(かた)ほとり、笠森稲荷(かさもりいなり)の境内(けいだい)に、行燈(あんどん)懸(か)けた十一|軒(けん)の水茶屋娘(みずちゃやむすめ)が、三十|余人(よにん)束(たば)になろうが、縹緻(きりょう)はおろか、眉(まゆ)一つ及(およ)ぶ者(もの)がないという、当時(とうじ)鈴木春信(すずきはるのぶ)が一|枚刷(まいずり)の錦絵(にしきえ)から、子供達(こどもたち)の毬唄(まりうた)にまで持(も)て囃(はや)されて、知(し)るも知(し)らぬも、噂(うわさ)の花(はな)は咲(さ)き放題(ほうだい)、かぎ屋(や)のおせんならでは、夜(よ)も日(ひ)も明(あ)けぬ煩悩(ぼんのう)は、血気盛(けっきざか)りの若衆(わかしゅう)ばかりではないらしく、何(なに)ひとつ心願(しんがん)なんぞのありそうもない、五十を越(こ)した武家(ぶけ)までが、雪駄(せった)をちゃらちゃらちゃらつかせてお稲荷詣(いなりもう)でに、御手洗(みたらし)の手拭(てぬぐい)は、常(つね)に乾(かわ)くひまとてないくらいであった。
橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)徳太郎(とくたろう)も、この例(れい)に漏(も)れず、日(ひ)に一|度(ど)は、判(はん)で捺(お)したように帳場格子(ちょうばごうし)の中(なか)から消(き)えて、目指(めざ)すは谷中(やなか)の笠森様(かさもりさま)、赤(あか)い鳥居(とりい)のそれならで、赤(あか)い襟(えり)からすっきりのぞいたおせんが雪(ゆき)の肌(はだ)を、拝(おが)みたさの心願(しんがん)に外(ほか)ならならなかったのであるが、きょうもきょうとて浅草(あさくさ)の、この春(はる)死(し)んだ志道軒(しどうけん)の小屋前(こやまえ)で、出会頭(であいがしら)に、ばったり遭(あ)ったのが彫工(ほりこう)の松(まつ)五|郎(ろう)、それと察(さっ)した松(まつ)五|郎(ろう)から、おもて飾(かざ)りを見(み)るなんざ大野暮(おおやぼ)の骨頂(こっちょう)でげす。おせんの桜湯(さくらゆ)飲(の)むよりも、帯紐(おびひも)解(と)いた玉(たま)の肌(はだ)が見(み)たかァござんせんかとの、思(おも)いがけない話(はなし)を聞(き)いて、あとはまったく有頂天(うちょうてん)、どこだどこだと訪(たず)ねるまでもなく、二|分(ぶ)の礼(れい)と着ていた羽織(はおり)を渡(わた)して、無我夢中(むがむちゅう)は、やがてこの垣根(かきね)の外(そと)となった次第(しだい)。――百|匹(ぴき)の蚊(か)が一|度(ど)に臑(すね)にとまっても、痛(いた)さもかゆさも感(かん)じない程(ほど)、徳太郎(とくたろう)の眼(め)は、野犬(やけん)のようにすわっていた。
「若旦那(わかだんな)」
「黙(だま)って。――」
「黙(だま)ってじゃァござんせん。もっと低(ひく)くおなんなすって。――」
「判(わか)ってるよ」
「そんならお速(はや)く」
「ええもういらぬお接介(せっかい)。――」
おおかた、縁(えん)から上手(かみて)へ一|段(だん)降(お)りて戸袋(とぶくろ)の蔭(かげ)には既(すで)に盥(たらい)が用意(ようい)されて、釜(かま)で沸(わか)した行水(ぎょうずい)の湯(ゆ)が、かるい渦(うず)を巻(ま)いているのであろうが、上半身(じょうはんしん)を現(あら)わにしたまま、じっと虫(むし)の音(ね)に聴(き)きいっているおせんは、容易(ようい)に立(た)とうとしないばかりか、背(せ)から腰(こし)へと浴衣(ゆかた)の滑(すべ)り落(お)ちるのさえ、まったく気(き)づかぬのであろう。三日月(みかづき)の淡(あわ)い光(ひかり)が青(あお)い波紋(はもん)を大(おお)きく投(な)げて、白珊瑚(しろさんご)を想(おも)わせる肌(はだ)に、吸(す)い着(つ)くように冴(さ)えてゆく滑(なめ)らかさが、秋草(あきぐさ)の上(うえ)にまで映(は)え盛(さか)ったその刹那(せつな)、ふと立上(たちあが)ったおせんは、颯(さっ)と浴衣(ゆかた)をかなぐり棄(す)てると手拭(てぬぐい)片手(かたて)に、上手(かみて)の段(だん)を二|段(だん)ばかり、そのまま戸袋(とぶくろ)の蔭(かげ)に身(み)を隠(かく)した。
「あッ」
「たッ」
辱(はじ)も外聞(がいぶん)も忘(わす)れ果(は)てたか、徳太郎(とくたろう)と松(まつ)五|郎(ろう)の口(くち)からは、同時(どうじ)に奇声(きせい)が吐(は)きだされた。
三
「おせんや」
「あい」
「何(な)んだえ、いまのあの音(おと)は。――」
「さァ、何(な)んでござんしょう。おおかた金魚(きんぎょ)を狙(ねら)う、泥棒猫(どろぼうねこ)かも知(し)れませんよ」
「そんならいいが、あたしゃまたおまえが転(ころ)びでもしたんじゃないかと思(おも)って、びっくりしたのさ。
「ふふふ。あわててるな若旦那(わかだんな)、あっしよりお前(まえ)さんでげしょう」
「叱(し)ッ、静(しず)かに。――」
「こいつァまるであべこべだ。どっちが宰領(さいりょう)だかわかりゃァしねえ」
が、それでも互(たがい)の声(こえ)は、ひそやかに触(ふ)れ合(あ)う草(くさ)の草(は)ずれよりも低(ひく)かった。
「まだかの」
「まだでげすよ」
「じれッてえのう、向(むこ)う臑(ずね)を蚊(か)が食(く)いやす」
「御辛抱(ごしんぼう)、御辛抱(ごしんぼう)。――」
谷中(やなか)の感応寺(かんおうじ)を北(きた)へ離(はな)れて二|丁(ちょう)あまり、茅葺(かやぶき)の軒(のき)に苔(こけ)持(も)つささやかな住居(すまい)ながら垣根(かきね)に絡(から)んだ夕顔(ゆうがお)も白(しろ)く、四五|坪(つぼ)ばかりの庭(にわ)一|杯(ぱい)に伸(の)びるがままの秋草(あきぐさ)が乱(みだ)れて、尾花(おばな)に隠(かく)れた女郎花(おみなえし)の、うつつともなく夢見(ゆめみ)る風情(ふぜい)は、近頃(ちかごろ)評判(ひょうばん)の浮世絵師(うきよえし)鈴木晴信(すずきはるのぶ)が錦絵(にしきえ)をそのままの美(うつく)しさ。次第(しだい)に冴(さ)える三日月(みかづき)の光(ひか)りに、あたりは漸(ようや)く朽葉色(くちばいろ)の闇(やみ)を誘(さそ)って、草(くさ)に鳴(な)く虫(むし)の音(ね)のみが繁(しげ)かった。
「松(まっ)つぁん」
「へえ」
「たしかにここに、間違(まちが)いはあるまいの」
「冗談(じょうだん)じゃござんせんぜ、若旦那(わかだんな)。こいつを間違(まちが)えたんじゃ、松(まつ)五|郎(ろう)めくら犬(いぬ)にも劣(おと)りやさァ」
「だってお前(まえ)、肝腎(かんじん)の弁天様(べんてんさま)は、かたちどころか、影(かげ)も見(み)せやしないじゃないか」
「御辛抱(ごしんぼう)、御辛抱(ごしんぼう)、急(せ)いちゃァ事(こと)を仕損(しそん)じやす」
「ここへ来(き)てから、もう半時近(はんときちか)くも経(た)ってるんだよ。それだのにお前(まえ)。――」
「でげすから、あっしは浅草(おくやま)を出(で)る時(とき)に、そう申(もう)したじゃござんせんか。松(まつ)の位(くらい)の太夫(たゆう)でも、花魁(おいらん)ならば売(う)り物(もの)買(か)い物(もの)。耳(みみ)のほくろはいうに及(およ)ばず、足(あし)の裏(うら)の筋数(すじかず)まで、読(よ)みたい時(とき)に読(よ)めやすが、きょうのはそうはめえりやせん。半時(はんとき)はおろか、事(こと)によったら一時(いっとき)でも二時(ふたとき)でも、垣根(かきね)のうしろにしゃがんだまま、お待(ま)ちンならなきゃいけませんと、念(ねん)をお押(お)し申(もう)した時(とき)に、若旦那(わかだんな)、あなたは何(な)んと仰(おっ)しゃいました。当時(とうじ)、江戸(えど)の三|人女(にんおんな)の随(ずい)一と名(な)を取(と)った、おせんの肌(はだ)が見(み)られるなら、蚊(か)に食(く)われようが、虫(むし)に刺(さ)されようが、少(すこ)しも厭(いと)うことじゃァない、好(す)きな煙草(たばこ)も慎(つつし)むし、声(こえ)も滅多(めった)に出(だ)すまいから、何(な)んでもかんでもこれから直(す)ぐに連(つ)れて行(い)け。その換(かわ)りお礼(れい)は二|分(ぶ)まではずもうし、羽織(はおり)もお前(まえ)に進呈(しんてい)すると、これこの通(とお)りお羽織(はおり)まで下(くだ)すったんじゃござんせんか。それだのに、まだほんの、半時(はんとき)経(た)つか経(た)たないうちから、そんな我儘(わがまま)をおいいなさるんじゃ、お約束(やくそく)が違(ちが)いやす。頂戴物(ちょうだいもの)は、みんなお返(かえ)しいたしやすから、どうか松(まつ)五|郎(ろう)に、お暇(ひま)をおくんなさいやして。……」
「おっとお待(ま)ち。あたしゃ何(なに)も、辛抱(しんぼう)しないたいやァしないよ。ええ、辛抱(しんぼう)しますとも、夜中(よなか)ンなろうが、夜(よ)が明(あ)けようが、ここは滅多(めった)に動(うご)くンじゃないけれど、お前(まえ)がもしか門違(かどちが)いで、おせんの家(うち)でもない人(ひと)の……」
「そ、それがいけねえというんで。……いくらあっしが酔狂(すいきょう)でも、若旦那(わかだんな)を知(し)らねえ家(いえ)の垣根(かきね)まで、引(ひ)っ張(ぱ)って来(く)る筈(はず)ァありませんや。松(まつ)五|郎(ろう)自慢(じまん)の案内役(あんないやく)、こいつばかりゃ、たとえ江戸(えど)がどんなに広(ひろ)くッても――」
「叱(し)ッ」
「うッ」
帯(おび)ははやりの呉絽(ごろ)であろう。引(ひ)ッかけに、きりりと結(むす)んだ立姿(たちすがた)、滝縞(たきじま)の浴衣(ゆかた)が、いっそ背丈(せたけ)をすっきり見(み)せて、颯(さっ)と簾(すだれ)の片陰(かたかげ)から縁先(えんさき)へ浮(う)き出(で)た十八|娘(むすめ)。ぽつんと一|本(ぽん)咲(さ)き初(はじ)めた、桔梗(ききょう)の花(はな)のそれにも増(ま)して、露(つゆ)は紅(べに)より濃(こま)やかであった。
明和(めいわ)戌年(いぬどし)秋(あき)八|月(がつ)、そよ吹(ふ)きわたるゆうべの風(かぜ)に、静(しず)かに揺(ゆ)れる尾花(おばな)の波路(なみじ)。娘(むすめ)の手(て)から、団扇(うちわ)が庭(にわ)にひらりと落(お)ちた。
二
顔(かお)を掠(かす)めて、ひらりと落(お)ちた桔梗(ききょう)の花(はな)のひとひらにさえ、音(おと)も気遣(きづか)う心(こころ)から、身動(みうご)きひとつ出来(でき)ずにいた、日本橋通(にほんばしとおり)油町(あぶらちょう)の紙問屋(かみどんや)橘屋徳兵衛(たちばなやとくべえ)の若旦那(わかだんな)徳太郎(とくたろう)と、浮世絵師(うきよえし)春信(はるのぶ)の彫工(ほりこう)松(まつ)五|郎(ろう)の眼(め)は、釘着(くぎづ)けにされたように、夕顔(ゆうがお)の下(した)から離(はな)れなかった。
が、よもやおのが垣根(かきね)の外(そと)に、二人(ふたり)の男(おとこ)が示(しめ)し合(あわ)せて、眼(め)をすえていようとは、夢想(むそう)もしなかったのであろう。娘(むすめ)は落(お)ちた団扇(うちわ)を流(なが)し目(め)に、呉絽(ごろ)の帯(おび)に手(て)をかけると、廻(まわ)り燈籠(どうろう)の絵(え)よりも速(はや)く、きりりと廻(まわ)ったただずまい、器用(きよう)に帯(おび)から脱(ぬ)け出(だ)して、さてもう一|廻(まわ)り、ゆるりと廻(まわ)った爪先(つまさき)を縁(えん)に停(とど)めたその刹那(せつな)、俄(にわか)に音(ね)を張(は)る鈴虫(すずむし)に、浴衣(ゆかた)を肩(かた)から滑(すべ)らせたまま、半身(はんしん)を縁先(えんさき)へ乗(の)りだした。
「南無(なむ)大願成就(だいがんじょうじゅ)。――」
「叱(し)ッ」
あとには再(ふたた)び虫(むし)の声(こえ)。
京師(けいし)の、花(はな)を翳(かざ)して過(すご)す上臈(じょうろう)達(たち)はいざ知(し)らず、天下(てんか)の大将軍(だいしょうぐん)が鎮座(ちんざ)する江戸(えど)八百八|町(ちょう)なら、上(うえ)は大名(だいみょう)の姫君(ひめぎみ)から、下(した)は歌舞(うたまい)の菩薩(ぼさつ)にたとえられる、よろず吉原(よしわら)千の遊女(ゆうじょ)をすぐっても、二人(ふたり)とないとの評判娘(ひょうんばんむすめ)。下谷(したや)谷中(やなか)の片(かた)ほとり、笠森稲荷(かさもりいなり)の境内(けいだい)に、行燈(あんどん)懸(か)けた十一|軒(けん)の水茶屋娘(みずちゃやむすめ)が、三十|余人(よにん)束(たば)になろうが、縹緻(きりょう)はおろか、眉(まゆ)一つ及(およ)ぶ者(もの)がないという、当時(とうじ)鈴木春信(すずきはるのぶ)が一|枚刷(まいずり)の錦絵(にしきえ)から、子供達(こどもたち)の毬唄(まりうた)にまで持(も)て囃(はや)されて、知(し)るも知(し)らぬも、噂(うわさ)の花(はな)は咲(さ)き放題(ほうだい)、かぎ屋(や)のおせんならでは、夜(よ)も日(ひ)も明(あ)けぬ煩悩(ぼんのう)は、血気盛(けっきざか)りの若衆(わかしゅう)ばかりではないらしく、何(なに)ひとつ心願(しんがん)なんぞのありそうもない、五十を越(こ)した武家(ぶけ)までが、雪駄(せった)をちゃらちゃらちゃらつかせてお稲荷詣(いなりもう)でに、御手洗(みたらし)の手拭(てぬぐい)は、常(つね)に乾(かわ)くひまとてないくらいであった。
橘屋(たちばなや)の若旦那(わかだんな)徳太郎(とくたろう)も、この例(れい)に漏(も)れず、日(ひ)に一|度(ど)は、判(はん)で捺(お)したように帳場格子(ちょうばごうし)の中(なか)から消(き)えて、目指(めざ)すは谷中(やなか)の笠森様(かさもりさま)、赤(あか)い鳥居(とりい)のそれならで、赤(あか)い襟(えり)からすっきりのぞいたおせんが雪(ゆき)の肌(はだ)を、拝(おが)みたさの心願(しんがん)に外(ほか)ならならなかったのであるが、きょうもきょうとて浅草(あさくさ)の、この春(はる)死(し)んだ志道軒(しどうけん)の小屋前(こやまえ)で、出会頭(であいがしら)に、ばったり遭(あ)ったのが彫工(ほりこう)の松(まつ)五|郎(ろう)、それと察(さっ)した松(まつ)五|郎(ろう)から、おもて飾(かざ)りを見(み)るなんざ大野暮(おおやぼ)の骨頂(こっちょう)でげす。おせんの桜湯(さくらゆ)飲(の)むよりも、帯紐(おびひも)解(と)いた玉(たま)の肌(はだ)が見(み)たかァござんせんかとの、思(おも)いがけない話(はなし)を聞(き)いて、あとはまったく有頂天(うちょうてん)、どこだどこだと訪(たず)ねるまでもなく、二|分(ぶ)の礼(れい)と着ていた羽織(はおり)を渡(わた)して、無我夢中(むがむちゅう)は、やがてこの垣根(かきね)の外(そと)となった次第(しだい)。――百|匹(ぴき)の蚊(か)が一|度(ど)に臑(すね)にとまっても、痛(いた)さもかゆさも感(かん)じない程(ほど)、徳太郎(とくたろう)の眼(め)は、野犬(やけん)のようにすわっていた。
「若旦那(わかだんな)」
「黙(だま)って。――」
「黙(だま)ってじゃァござんせん。もっと低(ひく)くおなんなすって。――」
「判(わか)ってるよ」
「そんならお速(はや)く」
「ええもういらぬお接介(せっかい)。――」
おおかた、縁(えん)から上手(かみて)へ一|段(だん)降(お)りて戸袋(とぶくろ)の蔭(かげ)には既(すで)に盥(たらい)が用意(ようい)されて、釜(かま)で沸(わか)した行水(ぎょうずい)の湯(ゆ)が、かるい渦(うず)を巻(ま)いているのであろうが、上半身(じょうはんしん)を現(あら)わにしたまま、じっと虫(むし)の音(ね)に聴(き)きいっているおせんは、容易(ようい)に立(た)とうとしないばかりか、背(せ)から腰(こし)へと浴衣(ゆかた)の滑(すべ)り落(お)ちるのさえ、まったく気(き)づかぬのであろう。三日月(みかづき)の淡(あわ)い光(ひかり)が青(あお)い波紋(はもん)を大(おお)きく投(な)げて、白珊瑚(しろさんご)を想(おも)わせる肌(はだ)に、吸(す)い着(つ)くように冴(さ)えてゆく滑(なめ)らかさが、秋草(あきぐさ)の上(うえ)にまで映(は)え盛(さか)ったその刹那(せつな)、ふと立上(たちあが)ったおせんは、颯(さっ)と浴衣(ゆかた)をかなぐり棄(す)てると手拭(てぬぐい)片手(かたて)に、上手(かみて)の段(だん)を二|段(だん)ばかり、そのまま戸袋(とぶくろ)の蔭(かげ)に身(み)を隠(かく)した。
「あッ」
「たッ」
辱(はじ)も外聞(がいぶん)も忘(わす)れ果(は)てたか、徳太郎(とくたろう)と松(まつ)五|郎(ろう)の口(くち)からは、同時(どうじ)に奇声(きせい)が吐(は)きだされた。
三
「おせんや」
「あい」
「何(な)んだえ、いまのあの音(おと)は。――」
「さァ、何(な)んでござんしょう。おおかた金魚(きんぎょ)を狙(ねら)う、泥棒猫(どろぼうねこ)かも知(し)れませんよ」
「そんならいいが、あたしゃまたおまえが転(ころ)びでもしたんじゃないかと思(おも)って、びっくりしたのさ。
邦枝 完二 (くにえだ かんじ) 以外のオススメ作品
- 寡婦の除夜 - 内村 鑑三
- 体格検査 - 小酒井 不木
- 狐憑 - 中島 敦
- 歴史の落穂 鴎外・漱石・荷風の婦人観にふれて - 宮本 百合子
- 梅原良三郎氏のモンマルトルの画室 - 与謝野 寛
おせん (おせん) のリンク元
- http://azby.search.nifty.com/websearch/search?cflg=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&select=1064&q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A9%8B+%E5%85%AB%E6%9C%A8%E9%95%B7+%E3%81%8B%E3%81%A4%E3%81%8A%E3%81%9B%E3%82%93&ck=&ss=
- http://azby.search.nifty.com/websearch/search?cflg=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&select=41&q=%E3%81%8B%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%9B%E3%82%93&ck=&ss=azby_top_tp
- [[nifty]] ??? ?
- [[nifty]] ????~??? ?
- [[nifty]] ????~??? ?
- [[nifty]] ?J????????????
- http://blog.shimokitazawa.com/blog/2010/03/post_e91d.html
- http://blog.shimokitazawa.com/blog/cat6763547/index.html
- [[biglobe]] おぱいはだか
- http://docomo.ne.jp/cp/as-rslt.cgi?pno=1&key=%82%a8%82%b9%82%f1%8f%ac%90%e0&sid=000
「おせん-邦枝 完二」の関連ページ
-
Re: あわわ - 汚染米(おせんべい) - 汚染米(おせんべい)
あ 返信!猫Tちゃん…→かわいすぎて死にそうですまた描かせてくださいね! -
あられ・おせんべいor冬 - ザの絵描きまとめwiki - ザの絵描きまとめwiki
第69回!共通のお題でお絵かき☆【『冬』or『あられ・おせんべい』】編URLhttp//35881.l-3-l.me/1257005429/投稿作品レミぬこ.【園長】じゅんぺ☆彡地獄極楽◆落とし穴沼さーりゃん黄色い帽子 -
浴衣の完二 - ヴァイスシュヴァルツwiki - ヴァイスシュヴァルツwiki
P4/S08-065カード名:浴衣の完二カテゴリ:キャラクター色:赤レベル:0 コスト:0 トリガー:0パワー:3000 ソウル:1特徴:《不良》・《和服》ま、まさか…“出た”んスかね…レア -
伝説の男 完二 - ヴァイスシュヴァルツwiki - ヴァイスシュヴァルツwiki
P4/S08-061カード名:伝説の男 完二カテゴリ:キャラクター色:赤レベル:1 コスト:0 トリガー:0パワー:5000 ソウル:1特徴:《不良》・《魔法》【永】相手 -
あみぐるみマスター完二 - ヴァイスシュヴァルツwiki - ヴァイスシュヴァルツwiki
P4/S08-069カード名:あみぐるみマスター完二カテゴリ:キャラクター色:赤レベル:2 コスト:2 トリガー:1パワー:9000 ソウル:2特徴:《不良》・《魔法》言っとくがなぁ・・・可愛 -
PERSONA4 - ぐぬコラWiki - ぐぬコラWiki
PERSONA4作品情報9枚 主人公(デフォルト名なし) 花村陽介 里中千枝 里中千枝(メガネ) 天城雪子 巽完二 久慈川りせ クマ 白鐘直斗 -
アロミール - 新ポケモン改造@ wiki - 新ポケモン改造@ wiki
アロミール アロマポケモン タイプ くさ むかしは たくさん せいそくしていたがかんきょうが おせんされてしまったためごくいちぶにしか せいそくしていない。 -
八木長かつおせんべい - 34歳結婚詐欺女テンプレ@ ウィキ - 34歳結婚詐欺女テンプレ@ ウィキ
八木長かつおせんべい2009年2月19日 (木)乾燥豆を購入している日本橋の八木長本店さんは、鰹節・乾物屋さんです。これは、焼津産最高ランクのかつおぶしを使ったかつおぶしせんべい。軽く -
ホームランバー - いまこそP4考察 @ Wiki - いまこそP4考察 @ Wiki
ほーむらんばー公式アトラスのコラボ商品。完二とクマの大好物。ちなみにクマは修学旅行先に追いかけてくるためにコレを我慢して金を貯めていた。 -
呼称に関すること - いまこそP4考察 @ Wiki - いまこそP4考察 @ Wiki
ダー花村陽介 ・・・ 花村、花村君、花村先輩、ヨースケ、花ちゃん里中千枝 ・・・ 里中、千枝、千枝先輩、里中先輩、チエチャン天城雪子 ・・・ 天城、雪子、雪子先輩、天城先輩、ユキチャン巽完二 ・・・ 完二、完二君、巽君、カン
