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まといの話 - 折口 信夫 ( おりくち しのぶ )

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  • 死者の書,春のことぶれ 他「折口信夫集」日本近代文学大系46
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  • ◆:折口信夫全集 第13巻 國文學篇7 中公文庫 初版
  • 「折口信夫全集 第一五巻 民俗学篇1」中央公論社 昭和30
  • 「折口信夫全集 第一巻古代研究(國文学篇)」中央公論社 昭和29
  • ◆:折口信夫全集 第14巻 國文學篇8 中公文庫 初版
  • ◆:折口信夫全集 第12巻 國文學篇6 中公文庫 初版
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     一 のぼりといふもの 中頃文事にふつゝかであつた武家は、黙つて色々な為事をして置いた。為に、多くの田舎侍の間に、自然進化して来た事柄は、其固定した時や語原さへ、定かならぬが多い。然るに、軍学者一流の事始めを説きたがるてあひに、其がある時、ある一人のだし抜けの思ひつきによつて、今のまゝの姿をして現れた、ときめられ勝ちであつた。其話に年月日が備はつて居れば居る程、聴き手は咄し手を信用して、互に印判明白に動かぬ物、と認めて来た。明敏な読者は、追ひ書きの日附けが確かなれば確かなるだけ、真実とは、ともすれば遠のきがちになつて居る、様々場合を想ひ起されるであらう。
康正二年の萱振(カヤブキ)合戦に、敵(カタキ)どうしに分れた両畠山、旗の色同じくて、敵御方の分ちのつきかねる処から、政長方で幟をつけたのが、本朝幟の始め(南朝紀伝)と言ふ伝へなども、信ずべくば、此頃が略、後世の幟の完成した時期、と言ふ点だけである。
のぼりはた袖(相国寺塔建立記)と言ふ語(ことば)が、つゆ紐の孔を乳(チ)にした、幟旗風の物と見る事が出来れば、其傍証となる事が出来る訣である。千幾百年前の死語語原が、明らかに辿られて、さのみ遠くない武家の為事に到つては、語の意義さへおぼつかないのは、嘘の様な事実で、兼ねて時代新古ばかりを目安にして、外に山と積まれた原因を考へに置かずに、語原論の値打ちをきめてかゝらうとする常識家に向けての、よい見せしめである。
のぼるは、上へ向けての行進動作であつて、高く飜ると言ふ内容を決して、持つ事は出来ぬ。若し「幟」を「上り」だなど言ふ説を信じて居る方があつたら、「はためく」からの「旗」だと言ふのと一類の、お手軽流儀だ、と考へ直されたい。遥か後に、そらのぼりを立てゝ、陣備へをしたなすみ松合戦記録大友興廃記)があるから、空への上り等いふ、考へ落ちめいた事を、証拠に立てようとする人もあるかも知れぬ。併し遺憾な事には、此頃の幟が、今の幟と似た為立ての物なら「蝉口」に構へた車の力で、引きのぼす筈はない。さすれば、幟だけが「上り」と言ふ名を負ふ、特別の理由はなくなる。思ふに「上り」を語原と主張する為には、五月幟風の吹(フ)き貫(ヌ)き・吹き流しの類を「のぼり」と言うた確かな証拠が見出されてから、復(マタ)の御相談である。今では、既に亡びて了うた武家頃のある地方方言であつたのだらう、としか思案がつかぬのである。

     二 まといの意義

おなじ様な事は、まといの上にもある。火消しのまといばかりを知つた人は、とかく纏(マトヒ)の字を書くものと信じて居られようが、既に「三才図会」あたりにも、※幟・纏幟・円居などゝ宛てゝ、正字を知らずと言うてゐる。併し、一応誰しも思ひつく的(マト)の方面から、探りをおろして見る必要があらう。
的(マト)と言ふ語は、いくはなどゝは違うて、古くは独り立ちするよりも、熟語となつて表現能力が全う出来た様である。又、近代でも、必しもまとおと言ふ形を、長音化する方言的のもの、と言ひきつても了はれぬ様である。尠くとも、的・的居(マトヰ)は一つで、其的居の筋を引いた物が、戦場に持ち出したまといである、と言ふ仮説だけは立ち相である。けれども、纏屋次郎左衛門から、六十四組の町火消し供給した的と謂はゞ言はるべき、形の上の要素を多く具へた、馬簾(バレン)つき、白塗り多面体の印をつけた、新しい物を考へに置いてかゝる事だけは、控へねばならぬ。
徳川氏天下をとつた時分が、まといの衰へ初めと考へても、大した間違ひは無さ相である。「武器短歌図考」を見ると、だし(竿頭の飾り)に切裂き・小馬簾をつけ、竿止め菊綴ぢ風に見える梵天様の物をつけたのが円居で、蝉口に吹き流しをつけたのを馬印(ウマジルシ)としてゐるが、事実は、そんなに簡単に片づく物ではなかつた様である。此は、馬印がまといの勢力を奪うたので、段々まといが忘れられて来た為である。
右に馬印(ウマジルシ)とした物を纏と記した上に、吹き流しを吹き貫きにしたゞけの物を馬印として並べてゐる「弘前軍符」の類もある。此は、まといが忘れられる前に、まづ馬印混同して、馬印は栄えて行き、まといは家によつては、形式の少し変つたさし物の名に、固定して残つたものと見るべきであらう。大様(オホヤウ)は、徳川の初めにはまとい・馬印をごつちやにし、其中頃には、ばれんが馬印の、又の名と言ふ風になつて来たのだ。
思ふに、自身・自分・自身さし物(幣束から旗さし物へ参照)など言ふのが、まといの後の名として、一般に通用したもので、勝手に従うては、家々でまといと言ふ事もあつたのであらう。「三才図会」のまといの絵なども、今の人の考へる纏などゝは全く違うた、三段笠を貫いた棒の図が出してある。此は「甲陽軍鑑」の笠の小まといで見ても知れる様に、まといの中で、類の多い物であつたと見える。
北条家大道寺氏の小まといは、九つ提燈であつた(甲陽軍鑑)。又家康が義直に与へた大纏は、朱の大四半大幅掛に白い葵の丸を書き、頼宣のは、朱の六幅の四半であつて、めい/\其外に、馬印をも貰ひ受けて居る(大阪軍記)。又、同じ書物にある八田菅沼等の人々の天王寺で拾うた円居は、井桁の紋の茜の四半で、別に馬印もあつたのである。

     三 まといとばれんと

諸将から仰望せられた清正のまといは、だしに銀金具のばりんと思はれるものがついてゐる。馬印は別に、白地に朱題目を書いた物である(清正行状記)。此まとい、一にばれんと言はれたさし物の動きが、敵御方の目を※らせた処から、指し物にばれんと言ふ一類が、岐れ出たものと思はれる。
一体ばれんは、後に変化を遂げた形から類推して、葉蘭(バラン)の形だとする説もある様であるが、此は疑ひなく、ばりんである。ねぢあやめとも言ふ鳶尾草(イチハツ)に似た馬藺(バリン)を形つた金具のだしをつけたからの名であらう。棕梠紋所との形似を思はせる此だしは「輪貫(ワヌ)き」を中心にして、風車の様に、四方へ丸形に拡つて居る。唐冠兜の後立ても、此と一類の物であらう。前にも述べた通り神事のさし物には、薄の外に荻・かりやすをも用ゐるから、植物学的の分類に疎かつた古人が、菰・菖蒲鳶尾草などを同類と見て、戦場の笠じるし・さし物にも用ゐた名残りだといふ事も出来よう。
ばれんのだしをつけたまといが名を得た処から、ばれんは此さし物に欠く事の出来ぬ要素と、考へられる様になつたらしい。火消しの纏を馬簾(バレン)といふ訣は、簾の字相応に四方垂れた吹き貫きの旗の手の様なものから出たと言ふが、此をばれんと言ふ事、東京ばかりではなく、大阪でもある事であるが、実は「竿止め」につけたばりんの、吹き貫きと融合を遂げた物と見るべきであらう。摂津豊能郡熊野田(クマンダ)村の祭りのたて物なるがくのだしに吹き貫き形ではなく、四方放射したぶりき作りのばらんと言ふ物がつく。此処にもばりんとだしの関係は見えて居る。金紋葵のだしに、緋のばれんをつけた家康馬印は、後世のまといの手本とも言ふべき物である。此頃既に、まとい・馬印の形式が、混雑して居たとすれば、其使ひ道から見て、此をまといとも言うた事があつたであらう。ばれん・馬印が形式上区別が無くなつても、初めの中は、僅かながら、用途の差違は、知られて居たことゝ考へる。
まといの要素たるばれんや、張り籠の多面体が、後の附加だとすれば、愈|彼(かの)自身たて物と近づくので、旗の布を要素としない桙の末流らしく、益考へられて来る。


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