めでたき風景 - 小出 楢重 ( こいで ならしげ )
奈良公園の一軒家で私が自炊生活していた時、初春の梅が咲くころなどは、静かな公園を新婚の夫婦が、しばしば散歩しているのを私の窓から十分眺めることが出来た。彼ら男女は、私の一軒家の近くまで来ると必ず立ちどまる。そこには小さな池があり、杉があり、梅があり、亭(ちん)があるので甚(はなは)だ構図がよろしいためだろう。
そして誰も見ていないと思って彼ら二人は安心して仲がいいのだ。即ち細君を池の側へ立たせて、も少し右向いて、そうそう少し笑って見い、そやそや、といって亭主はピントを合せるのだが、私はそれらの光景をあまり度々(たびたび)見せられたためか、どうもそれ以来、写真機をぶら下げた紳士を見ると少し不愉快を覚えるのである。どうも写真機というものは実は私も持っているが、一種のなまぬるさを持っていていけない。
しかし、そのなまぬるさを嫌っては、どうも近代の女たちからの評判はよろしくないようだと思う。我々は古い男たちよと呼ばれざるを得ないであろう。
そのなまぬるさを平気でやるだけの新鮮なる修業は、我々明治年間に生年月日を持つ男たちにとっては、かなりの悩みである。
私は巴里(パリ)で、誰れかのアミーと共に自動車に乗る時、うっかりとお先きへ失敬して、アミーたちにその無礼を叱(しか)られがちだった。
いつのことだったか、雨が降りそうな日に、私と私の細君とが公設市場の近くまで来た時、理髪屋の前で細君が転(ころ)んだ、高い歯の下駄(げた)を履(は)いていたのだ。私はその瞬間に大勢の人と散髪屋が笑っているのを見たので、私はさっさと歩いてしまったものだ。起き上って私に追いついた細君は、もうその薄情さには呆(あき)れたといってぶうぶういった。といっておお可哀そうに、などいって抱き上げることは、私の潜在せる大和魂(やまとだましい)という奴がどうしても承知してくれないのだ。
その大和魂の存在がよほど口惜しかったと見えて、東京のNさん夫婦がその後遊びに来た時、細君同士は男子の薄情について語り合った末、その一例として妻は公設市場で転んだ件を話して同情を求めたところ、N夫人は、私の方はもっとひどいのよといった。それは過日市電のすぐ前で雨の日に転んだというのだ。電車は急停車したが、それを見た亭主は、十|間(けん)ばかり向うへ逃げ出したそうだ。命に関する出来事であるにかかわらず逃げるとは如何(いかが)なもので御座いましょうといった。御亭主は、それはあなたと、もじもじしているので私はそれがその、我々の大和魂の現れで、かの弁慶でさえも、この点では上使の段で、鳴く蝉(せみ)よりも何んとかいって悩んでいる訳なんだからといって、すでに錆(さび)かかっている大和魂へ我々亭主はしきりに光沢布巾(つやぶきん)をかけるのであった。
白光と毒素
女給はクリーム入れましょうかとたずねる。どろどろの珈琲が飲みたい日は入れてくれというし、甘ったるいすべてが厭な日はいらないといって断る。考えてみるにどろどろしたクリームを要求する日は元気で心も善良で、どうかすると少しおめでたいけれども、砂糖もなきにがい珈琲を好く日はどうも少し心がひん曲っていることが多いようである。
人間もだんだんどろどろしたものが厭になり、何事もケチがつけてみたくなり、何事にも賛成できなくなり、飛びつく食欲を覚えず、女人の顔を真正面から厚かましく眺めるような年配となってくることは淋しいことだ。
やはり人間はカツレツと甘い珈琲が好きで、なかば霞んでいる方がかわい気はある。あまりに冴えた女性はどうも男達からの評判はよろしくないことが多い。
私自身も近ごろだんだん霞の煙幕の向こう側が意地悪く見えすいて来たりして、なるほどこれかと思い当たるようになって来たことは気の毒だ。でも老人がいつまでも甘ったるくても迷惑なことである。私などは近頃、ついうっかりと美人の鼻の穴の黒き汚れや皺の数とその方向に見惚れたり、その皺によって運勢までも観破しかねまじき眼光の輝きをわれながら感じて来た。
でも、この地球の上はありがたいことにも年に一回は必ずこれは女給ではなく、かの木花開耶姫が一匙のクリームを天上からそそぎかけると、たちまちにして地上の空気はどろどろとなり、甘ったるく、なまぬるく、都会の夕暮をつつみ、あるいは六甲の連山をかすめる。このクリームの毒素は私にも影響する。何かこうじっとしていては罰が当たりそうで、といって一体何をどうすればよいか見当がつかない、といった心もちだ。春過ぎた奴でさえこれだ。今春の最中にいて、この乳色のどろどろの珈琲を飲み込んでは、まったく若き男女は一体どうするのか、私もまた同情に堪えない。
四季を通じて女性はこの世に存在するが、春はまったくこの毒素にあたったものが毒にあたったものを眺めるのだから、気狂いが気狂いを見るのと同じく、まったく女の優劣も美麗も判然と区別する能力を失い勝ちだ。ただ春のそして若き女性からは燦爛たる白光が立ち上り、ただわれわれの眼はぐらぐらとくらむだけである。まったく男達が春における女性を見ると眼はただ二個の無力なレンズであるに過ぎない。
だからわれわれの若き時代の恋愛の手紙の一節を思い出してみるがいい。おお紅薔薇の君よ、谷間の白百合よ、私の女神よ救って下さいと嘆願したりしている。ちっともそれが百合らしくも薔薇でもないのに。
だが、そう見えるところにこの春の毒素の面白さがあるのだ。まったくもって、恥しいことを春には口走るが、それは幸福なたわごととしてお互いに見ぬふりの致し合いをするところに、また春のめでたさもあるようである。
ある写生地の山桜の下で一人の女流画家が、春だわ、春だわ、青春だわ、と叫んで乳色の毒にあたってふらふらしていたのを見たことがあった。今でも春になるとその叫び声とその時の悪寒を思い出す。
とにかく山、河、草木、池、都会、ごみ溜、ビルディングの窓という窓をことごとくこのクリームが包んでしまうと、男の眼はガラスと変じ、若き女性からは悩ましき白光が立ち上る。
舞台では春の踊りやレヴューの足の観兵式である。白光と毒素は充満する。霞を失いつつあるわれわれも、年に一度は開耶姫の珈琲を遠慮なく飲んでおきましょう。
大阪弁雑談
京阪(けいはん)地方位い特殊な言葉を使っている部分も珍らしいと思う。それも文明の中心地帯でありながら、日本の国語とは全く違った話を日常続けているのである。私はいつか、西洋人に対してさえ恥かしい思(おもい)をした事があった。
そして誰も見ていないと思って彼ら二人は安心して仲がいいのだ。即ち細君を池の側へ立たせて、も少し右向いて、そうそう少し笑って見い、そやそや、といって亭主はピントを合せるのだが、私はそれらの光景をあまり度々(たびたび)見せられたためか、どうもそれ以来、写真機をぶら下げた紳士を見ると少し不愉快を覚えるのである。どうも写真機というものは実は私も持っているが、一種のなまぬるさを持っていていけない。
しかし、そのなまぬるさを嫌っては、どうも近代の女たちからの評判はよろしくないようだと思う。我々は古い男たちよと呼ばれざるを得ないであろう。
そのなまぬるさを平気でやるだけの新鮮なる修業は、我々明治年間に生年月日を持つ男たちにとっては、かなりの悩みである。
私は巴里(パリ)で、誰れかのアミーと共に自動車に乗る時、うっかりとお先きへ失敬して、アミーたちにその無礼を叱(しか)られがちだった。
いつのことだったか、雨が降りそうな日に、私と私の細君とが公設市場の近くまで来た時、理髪屋の前で細君が転(ころ)んだ、高い歯の下駄(げた)を履(は)いていたのだ。私はその瞬間に大勢の人と散髪屋が笑っているのを見たので、私はさっさと歩いてしまったものだ。起き上って私に追いついた細君は、もうその薄情さには呆(あき)れたといってぶうぶういった。といっておお可哀そうに、などいって抱き上げることは、私の潜在せる大和魂(やまとだましい)という奴がどうしても承知してくれないのだ。
その大和魂の存在がよほど口惜しかったと見えて、東京のNさん夫婦がその後遊びに来た時、細君同士は男子の薄情について語り合った末、その一例として妻は公設市場で転んだ件を話して同情を求めたところ、N夫人は、私の方はもっとひどいのよといった。それは過日市電のすぐ前で雨の日に転んだというのだ。電車は急停車したが、それを見た亭主は、十|間(けん)ばかり向うへ逃げ出したそうだ。命に関する出来事であるにかかわらず逃げるとは如何(いかが)なもので御座いましょうといった。御亭主は、それはあなたと、もじもじしているので私はそれがその、我々の大和魂の現れで、かの弁慶でさえも、この点では上使の段で、鳴く蝉(せみ)よりも何んとかいって悩んでいる訳なんだからといって、すでに錆(さび)かかっている大和魂へ我々亭主はしきりに光沢布巾(つやぶきん)をかけるのであった。
白光と毒素
女給はクリーム入れましょうかとたずねる。どろどろの珈琲が飲みたい日は入れてくれというし、甘ったるいすべてが厭な日はいらないといって断る。考えてみるにどろどろしたクリームを要求する日は元気で心も善良で、どうかすると少しおめでたいけれども、砂糖もなきにがい珈琲を好く日はどうも少し心がひん曲っていることが多いようである。
人間もだんだんどろどろしたものが厭になり、何事もケチがつけてみたくなり、何事にも賛成できなくなり、飛びつく食欲を覚えず、女人の顔を真正面から厚かましく眺めるような年配となってくることは淋しいことだ。
やはり人間はカツレツと甘い珈琲が好きで、なかば霞んでいる方がかわい気はある。あまりに冴えた女性はどうも男達からの評判はよろしくないことが多い。
私自身も近ごろだんだん霞の煙幕の向こう側が意地悪く見えすいて来たりして、なるほどこれかと思い当たるようになって来たことは気の毒だ。でも老人がいつまでも甘ったるくても迷惑なことである。私などは近頃、ついうっかりと美人の鼻の穴の黒き汚れや皺の数とその方向に見惚れたり、その皺によって運勢までも観破しかねまじき眼光の輝きをわれながら感じて来た。
でも、この地球の上はありがたいことにも年に一回は必ずこれは女給ではなく、かの木花開耶姫が一匙のクリームを天上からそそぎかけると、たちまちにして地上の空気はどろどろとなり、甘ったるく、なまぬるく、都会の夕暮をつつみ、あるいは六甲の連山をかすめる。このクリームの毒素は私にも影響する。何かこうじっとしていては罰が当たりそうで、といって一体何をどうすればよいか見当がつかない、といった心もちだ。春過ぎた奴でさえこれだ。今春の最中にいて、この乳色のどろどろの珈琲を飲み込んでは、まったく若き男女は一体どうするのか、私もまた同情に堪えない。
四季を通じて女性はこの世に存在するが、春はまったくこの毒素にあたったものが毒にあたったものを眺めるのだから、気狂いが気狂いを見るのと同じく、まったく女の優劣も美麗も判然と区別する能力を失い勝ちだ。ただ春のそして若き女性からは燦爛たる白光が立ち上り、ただわれわれの眼はぐらぐらとくらむだけである。まったく男達が春における女性を見ると眼はただ二個の無力なレンズであるに過ぎない。
だからわれわれの若き時代の恋愛の手紙の一節を思い出してみるがいい。おお紅薔薇の君よ、谷間の白百合よ、私の女神よ救って下さいと嘆願したりしている。ちっともそれが百合らしくも薔薇でもないのに。
だが、そう見えるところにこの春の毒素の面白さがあるのだ。まったくもって、恥しいことを春には口走るが、それは幸福なたわごととしてお互いに見ぬふりの致し合いをするところに、また春のめでたさもあるようである。
ある写生地の山桜の下で一人の女流画家が、春だわ、春だわ、青春だわ、と叫んで乳色の毒にあたってふらふらしていたのを見たことがあった。今でも春になるとその叫び声とその時の悪寒を思い出す。
とにかく山、河、草木、池、都会、ごみ溜、ビルディングの窓という窓をことごとくこのクリームが包んでしまうと、男の眼はガラスと変じ、若き女性からは悩ましき白光が立ち上る。
舞台では春の踊りやレヴューの足の観兵式である。白光と毒素は充満する。霞を失いつつあるわれわれも、年に一度は開耶姫の珈琲を遠慮なく飲んでおきましょう。
大阪弁雑談
京阪(けいはん)地方位い特殊な言葉を使っている部分も珍らしいと思う。それも文明の中心地帯でありながら、日本の国語とは全く違った話を日常続けているのである。私はいつか、西洋人に対してさえ恥かしい思(おもい)をした事があった。
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めでたき風景 (めでたきふうけい) のリンク元
- http://atpedia.jp/word/%e3%81%a4%e3%82%8a%e9%9d%a9
- [[biglobe]] 油彩画 奥入瀬
- http://docomo.ne.jp/cp/as-rslt.cgi?pno=1&key=%82%a8%96%da%8fo%93x%82%ab%90l&sid=00
- http://docomo.ne.jp/cp/as-rslt.cgi?pno=1&key=%8fH%82%cc%94%de%8a%dd%82%cc%82%a2%82%e8&sid=00
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FNM@すまいるキング野並店日時:2010年 1月 8日 / 15日 / 22日 / 29日(毎週金曜日)主催: 小出 勝 (DCI認定LV1ジャッジ)場所:本の王国 野並店 2F
