わが戦争に対処せる工夫の数々 関連リンク

坂口 安吾 のオススメ作品

作家別索引

作品別索引

わが戦争に対処せる工夫の数々 - 坂口 安吾 ( さかぐち あんご )

  • 本物浮世絵木版画 日清戦争「平壌大戦争之光景」三枚揃 延一画
  • 同性愛獣姦SM!戦争によって破壊されたセックス「戦争と性」
  • 実録ミッドウェー ドキュメント太平洋戦争史 戦争 軍事
  • VHS ★これがベトナム戦争だ!!★ ドキュメント 戦争記録映画
  • 豊田有恒/パラレルワールド大戦争:SF文学芸初版太平洋戦争自衛隊
  • ★☆ゲームジャーナル第21号 義経/日清戦争/上野戦争☆★
  • ★笠井潔 ヴァンパイヤー戦争全11巻+サイキック戦争2巻 文庫
  • 宗田理 大冒険 七日間戦争 最終戦争 三冊まとめて
  • ☆中国盤☆ VCD 人民解放軍朝鮮戦争記録 「抗美援朝戦争」上・下
  • 超貴重LD★昆虫大戦争(1968)★ 川津祐介 新藤恵美 松竹映画*b
次のページ
 私はこれより一人の男がこの戦争に対処した数々の秘策と工夫人生に就てお話したい。戦争を見物したいといふ人間なら星の数ほどあるであらうが、兵隊になつて自分自身が戦争するといふことになると、これは誰でも尻ごみする。ところが日本には「兵隊になる」といふ言葉常識上は存在せず「兵隊にとられる」と称する通り、こつちが厭だと云つても兵隊にさせられるから仕方がない。こればかりは秘策の施し様もないのである。三月十日の浅草本所(ほんじよ)深川などのやられたやうなことが戦争の始めにあれば、しめた、といふので、死んだふりをしたり、無籍者になつたり、年齢をごまかしたり、余は丁種でござる、といふやうなことを申立てゝ、なんと云つたつて区役所から何から何まで焼けたり死んだりしてゐるのだからビク/\することはない。しかしもうあの期に及んでは手遅れで、大概の若い者が兵隊にとられてしまつた後である。けれども、かういふチャンス人生の正規のコースには有り得ぬので、さういふ場合を待ちもうけて秘策や工夫をたてるわけにはゆかない。だから「兵隊にとられゝば」もう仕方がない。これは工夫の埒外(らちがい)で、諦めざるを得ないのである。
 だから戦争と私との関係第一条は、兵隊にとられゝば仕方なし、といふ絶体絶命の憲章から始まるのである。太平洋戦争の始まつたとき、私は数へ年三十六だ。第二乙だから平時でもまだ兵役義務はあるので、それに私の地方兵隊辛抱づよくて日本でも優秀な部隊だといふ話であるから、私も、もう、兵隊にとられることは免れがたい宿命だと観念せざるを得なかつた。
 そこで私の工夫第一条は、兵隊になつてなるべく死なゝい工夫、といふので、然し、最初に申上げておかねばならぬことは、終戦後みんな急に友好的に太平楽になつて、人道だの敵を愛せなどと云ふけれども、何と云つても戦争本来の性格は殺したり殺されたりすることなので、敵と味方が突貫! といつてぶつかつて、そこでヤアといつて握手したなどゝいふことは決してない。私が如何やうに胸のうちに敵を愛してゐたところで、向ふのトーチカの先様に通じる由はないのだから、どつちの方角から迫撃砲だの機銃だの重砲だの乃至は飛行機爆弾だの、何が来て、いつ成仏するか分らない。だから、絶対に死なゝい工夫といふのは有り得ないので、なるべく死なゝい工夫
 機械力、これはマア仕方がない。これを差引くと、戦争はやゝスポーツに似てくる。急場々々に敏活な運動性肉体反応によつて、逃げたり、穴ボコへ飛びこんだり、これによつていくらか命をもたせることができる。私がかう考へたのは、私は元来スポーツマン運動神経発達してゐるから、肉体の敏活なる反応訓練によつて非常に大きな差を表すことを熟知してゐるからであつた。才能もあるが、又、訓練だ。尤もオリムピック棒高飛の大江選手フィリッピン上陸で人のあんまり死なゝいうちから真ッ先に死んでゐるので、だから「絶対に死なゝい」工夫は有り得ない。
 昭和十七年、十八年、この二年間、私は六月末から十月始めまで、三ヶ月半も郷里新潟市へ行つた。私は殆ど帰郷したことがないのだが、なぜこの年に帰郷したかといふと、名目は長篇小説書きあげるため、といふのだ。南の海に面した東京よりは北の海に面した新潟が涼しさうだから、誰しも一夏新潟長篇書くなどゝ称すると本当だと思ふ。そこで出版元の大観堂まで印税を前渡しによこしたが、実際は、新潟の夏ときたら、ひどい暑さだ。東京よりも遥に暑い気温は低くても感じる暑さがひどいので、湿度が高いのかも知れぬ、それに風がない、特に夜は風が落ちるので、夜と昼の暑さが同じで、夜明けの二時頃からやうやく眠れる涼しさになるのである。東京では日中も裸なら汗のでる日はめつたにないが、新潟では裸でも汗が流れでゝ、それが夜でもさうなのである。だから、仕事などはできる筈はない。私は元々仕事をする気持はなかつた。などゝいふと、いかにも本屋をだまくらがした悪玉のやうだが、万が一にも気がむいて書くことができれば有り難いといふ空頼みの気持はあつたので、大戦争といふ雲の下では万が一でもあればよろしいものだと御承知願ふことにする。
 私は新潟の海で猛訓練をするつもりであつた。私は子供の時から日本海へとびこみ、この海で、又、砂浜で、身体をねり運動神経発達させたので、馬鹿の一つ覚えといふからそれから二十何年もすぎたこの期に及んでも身体訓練といふことを思ふと古巣へ戻つて鍛へようといふ頭の働きにもなるのだが、又一つは、知らない土地では食糧がない、新潟穀倉などゝいふ通り、三ヶ月ぐらゐ居候をしても誰も文句を言はぬぐらゐ米があるのだ。
 朝、昼、夕、三度づゝ海へ行く。雨が降つても、低気圧襲来大暴風雨狂瀾怒濤といふ時でも、風をひいて熱があつても出掛けて行くので、人ッ子一人ゐない狂瀾怒濤にくる/\まかれたり、ぐい/\引きこまれたり、叩きつけられたり押し倒されたり、あまり気持のいゝものではないが、他日輸送船がひつくり返つてみんな死んでも自分だけ助からうといふ魂胆だから、かうして人ッ子一人ゐない暴風雨下、暗澹たる空の下に、波にくる/\まきつけられて叩きつけられてゐると、いつたい外の日本人自殺するつもりなのかな、と自分だけひどく頼もしくなつてくるほどだ。いゝ年をして、と笑ふなかれ。四十五十面さげて二等卒で召集される、それが戦争現実ではないか。
 この新潟の海には、昔、村山臥龍先生といふ水泳術の大家がゐて(私は姓名記憶違ひがあるかも知れぬ。先生の碑は寄居浜(よりいはま)の砂丘の上から日本海を見下してゐる)新潟から佐渡まで泳いだ。新潟の海で遠く佐渡の島影を見て泳いでゐると、私などでも、あゝ泳いで行つてみたいな、と泳げもせぬくせに考へるもので、直線距離三十二|哩(マイル)といはれてゐる。先生佐渡まで泳ぎついたが、さて、又、新潟まで泳いで戻らうと出発して、そのまゝ先生の消息は地上から消えたのである。私が子供の頃教はつた水泳先生方はこの臥龍先生弟子に当られる方々であつた。
 私が二十二三の頃であつたが、夏休み帰省してゐるとき、海軍水泳教官のたしか岩田とかいふ人物新潟佐渡間を泳ぐためにやつてきた。臥龍先生の頃と違つてジャーナリズム時代だから先づ新聞社挨拶する、講演もする、モータアボートをお供につれて出発したが、朝三時といふ出発が四時半頃で、私も夜明けの浜へ見に行つたが、妾だか芸者だか連れてきて、その女に送られて海へはいつて行つた。十六時間で泳ぐつもりだから、ちやうど夕方暗くなるころ着くだらうと何でもないやうに言ひ残したのを私はきいたが、私は此奴(こいつ)はモグリだと思つた。三十二哩を十六時間で泳げる筈がないではないか。一時間に二哩だ。彼はそれを明(あきらか)に見送りの人々に言つた。素人をだますのもいゝ加減にするがいゝ。自由型競泳クロールで千六百|米(メートル)(一哩)だけ全速で泳いでも世界記録二十分以上、大学の一流選手でも二十二三分で泳いでゐる始末だ。


次のページ

坂口 安吾 (さかぐち あんご) 以外のオススメ作品

わが戦争に対処せる工夫の数々 (わがせんそうにたいしょせるくふうのかずかず) のリンク元

「わが戦争に対処せる工夫の数々-坂口 安吾」の関連ページ


関連ページ
Web Services by Yahoo! JAPAN