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わが文学修業 - 織田 作之助 ( おだ さくのすけ )

  • ■ 『日本の文学 中野重治』 近代文学日本文学文学評論 ■
  • 清水義範★日本文学全集第1集/世界文学全集第Ⅰ・Ⅱ期/+おまけ
  • *柄谷行人 日本近代文学の起源 講談社文芸文庫版 文学史 即決
  • 貴重文献「九州文学」・第16・第17号・地方文学 レア・絶版
  • 昭和2年発行 日本文学29 佐藤春夫 里見 改造社 文学
  • q/脇田勇 ある英文学徒の遍歴 英文学者/大学教授の回想記 即決
  • 島尾敏雄 死の棘 日本文学大賞・読売文学賞
  • 片岡良一著作集 第八巻『大正文学研究・昭和文学序説』 中央公論
  • 日本児童文学別冊・過度期の児童文学・昭和55年7月10日発行
  • アメリカ文学思潮史―社会と文学 (増補版)
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 本当に小説勉強をはじめたのは、二十六の時である。それまでは専ら劇を勉強していた。小説は殆んど見向きもしなかったようである。ドストイエフスキイやジイドや梶井基次郎などを読んだほかには、月月の文芸雑誌にどんな小説発表されているかも良く知らなかった。その代り、戯曲は実によく読んだ。しかし、それも学者のようなペダンチック読み方で、純粋戯曲理論というものをつくりだすためにのみ読んでいたようである。こと劇に関する限り、変に理論家であったのは今考えてみるとおかしい。私の純粋戯曲理論から見ると、小説本など形式がだらだらして、なんだか汚らわしいように思われた。高等学校時代のことである。
 高等学校三高山本修二先生伊吹武彦先生など劇に関係のある先生がいて、一緒に脚本朗読会をやって変な声をだしていた。そういう関係から劇に志したのには無論違いないだろうけれど、しかし、中学校の三年生の時の作文に、股旅物の戯曲を書いて叱られたところを見ると、もともと好きだったのだろう。そういえば、たしか小学校の五年生の時にも対話風の綴方を書いていた。彼女だとか少女だとかいう言葉が飛び出したが、それを先生は「かのおんな」「かのおとめ」と訂正して読まれた。
 戯曲ではチェーホフルナアル、ボルトリッシュ、ヴィルドラック岸田国士などが好きで、殆んど心酔したが、しかし、同じクラスに白崎礼三という詩人がいて、これと仲が良く、下宿も同じにしていたくらいだったから、その感化でランボオやヴァレリーマラルメ読み、その雰囲気から戯曲を書いた。従って実に変梃な戯曲を書いていたようだ。十九から二十五まで七年の間に、四つ戯曲を書いた。そのうちの二つは、三高の五年生の時に、もう東京帝大へ行っている友人らとはじめた「海風」という同人雑誌発表したが、問題にされなかった。
 大学へ行かず本郷でうろうろしていた二十六の時、スタンダールの「赤と黒」を読み、いきなり小説書きだした。スタイルスタンダール川端氏、里見氏宇野氏、滝井氏から摂取した。その年二つの小説を書いて「海風」に発表したが、二つ目の「雨」というのがやや認められ、翌年の「俗臭」が室生氏の推薦芥川賞候補にあげられ、四作目の「放浪」は永井龍男氏の世話で「文学界」にのり、五作目の「夫婦善哉」が文芸推薦になった。
 こんなことなれば、もっと早く小説を書いて置けばよかったと、現金に考えた。八年も劇を勉強して純粋戯曲論などに凝っている間に、小説勉強して置けばよかったと、私は未だ読みもせぬ小説家の数を数えて、何か取りかえしのつかぬ気がした。けれど、八年の劇勉強はさすがに私の小説の上に影響を及さなかったわけではない。
 私の戯曲がものにならなかったのは純粋戯曲理論というものをまずつくって置いて、それにあてはめて書こうとしたことも一つの原因だと思った。で、私は小説場合、あらかじめ理論をつくってそれをあてはめるというようなことはしなかった。次に、永年科白苦労していい加減科白に嫌気がさしていたので、小説では会話をすくなくした。なお、文楽科白が地の文に融け合う美しさに陶然としていたので会話をなるべく地の文の中に入れて、全体のスタイルを語り物の形式に近づけた。更に言えば、戯曲の一幕はたいてい三十分か一時間を克明にうつすので時間的に窮屈極まる。そこで、小説では場面場面の描写を簡略にし、年代記風のものを書きたいと思い、既に二作目の「雨」でそれをやった。してみれば、私の小説は、すくなくともスタイルは、戯曲勉強から逆説的に生れたものであると言えるだろう。私の小説の話術は、戯曲科白やりとり呼吸から来ている筈だ。
夫婦善哉」を書くまでは、一人作家とも知己がなかった。原稿を見て貰ったことも教を仰いだこともない。間接に師と仰いだのは、前記の作家たち、ことにスタンダール、そしてそこから出ているアラン。なお、小林秀雄氏の文芸評論はランボオ論以来ひそかに熟読した。
 西鶴を本当に読んだのは「夫婦善哉」を単行本にしてからである。私のスタイル西鶴に似ている旨、その単行本を読んだある人に注意されて、かつて「雨」の形式で「一代男」をひそかに考えていたことはあるにせよ、意外かつ嬉しかった。その頃まだ「一代男」すら通読していなかった私は、あわてて西鶴読みだし、スタンダールについでわが師と仰ぐべき作家であることを納得した。
 私は「世間胸算用」の現代語訳を試み、昨年は病中ながら「西鶴新論」という本を書いた。西鶴読み方は、故山口剛氏の著書より多くを得た。都新聞書評で私のこの書を酷評した人があるが、私はその人たちよりは西鶴を知っている積りである。西鶴スタンダールが似ていることを最初に言ったのは私であるが、これは他日詳しく論ずる。ただ、ここでは、私の西鶴観は「西鶴リアリストの眼を持っていたが、書く手はリアリストのそれではなかった」というテエマから出発していることを言って置こう。これは即ち私にとっては、西鶴大坂人であったということを意味する。もっとも、こう言ったからとて、私は西鶴を狭義の大坂人という範疇の中にせばめる積りはない。私にとって、大阪人とは地理的なものを意味しない。スタンダールもアランも私に大阪人だ。すこし強引なようだが、私は大阪人というものをそのように広く解している。義理人情世界経済世界大阪ではない。元禄大坂人がどんな風に世の中を考え、どんな風に生きたかを考えれば判ることである。


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