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アンドロギュノスの裔 - 渡辺 温 ( わたなべ おん )

  • c08【即】叢書新青年 渡辺温 嘘吐きの彗星◆監修・浜口雄介、谷
  • ◆渡辺啓助、渡辺温、渡辺濟/「新青年」モダニストの影
  • 渡辺啓助・渡辺温・渡辺済 新青年とモダニストの影 W・W・W
  • 渡辺温「アンドロギュノスの裔」(薔薇十字社・1970年初版函付)
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 ――曾て、哲人アビュレの故郷なるマドーラの町に、一人魔法をよく使う女が住んでいた。彼女自分が男に想いを懸けた時には、その男の髪の毛を或る草と一緒に、何か呪文を唱えながら、三脚台の上で焼くことに依って、どんな男をでも、自分寝床誘い込むことが出来た。ところが、或る日のこと、彼女一人若者を見初めたので、その魔法を用いたのだが、下婢に欺かれて、若者髪の毛のつもりで、実は居酒屋の店先にあった羊皮の革袋から※り取った毛を燃してしまった。すると、夜半に及んで、酒の溢れている革袋が街を横切って、魔女の家の扉口迄飛んで来たと云うことである。
 頃日読みさしのアナトール・フランス小説の中にこんな話が出ていた。
 魔女の術をもってしても、なお斯の如きままならぬためしがある。
 だが、たとえば、アメリカ機械靴の左右合わせるのに、ほんの寸法だけで左足の堆積(やま)と右足の堆積とから手当り次第に掴み取りして似合の一対とするように、人間が肢を八本もっていたアンドロギュノスの往古(むかし)に復(かえ)り度い本能からばかりならば、幾千万の男と幾千万の女との適偶性(プロバビリイティ)もまた幾千万と云わなければならない。思うに天のアフロバイテを讃える恋の勝負は造化主の意思の外にあるのであろう。神さまは、ただ十文半の黄皮の短靴の左足は十文半の黄皮の短靴の右足こそ応(ふさ)わしけれ、と思し召すだけに違いない。
 男と女男と女。――たった二種類しかない人間が、何故せつない恋に身を焦がしたりしなければならぬのであろうか?
     *
 Y君が片恋(かたおもい)をした。
 相手は比の頃、ベルクナルにも劣るまいと評判の高い活動写真悲劇女優である。
 それに引きかえてY君は、第三十騎兵連隊勤務の一等安手の下士官身分に過ぎないのだから、この恋に到底望みのなさそうなことを杞虞する程の己惚れさえも持ち合わせない。はじめは当り前のファンで、週末休み日毎に、たとい二度三度見直す同じ狂言であろうとも、きまって彼女の出る映画ばかりを漁っている中に、だんだん彼女の何時も深い愁(かな)しみに隈どられた面輪が、頭の中のスクリインに大写しのようにいっぱいに映ったまま消えなくなったのである。
 こんな身の程を弁えぬ恋をしてしまったことは、容易ならぬ不幸せだ――とY君は考えた。一生、ひそかに恋わたっているだけのことで、それでもいいのだろうか?
 だが、それ以上、Y君にはどう思案するすべもなかった。
 さて、偶(たまたま)、或る休み日に、彼女映画が市内の何処の活動小屋にも掛っていなかったのである。そこで、Y君は諦めがたく、夕景頃から、彼女住居のあたりを散歩してみたい気持に誘われた。Y君は、俳優名鑑に依って、夙に彼女の身元位は諳んじていたのだから。
 悲劇女優住居は、公園松林の中の大きな池の辺にあった。窓に菫色の日覆を取り付けた簡素な木造の二階家が、丈の高い松の木立ちと一緒に、池の面に姿を映していた。Y君は水際のベンチに腰を下すと、長いサーベル柄頭両手を重ね、その上に頤を載せて深い溜息を吐いた。
 Y君は一時間もそんな風にじっとしていた。スクリインやエハガキの上に空しい想いをつのらせているのに比べれば、遣る瀬なさなり不安なり、はるかに本物らしい恋慕の情がはげしく胸をふくらませるのであった。直に水の上の日ざしが薄れて、松の梢に夕風が鳴った。やがて、カタンと窓の開く音がした。Y君はとても真面(まとも)に家を見上げる勇気がなかったので、池の中を覗き込んだ。日覆を取り外しているらしい白い顔が小さく揺いでいた。Y君は軍服背中じゅうを硬わばらせた。窓のその白い顔は、ちょっとY君の方を見ただけで、すぐまた奥へ隠れてしまった。犬を呼んでいる男の子の声がした。しばらくすると、二階でピアノが鳴り初めた。チャイコフスキイのバルカロレである……
 Y君は、それからまた一時間も、じっとそのまま動かずにいた。
 もうすっかり夜になった。
 やさしい窓に薔薇色の灯がついた。
 そして薄いレースの窓帷(カーテン)を時々優雅人影が横切った。
 公園にはアーク・ライトがともった。夜の女の群れが、その中を近づいて来た。
『ちょいと、意気な龍騎兵士官さん。あたし未だやっと十三になったばかりなのよ――』と、抜け落ちてしまって一つかみにも足りない髪を、大きな鴇色のリボンで結んだ女が云った。
 Y君は、そこで、もうこちらの姿を見咎められるおそれもなかったので、威勢よく立ち上がって、窓に向って別れの敬礼をすると、剣と拍車とを鳴らしながら帰って行った。……
 Y君の休日の日課があらためられた。恋(いと)しい人の映画が掛っている時なら、それを見に行くことは云う迄もないが、それは必ず昼の中に切り上げて、夕方からは彼女住居をよそながら眺めるために、公園散歩することにきめた。
 久しいことこの習慣が根気よく保たれた。
 雨降りの休み日が二十一度、その中六度は外套を透して、長靴の中へ流れ込む程の豪雨であった。そんな時には、無論窓にいかめしい目かくしが下りていた。
 霧のために窓の灯が見別け難かったことが十三度。
 風のあまり吹かない地方なのだが、それでも池の水が波立って、四辺の景色を映さなかった日が一ダース。
 散歩季節夕月美しい時分には、沢山の散歩者から自分をあきらかにするために、ハーモニカで時花節(はやりうた)などを奏した。


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