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エゴイズム小論 - 坂口 安吾 ( さかぐち あんご )

  • 名盤★エゴイズム/やしきたかじん★AB'S芳野藤丸メロウ曲収
  • 【新品8cmCD】east cloud★エゴイズム★
  • ★エゴイズムEGOISTファージャケットコート★EMODAMURUASLY好き
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 住友邦子誘拐事件は各方面に反響をよんだが、童話作家T氏は社会一般の道義の頽廃がこの種の悪の温床であると云ひ、子供達が集団疎開によつて人ずれがしたのも一因だと云ふ。朝日の投書欄では、父親吉右衛門氏が信州温泉に遊んでをつて、俺が帰つたところで娘が戻るわけでもないとうそぶいて帰京しなかつたことなど、それ自体がこの事件の真相を語つてをり、住友邦子住友家の娘であるよりも誘拐犯人の妹に生れた方が幸福であつたのだと云つてゐる。これらはいづれも誘拐といふ表面事件を鵜呑みにしただけの批判で、この事件の真の性格理解してゐないやうだ。すべて社会に生起する雑多な事象が常にこの種の安易低俗な批判によつて意味づけられ、人性や人の子たるものの宿命の根柢から考察せられることが欠けてゐるのは、敗戦自体の悲劇よりも更に深刻な悲劇であると私は思ふ。道義の頽廃などと極り文句で片づけるのは文学者場合は特に罪悪的な安易さであらう。
 この事件犯人は彼の誘拐したあらゆる少女に愛されてゐるのである。一様に「やさしいお兄さん」であると云ふ。そしてなぜ愛されてゐるかといふと、この犯人は元来金が欲しかつたわけではないので、純一に少女を愛しいたはつてをり、そのために己れを犠牲にしてゐる。自分は食べずに少女には食べさせてやり、野宿の夜は少女のために終夜蚊を追つてゐるのである。こゝにこの事件の特異な性格が存してをるので、犯行それ自体は利己的なものであつても、少女に対する犯人立場自己犠牲をもつて一貫され、少女喜びと満足が彼自身の喜びと満足であつたと思はれる。彼は半年一緒に暮した潔子には、家へ帰りたければ帰してあげると云つてゐたといふが、すでに少女の帰りたがらないことを見越しての自信からとは云へ、本心からのいたはりもあつたに相違ない。彼は強制してゐない。潔子は御飯をたいてお握りをつくつてくれたが、邦子炊事を知らなかつた。さういふ相違に対しても、自分の便利のために邦子と潔子と同じ働きを強要することはせず、少女個性に即して自分の方を順応させ、自己を犠牲にして意とせぬだけの本来の性格をもつてゐるのである。
 かういふ犯人にかゝつては、潔子や邦子の頭の悪さ、とか、世間知らず、といふことによる説明意味をなさない。あらゆる少女誘拐せられてむしろ充たされ、犯人を慕ひなつかしむに相違ない。
 家庭は親の愛情と犠牲によつて構成された団結のやうだが、実際は因習的な形式的なもので、親の子への献身などは親が妄想的に確信してゐるだけ、却つて子供に服従と犠牲を要求することが多いのである。一般母親子供個性すら尊重せず、A子の長所を以てB子をいましめてゐるもので、盲目的に子への献身愛情を確信してゐるだけ始末の悪い独裁者であると知るべきである。
 何事によらず、真実エゴイストでないといふことは、究極に於ける勝利であるにしても、この現世には容れられない。彼等の自己犠牲現世快楽否定してゐるものではあるが、その意味に於ては自ら充たされてをり、現世苦痛は必ずしも、彼等の苦痛ではない。然し彼等は世の秩序から迫害される。キリストがさうであつた。釈迦もさうだ。彼等の道は荊棘(けいきよく)と痛苦にみたされてゐるが、究極に於て彼等は「勝つ性格」にある。ゴッホもゴーガン芭蕉もさうだ。芸術のために彼等の現世に課せられたものは献身と犠牲であつた。
 すべて偉大なる天才たち、勝利者たちはエゴイストではなかつた、といふことができる。
 然し我々凡夫の道、一般世間人の道はあべこべで、社会秩序共同生活の理念はエゴイストでないことや自己犠牲の如きものを根幹としてをらず、他に害を与へぬ範囲に於て自己の欲望の満足、現世の悦楽をみたすことを基本としてゐるものなのである。キリスト教徒キリスト苦痛を自ら行ふことではなく、キリストの犠牲に於て彼等の現世の幸が約束せられてゐるのだ。我々はキリストが最高の人格であることを知つてゐる。とはいへ、我々すべてがキリストの如き人格であらねばならず、我々の日常生活キリストの如き自己犠牲が要求せられたなら、我々は悲鳴をあげるのみならず、反抗し、革命を起すにきまつてゐる。最高の人格やモラルは我々の秩序にとつては異常であり、その意味に於て罪悪と異るところはない。我々の秩序はエゴイズム基本につくられてゐるものであり、我々はエゴイストだ。
 私は十数年前に一人の女を知つてゐた。人妻であつたが千人の男を知りたいといふ考へをもつてをり、大学生などと泊り歩いてゐた女で、そのうちに離縁され花柳病になつて行き場に窮して私達のアパートの一室へ転がりこんできたので、自分欲望のため以外には人のことなど考へることのない女であるから、男にも女にも友達がなく、行き場がなかつたのである。私達のアパートといふのは東京ではなく、ある地方都市で、私はくされ縁の女とそんなところへ落ちのびてきて人は(私は)なんの為に生きるのであらうかと考へて、その虚しさと切なさに苦悶してゐた。私は毎日図書館へ行つて、仕方なしに本を読んでゐた。自分信頼されず、何か書物の中に私自身の考へごとが書かれてゐないかと、然し、私は本をひらいてボンヤリするだけで本も読む力がなかつたのだ。ころがりこんできた女は花柳病の医者へ通つてゐたが、その医者を口説いて失敗したさうで、ダンスホール毎日男をさがしに行き、毎日あぶれて帰つてきて、ひとりの寝床へもぐりこむ。その冷い寝床へもぐりこむ姿がまるで老婆のやうで色気といふものが微塵もないので、私は暗然たる思ひになつたものだ。
 私はそのとき思つた。男女肉体の場ですら、この女のやうに自分快楽を追ふだけといふことは駄目なのだ、と。マノン・レスコオとか、リエゾン・ダンヂュルーズの侯爵夫人の如き天性の娼婦は、美のため男を惑はすためにあらゆる技術を用ひ、男に与へる陶酔の代償として当然の報酬をもとめてゐるだけの天性の技術者であり、そのため己れを犠牲にし、絶食はおろか、己れの肉慾の快楽すらも犠牲にしてゐるものなのである。かゝる肉慾の場に於ても、娼婦型の偉大なる者はエゴイストではないのである。エゴイストは必ず負ける。家庭がかゝる天性の娼婦に敗れ去るのは如何とも仕方がない。
 芸術世界も亦さうだ、エゴイストであつてはいけない――私はそのころから、エゴイストといふことに今もなほ憑かれてゐるのだが、今もなほ私には皆目わからないのである。私は無償行為といふことを思ひつゞけてきたばかりで、今もなほ私に何も分らないのは無理はない、思ふ世界ではない、行ふ世界なのだからだ。
 人は道義頽廃といふ。だが、彼等の良しとする秩序とはいつたい何物であるのか。


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