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クララの出家 - 有島 武郎 ( ありしま たけお )

  • 出家とその弟子 倉田百三・著 昭和2年 岩波文庫
  • 【★B3-042】 出家とその弟子
  • [KSH]倉田百三☆「出家とその弟子」☆大正11年発行☆即決送料込
  • 新潮文庫406倉田百三『出家とその弟子』昭和34帯
  • 新潮文庫407倉田百三『出家とその弟子』昭和44
  • ★「出家とその弟子」 倉田百三 岩波文庫
  • ■■即決■■ 出家とその弟子  ■■ 倉田百三著■ ◆
  • 文庫◆出家とその弟子◆倉田百三◆'65/12/10初版◆旺文社◆
  • 栗山民也『演出家の仕事』岩波新書 2007年 美品370円即決
  • (岩波文庫)カインの末裔・クララの出家 有島武郎作
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       ○  これも正しく人間生活史の中に起った実際の出来事の一つである。        ○  また夢に襲われてクララは暗い中(うち)に眼をさました。妹のアグネスは同じ床の中で、姉の胸によりそってすやすやと静か眠りつづけていた。千二百十二年の三月十八日、救世主エルサレム入城を記念する棕櫚(しゅろ)の安息日(あんそくび)の朝の事。
 数多い見知り越しの男たちの中で如何(どう)いう訳か三人だけがつぎつぎにクララの夢に現れた。その一人はやはりアッシジ貴族で、クララの家からは西北に当る、ヴィヤ・サン・パオロに住むモントルソリ家のパオロだった。夢の中にも、腰に置いた手の、指から肩に至るしなやかさが眼についた。クララの父親は期待をもった微笑を頬(ほお)に浮べて、品よくひかえ目にしているこの青年を、もっと大胆に振舞えと、励ますように見えた。パオロは思い入ったようにクララに近づいて来た。そして仏蘭西(フランス)から輸入されたと思われる精巧な頸飾(くびかざ)りを、美しい象眼(きんぞうがん)のしてある青銅の箱から取出して、クララの頸に巻こうとした。上品で端麗な若い青年肉体が近寄るに従って、クララは甘い苦痛を胸に感じた。青年が近寄るなと思うとクララはもう上気して軽い瞑眩(めまい)に襲われた。胸の皮膚は擽(くすぐ)られ、肉はしまり、血は心臓から早く強く押出された。胸から下の肢体(したい)は感触を失ったかと思うほどこわばって、その存在を思う事にすら、消え入るばかりの羞恥(しゅうち)を覚えた。毛の根は汗ばんだ。その美しい暗緑の瞳(ひとみ)は、涙よりももっと輝く分泌物の中に浮き漂った。軽く開いた唇(くちびる)は熱い息気(いき)のためにかさかさに乾いた。油汗の沁(し)み出た両手は氷のように冷えて、青年を押もどそうにも、迎え抱こうにも、力を失って垂れ下った。肉体はややともすると後ろに引き倒されそうになりながら、心は遮二無二(しゃにむに)前の方に押し進もうとした。
 クララは半分気を失いながらもこの恐ろしい魔術のような力に抵抗しようとした。破滅が眼の前に迫った。深淵が脚の下に開けた。そう思って彼女は何とかせねばならぬと悶(もだ)えながらも何んにもしないでいた。慌(あわ)て戦(おのの)く心は潮(うしお)のように荒れ狂いながら青年の方に押寄せた。クララはやがてかのしなやかなパオロの手を自分の首に感じた。熱い指先と冷たい金属とが同時に皮膚に触れると、自制は全く失われてしまった。彼女苦痛に等しい表情を顔に浮べながら、眼を閉じて前に倒れかかった。そこにはパオロの胸があるはずだ。その胸に抱き取られる時にクララは元のクララではなくなるべきはずだ。
 もうパオロの胸に触れると思った瞬間は来て過ぎ去ったが、不思議にもその胸には触れないでクララの体は抵抗のない空間傾き倒れて行った。はっと驚く暇もなく彼女は何所(どこ)とも判(わか)らない深みへ驀地(まっしぐら)に陥って行くのだった。彼女は眼を開こうとした。しかしそれは堅く閉じられて盲目(めしい)のようだった。真暗な闇の間を、颶風(ぐふう)のような空気抵抗を感じながら、彼女落ち放題に落ちて行った。「地獄落ちて行くのだ」胆(きも)を裂くような心咎(こころとが)めが突然クララを襲った。それは本統(ほんとう)はクララが始めから考えていた事なのだ。十六の歳(とし)から神の子基督(キリスト)の婢女(しもべ)として生き通そうと誓った、その神聖な誓言(せいごん)を忘れた報いに地獄落ちるのに何の不思議がある。それは覚悟しなければならぬ。それにしても聖処女によって世に降誕した神の子基督の御顔を、金輪際(こんりんざい)拝し得られぬ苦しみは忍びようがなかった。クララはとんぼがえりを打って落ちながら一心不乱に聖母を念じた。
 ふと光ったものが眼の前を過ぎて通ったと思った。と、その両肱(りょうひじ)は棚(たな)のようなものに支えられて、膝(ひざ)がしらも堅い足場を得ていた。クララは改悛者(かいしゅんしゃ)のように啜泣(すすりな)きながら、棚らしいものの上に組み合せた腕の間に顔を埋めた。
 泣いてる中(うち)にクララの心は忽(たちま)ち軽くなって、やがては十ばかりの童女の時のような何事も華やかに珍らしい気分になって行った。突然華やいだ放胆な歌声が耳に入った。クララは首をあげて好奇の眼を見張った。両肱は自分部屋の窓枠に、両膝は使いなれた樫(かし)の長椅子(ながいす)の上に乗っていた。彼女の髪は童女の習慣どおり、侍童(ページ)のように、肩あたりまでの長さに切下(きりさげ)にしてあった。窓からは、朧夜(おぼろよ)の月の光の下に、この町の堂母(ドーモ)なるサン・ルフィノ寺院とその前の広場とが、滑かな陽春の空気に柔らめられて、夢のように見渡された。寺院の北側をロッカ・マジョーレの方に登る阪(さか)を、一つの集団となってよろけながら、十五、六人の華車(きゃしゃ)な青年が、声をかぎりに青春を讃美する歌をうたって行くのだった。


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