ゴールデン・バット事件 - 海野 十三 ( うんの じゅうざ )
1
あの夜更(よふけ)、どうしてあの寂しい裏街を歩いていたのかと訊(き)かれると、私はすこし顔が赭(あか)くなるのだ。
兎(と)に角(かく)、あれは省線の駅の近所まで出て、円タクを拾うつもりで歩いていたのだった。連(つ)れが一人あった。帆村荘六(ほむらそうろく)なる男である。――例の素人(しろうと)探偵の帆村氏だった。
「君の好きらしい少女は、いつの間にやら居なくなったじゃないか」と帆村が云った。
「うむ――」
私は丁度(ちょうど)そのとき、道を歩きながら、その少女のことを胸に描いていたところだったので、ハッとした。あの薔薇(ばら)の蕾(つぼみ)のように愛らしい少女を、帆村に紹介かたがた引張りだした今夜の仕儀(しぎ)だった。それはこの場末(ばすえ)の町にある一軒のカフェの女だった。カフェの女とは云いながら、カフェとは似合わぬ姫君のように臈(ろう)たけた少女だった。
そのカフェは、名前をゴールデン・バットという。入口に例の雌(めす)だか雄(おす)だか解らない二匹の蝙蝠(こうもり)が上下になって、ネオンサインで描き出してあった。一寸(ちょっと)見たところでは、薄汚い極(ご)くありふれたカフェではあったが、私は何ということなく、最初に飛びこんだ夜から気に入ったのだった。それは一ヶ月も前のことだったろう。そのときは私一人だったのだが、その折のことはいずれ話さねばならぬから、後(のち)に譲(ゆず)るとして置いて、さて――
「今夜はコンディションが悪かったよ」と私は、半分は照れかくしに云った。
「そうでも無いさ。大いに面白かった」
「それにもう一人、君に是非紹介したいと思っていた女も休んでいやがってネ」
「うん、うん、君江(きみえ)――という女だネ」
「そうだ、君江だ。こいつと来たら、およそチェリーとは逆数的(ぎゃくすうてき)人物でネ」
「チェリーというのかい、あのミツ豆みたいな子は……」
「ミツ豆? ミツ豆はどうかと思うナ」(あわれ吾が薔薇(ばら)の蕾(つぼみ)よ)――
「え?」
「イヤ其(そ)の君江というのくらい、性能|優(すぐ)れた女性はいないよ。その熱情といい、その魅力といい、更にその能力に於ては、世界一かも知れんぞ。生きているモナリザというのは、正にあの君江のことだ」
と私は、暗がりをもっけの幸(さいわ)いにして、自分でも歯の浮くような饒舌(じょうぜつ)をふるった。
あとは二人とも、鉛(なまり)のように黙って、あの裏街の軒下(のきした)を歩いていった。秋はこの場末にも既に深かった。夜の霧は、頸筋(くびすじ)のあたりに忍びよって、ひいやりとした唇を置いていった。
(遠い路だ――)仰(あお)ぐと、夜空を四角に切り抜いたようなツルマキ・アパートが、あたりの低い廂(ひさし)をもった長家の上に超然と聳(そび)えていた。
と、そのときだった。
「ギャーッ」
たしかギャーッと耳の底に響いたのだが、頭の上に、ひどい悲鳴を聞きつけた。何というか極度の恐怖に襲われたものに違いない叫び声だった。男か女か、それさえ判断しかねるほど、人間ばなれのした声だった。
「ほッ、この家だッ」
と帆村は大地に両足を踏んばり、洋杖(ステッキ)をあげてアパートの三四階あたりを指した。ビールの満(まん)をひいて顔をテラテラ光らせていたモダンボーイの帆村とは異(ことな)り、もうすっかりシェファードのように敏感(びんかん)な帆村探偵になりきっていた。
「どこから行く、道は?」私も咄嗟(とっさ)にもう突っこんでゆく決心をした。
「裏口へ廻って呉れッ。明(あ)いてたら、しっかりせにゃ駄目だぞ」
「君は?」
「表から飛びこむッ。急いで――」
帆村が腰を一とひねりして、尻の隠袋(かくし)から拳銃を取出しながら、早や身体を玄関の扉(ドア)にぶっつけてゆくのを見た。こっちも負けずに、狭い家と家との間に飛び込んだ。飛びこんだはいいが、溝板(どぶいた)がガタガタと鳴るのに面喰(めんく)らった。
露地内(ろじない)の一つ角を曲ると、アパートの裏口に出た。頑丈な鉄棒つきの硝子扉(ガラスドア)が嵌(はま)っていた。そのハンドルに手をかけようとしたとき、なんだか前方の溝板の上をサッと飛び越えていった者があるように感じた。誰か壁の蔭に隠れていたような気がした。私は裏口の方は放って置いて、その影を追い駈けた。
露地をつきぬけると、また細い路地がずッと長く三方に続いていた。私は素早く三つの道を透(す)かしてみたが、猫の子一匹、眼に入らなかった。
気の迷いだったかしら、と私はアパートの裏口へ引返した。ハンドルに手帛(ハンカチ)を被せてグッとひねると、ガチャリと外(はず)れて扉は内部へ開いた。さてはと思って、充分警戒をしながら、すこしずつ滑りこんだ。ところが入ってみると、上の方で大きなものの暴れるガタンガタンとひどい音だ。呻(うな)るような吠えるような声がする――。そこへ突然私の名が呼ばれた。疳高(かんだか)いが、紛(まぎ)れもなく帆村の声だった。
「君の好きらしい少女は、いつの間にやら居なくなったじゃないか」と帆村が云った。
「うむ――」
私は丁度(ちょうど)そのとき、道を歩きながら、その少女のことを胸に描いていたところだったので、ハッとした。あの薔薇(ばら)の蕾(つぼみ)のように愛らしい少女を、帆村に紹介かたがた引張りだした今夜の仕儀(しぎ)だった。それはこの場末(ばすえ)の町にある一軒のカフェの女だった。カフェの女とは云いながら、カフェとは似合わぬ姫君のように臈(ろう)たけた少女だった。
そのカフェは、名前をゴールデン・バットという。入口に例の雌(めす)だか雄(おす)だか解らない二匹の蝙蝠(こうもり)が上下になって、ネオンサインで描き出してあった。一寸(ちょっと)見たところでは、薄汚い極(ご)くありふれたカフェではあったが、私は何ということなく、最初に飛びこんだ夜から気に入ったのだった。それは一ヶ月も前のことだったろう。そのときは私一人だったのだが、その折のことはいずれ話さねばならぬから、後(のち)に譲(ゆず)るとして置いて、さて――
「今夜はコンディションが悪かったよ」と私は、半分は照れかくしに云った。
「そうでも無いさ。大いに面白かった」
「それにもう一人、君に是非紹介したいと思っていた女も休んでいやがってネ」
「うん、うん、君江(きみえ)――という女だネ」
「そうだ、君江だ。こいつと来たら、およそチェリーとは逆数的(ぎゃくすうてき)人物でネ」
「チェリーというのかい、あのミツ豆みたいな子は……」
「ミツ豆? ミツ豆はどうかと思うナ」(あわれ吾が薔薇(ばら)の蕾(つぼみ)よ)――
「え?」
「イヤ其(そ)の君江というのくらい、性能|優(すぐ)れた女性はいないよ。その熱情といい、その魅力といい、更にその能力に於ては、世界一かも知れんぞ。生きているモナリザというのは、正にあの君江のことだ」
と私は、暗がりをもっけの幸(さいわ)いにして、自分でも歯の浮くような饒舌(じょうぜつ)をふるった。
あとは二人とも、鉛(なまり)のように黙って、あの裏街の軒下(のきした)を歩いていった。秋はこの場末にも既に深かった。夜の霧は、頸筋(くびすじ)のあたりに忍びよって、ひいやりとした唇を置いていった。
(遠い路だ――)仰(あお)ぐと、夜空を四角に切り抜いたようなツルマキ・アパートが、あたりの低い廂(ひさし)をもった長家の上に超然と聳(そび)えていた。
と、そのときだった。
「ギャーッ」
たしかギャーッと耳の底に響いたのだが、頭の上に、ひどい悲鳴を聞きつけた。何というか極度の恐怖に襲われたものに違いない叫び声だった。男か女か、それさえ判断しかねるほど、人間ばなれのした声だった。
「ほッ、この家だッ」
と帆村は大地に両足を踏んばり、洋杖(ステッキ)をあげてアパートの三四階あたりを指した。ビールの満(まん)をひいて顔をテラテラ光らせていたモダンボーイの帆村とは異(ことな)り、もうすっかりシェファードのように敏感(びんかん)な帆村探偵になりきっていた。
「どこから行く、道は?」私も咄嗟(とっさ)にもう突っこんでゆく決心をした。
「裏口へ廻って呉れッ。明(あ)いてたら、しっかりせにゃ駄目だぞ」
「君は?」
「表から飛びこむッ。急いで――」
帆村が腰を一とひねりして、尻の隠袋(かくし)から拳銃を取出しながら、早や身体を玄関の扉(ドア)にぶっつけてゆくのを見た。こっちも負けずに、狭い家と家との間に飛び込んだ。飛びこんだはいいが、溝板(どぶいた)がガタガタと鳴るのに面喰(めんく)らった。
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気の迷いだったかしら、と私はアパートの裏口へ引返した。ハンドルに手帛(ハンカチ)を被せてグッとひねると、ガチャリと外(はず)れて扉は内部へ開いた。さてはと思って、充分警戒をしながら、すこしずつ滑りこんだ。ところが入ってみると、上の方で大きなものの暴れるガタンガタンとひどい音だ。呻(うな)るような吠えるような声がする――。そこへ突然私の名が呼ばれた。疳高(かんだか)いが、紛(まぎ)れもなく帆村の声だった。
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