ジャン・クリストフ 05 第三巻 青年 - ロラン ロマン ( )
ジャン・クリストフ
JEAN CHRISTOPHE
第三巻 青年
ロマン・ローラン Romain Rolland
豊島与志雄訳
一 オイレル家
家は沈黙のうちに沈んでいた。父の死去以来すべてが死んでるかと思われた。メルキオルの騒々しい声が消えてしまった今では、朝から晩まで聞こえるものはただ、河の退屈な囁(ささや)きばかりであった。
クリストフは執拗(しつよう)に仕事のうちに没頭していた。幸福になろうとしたことをみずから罰しながら、黙然として憤っていた。哀悼の言葉にもやさしい言葉にも返辞をしないで、傲然(ごうぜん)と構え込んでいた。日々の業務に専心し、冷やかな注意で稽古(けいこ)を授けた。彼の不幸を知ってる女|弟子(でし)たちは、彼の平然さに気を悪くした。けれども苦しみを多少経験したことのある年上の人たちは、そういう外見上の冷淡さが、少年においてはいかなる苦悶(くもん)を隠してることがあるかを、よく知っていた。そして彼を憐(あわ)れんだ。しかし彼は彼らの同情をありがたいとも思わなかった。また音楽さえも、彼になんらの慰謝をも与えなかった。別に喜びの情をも感じないで、義務のようにして音楽をひいていた。あたかも彼は、もはや何事にも興味をもたないことに、もしくはそう思い込むことに、生存の理由をすべて失うことに、それでもなお生存することに、ある残忍な喜びを見出してるかのようだった。
二人の弟は、喪中の家の沈黙に慴(おび)えて、急に外へ逃げ出してしまった。ロドルフはテオドル伯父(おじ)の商館にはいって、伯父の家に住んだ。エルンストの方は、二、三の職についてみた後、マインツとケルンとの間を往復してるライン河の船に乗り込んで、金のほしい時ばかりしか顔を見せなかった。それでクリストフは母と二人きりで、広すぎる家に残ることになった。そして収入の道もわずかだったし、父の死後にわかった若干の負債をも払わなければならなかったので、つらくはあったがついに決心して、もっと質素な安い住居を捜そうとした。
二人は小さな住居を見出した――市場通りのある家の三階で、二、三の室があった。そのあたりは騒々しく、町のまん中になっていて、河や樹木や、あらゆる親しい場所から、だいぶ隔っていた。しかし感情よりも理性に従わなければならなかった。そしてクリストフは、苦しみたいという悲痛な欲求を満たすのにいい機会を得た。そのうえ、家主(いえぬし)のオイレル老書記は、祖父の友人で、クリストフ一家の者を知っていた。ルイザは、がらんとした家の中にしょんぼりしていて、自分の愛した人々のことを覚えていてくれる者をたまらなく懐(なつか)しがっていたので、右の一事ですぐそこに住もうと心をきめた。
二人は引越しの仕度(したく)をした。永久に去ろうとする悲しいまた懐しい家庭で過す最後の日々の苦(にが)い憂愁を、彼らはしみじみと味わった。心の悲しみを言いかわすこともほとんどできかねた。それを口に出すことが、恥ずかしかったしまた恐ろしかった。どちらも、心弱さを見せてはいけないと考えていた。雨戸を半ば閉めた侘(わび)しい室で、ただ二人で食卓につきながら、高い声をするのも憚(はばか)り、急いで食事をし、顔を見合わすことも避けて、心痛の情を隠そうとばかりしていた。食事が済むとすぐ別々になった。クリストフはまた仕事に出かけていった。しかしちょっとでも隙(ひま)があると、家にもどって来て、ひそかにはいってゆき、自分の室か屋根裏かに、爪先(つまさき)立って上っていった。そして扉(とびら)を閉め、古い鞄(かばん)の上や窓縁の上など、片隅(かたすみ)にすわって、そのままじっと何にも考えないで、少しの足音にも震えるような古い家のそれともない物音に、心を浸すのであった。彼の心もその家のように震えていた。家の内外の空気の流れ、床板の軋(きし)り、聞きなれたかすかな物音、それらを気懸(きがか)りそうに窺(うかが)った。どれにも皆聞き覚えがあった。彼はぼんやり意識を忘れて、頭には過去の面影が立ち乱れていた。サン・マルタン会堂の大時計の音が聞えると、惘然(ぼうぜん)としていたのから我れに返って、また出かける時間であることを思い出すのだった。
階下(した)には、ルイザの足音が静かに行ったり来たりしていた。幾時間もその足音の聞えないことがあった。彼女は何の物音もたてなかった。クリストフは耳をそばだてた。大きな災いの後には長く不安が残るが、やはり彼も多少不安な気持で、階下に降りて行った。扉を少し開いてみると、ルイザはこちらに背を向けていた。戸棚(とだな)の前にすわって、まわりに種々な物を取り散らしていた。襤褸(ぼろ)や、古着や、半端な物や、形見の品などで、片付けると言っては取り出してるのだった。彼女には片付ける力も失(う)せていた。ひとつひとつの物が皆何かの思い出の種となった。
クリストフは執拗(しつよう)に仕事のうちに没頭していた。幸福になろうとしたことをみずから罰しながら、黙然として憤っていた。哀悼の言葉にもやさしい言葉にも返辞をしないで、傲然(ごうぜん)と構え込んでいた。日々の業務に専心し、冷やかな注意で稽古(けいこ)を授けた。彼の不幸を知ってる女|弟子(でし)たちは、彼の平然さに気を悪くした。けれども苦しみを多少経験したことのある年上の人たちは、そういう外見上の冷淡さが、少年においてはいかなる苦悶(くもん)を隠してることがあるかを、よく知っていた。そして彼を憐(あわ)れんだ。しかし彼は彼らの同情をありがたいとも思わなかった。また音楽さえも、彼になんらの慰謝をも与えなかった。別に喜びの情をも感じないで、義務のようにして音楽をひいていた。あたかも彼は、もはや何事にも興味をもたないことに、もしくはそう思い込むことに、生存の理由をすべて失うことに、それでもなお生存することに、ある残忍な喜びを見出してるかのようだった。
二人の弟は、喪中の家の沈黙に慴(おび)えて、急に外へ逃げ出してしまった。ロドルフはテオドル伯父(おじ)の商館にはいって、伯父の家に住んだ。エルンストの方は、二、三の職についてみた後、マインツとケルンとの間を往復してるライン河の船に乗り込んで、金のほしい時ばかりしか顔を見せなかった。それでクリストフは母と二人きりで、広すぎる家に残ることになった。そして収入の道もわずかだったし、父の死後にわかった若干の負債をも払わなければならなかったので、つらくはあったがついに決心して、もっと質素な安い住居を捜そうとした。
二人は小さな住居を見出した――市場通りのある家の三階で、二、三の室があった。そのあたりは騒々しく、町のまん中になっていて、河や樹木や、あらゆる親しい場所から、だいぶ隔っていた。しかし感情よりも理性に従わなければならなかった。そしてクリストフは、苦しみたいという悲痛な欲求を満たすのにいい機会を得た。そのうえ、家主(いえぬし)のオイレル老書記は、祖父の友人で、クリストフ一家の者を知っていた。ルイザは、がらんとした家の中にしょんぼりしていて、自分の愛した人々のことを覚えていてくれる者をたまらなく懐(なつか)しがっていたので、右の一事ですぐそこに住もうと心をきめた。
二人は引越しの仕度(したく)をした。永久に去ろうとする悲しいまた懐しい家庭で過す最後の日々の苦(にが)い憂愁を、彼らはしみじみと味わった。心の悲しみを言いかわすこともほとんどできかねた。それを口に出すことが、恥ずかしかったしまた恐ろしかった。どちらも、心弱さを見せてはいけないと考えていた。雨戸を半ば閉めた侘(わび)しい室で、ただ二人で食卓につきながら、高い声をするのも憚(はばか)り、急いで食事をし、顔を見合わすことも避けて、心痛の情を隠そうとばかりしていた。食事が済むとすぐ別々になった。クリストフはまた仕事に出かけていった。しかしちょっとでも隙(ひま)があると、家にもどって来て、ひそかにはいってゆき、自分の室か屋根裏かに、爪先(つまさき)立って上っていった。そして扉(とびら)を閉め、古い鞄(かばん)の上や窓縁の上など、片隅(かたすみ)にすわって、そのままじっと何にも考えないで、少しの足音にも震えるような古い家のそれともない物音に、心を浸すのであった。彼の心もその家のように震えていた。家の内外の空気の流れ、床板の軋(きし)り、聞きなれたかすかな物音、それらを気懸(きがか)りそうに窺(うかが)った。どれにも皆聞き覚えがあった。彼はぼんやり意識を忘れて、頭には過去の面影が立ち乱れていた。サン・マルタン会堂の大時計の音が聞えると、惘然(ぼうぜん)としていたのから我れに返って、また出かける時間であることを思い出すのだった。
階下(した)には、ルイザの足音が静かに行ったり来たりしていた。幾時間もその足音の聞えないことがあった。彼女は何の物音もたてなかった。クリストフは耳をそばだてた。大きな災いの後には長く不安が残るが、やはり彼も多少不安な気持で、階下に降りて行った。扉を少し開いてみると、ルイザはこちらに背を向けていた。戸棚(とだな)の前にすわって、まわりに種々な物を取り散らしていた。襤褸(ぼろ)や、古着や、半端な物や、形見の品などで、片付けると言っては取り出してるのだった。彼女には片付ける力も失(う)せていた。ひとつひとつの物が皆何かの思い出の種となった。
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