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チロルの旅 - 岸田 国士 ( きしだ くにお )

  • ◆本◇現代日本文学全集33 S30発行 豊島與志雄/岸田國士 q
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岸田國士 ヴェロナ  なるほど、………………………………。  これがロメオとジュリエットの墓だな。大理石の棺には蓋がない。名刺がいつぱい投げ込んである。
 シェイクスピイヤの胸像が黒い蔦の葉の間からのぞいてゐる。
 そこで、絵はがきを売つてゐる。


トレント

 こんどはダンテの立像だ。見てゐると頸が痛くなる。

 オースタリイ軍に殺されたイタリイの薬剤師憂国志士と呼んでゐる。

 ――暑い。何といふ乾ききつた街(まち)だ。


ボルツァノ

 昨日まではボオツン。――南部チロルの古都
 ホテルの食堂が暗い。


アルト・ボルツァノ

 高原の涼気を、まづ、胸いつぱいに吸ひ込む。
 ××××夫人山荘を訪れる。――だしぬけではおわかりになりますまい。この婦人は、東京で生れ、ロンドンで育ち、ウィーンとパリで教育受け、バヴァリヤの士官に嫁ぎ、やもめとなつて、このチロルを永住の地に選んだのです。
「ほんとに、あたくし、日本が懐かしくつて……」
 それで、日本子守唄を歌ひます。花咲爺の噺をおぼえてゐます。それから……。
 ――おや、どうしてそんな顔をなさるのです。


メラノ

 メラナアホフ、ブリストル、ベルヴュウ、サヴワ、パラス……。
 ――よろしい、ホテルなら、もう取つてある。

 林檎はまだ小さく、葡萄はまだ硬い

 アヂヂ川をさしはさむアスファルト遊歩道路(プロムナアド)、朝顔のやうな日傘行列
 音楽堂の「アイーダ」はアルプス猟歩兵聯隊の示威演奏
 フランネルのズボンが大股毛糸頭巾(ポネエ)を追ひかける。

「御紹介いたします、こちらは、なんとかモンチ公爵夫人、こちらは、なんとかスキイ伯爵
 ウイ……ダア……シイ……ヤア……イエス……さやう、さやう、こいつはたまらない。


トラフォイ

 海抜三千五百メートル。チロル・アルプスの絶頂。
 世紀は星の如く流れる
未来」そのものゝ如き低雲に囲まれた広漠たる大氷原に、君は、たゞ一人、立つたことがあるか。
 ――痛い、誰だ、豆をぶつけるのは。


インニツヘン

 国境の上で草を食ふ牝牛、お前が尻尾を向けてゐる方がイタリイだらう?
 返事をしないな。それでは、あのキリスト十字架像に訊(き)かう。


シュワルツェンスタイン

 ローマの古城、今は、何とか公爵隠遁所。
 金髪少女が、乳桶を提げて出て来る。
 もう、鶏頭の花が咲いてゐる。


再びメラノ

 ドクトルC……の療養院(サナトリウム)はこゝだ。
 あの男はまだゐるだらうか。
 ――居る。窓に写真乾板(たねいた)が乾かしてある。

「あたしは、どうしてかう人の名を忘れるんだらう。握手なら百度散歩なら三十度、踊りなら六七度接吻なら三度しなければ覚えない。」――と、ブカレストから来た女優といふのが云ふ。
 わたしはどうだらう。

 幸ひなことに、わたしの部屋は、たつた一つ離れて、三階の廊下のつきあたりにある。わたしのところに来るものゝ足音でなければ聞えない。

 食堂へ花束を売りに来る娘がゐる。


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