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ナポレオンと田虫 - 横光 利一 ( よこみつ りいち )

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        一  ナポレオンボナパルトの腹は、チュイレリーの観台の上で、折からの虹(にじ)と対戦するかのように張り合っていた。その剛壮な腹の頂点では、コルシカ産の瑪瑙(めのう)の釦(ボタン)が巴里(パリー)の半景を歪(ゆが)ませながら、幽(かす)かに妃(きさき)の指紋のために曇っていた。
 ネー将軍ナポレオンの背後から、ルクサンブールの空にその先端を消している虹の足を眺(なが)めていた。すると、ナポレオンは不意にネーの肩に手をかけた。
「お前はヨーロッパ征服する奴は何者だと思う」
「それは陛下が一番よく御存知でございましょう」
「いや、余よりもよく知っている奴がいそうに思う」
何者でございます」
 ナポレオンは答の代りに、いきなりネーのバンドの留金がチョッキの下から、きらきら夕映(ゆうばえ)に輝く程強く彼の肩を揺(ゆ)すって笑い出した。
 ネーにはナポレオンのこの奇怪な哄笑(こうしょう)の心理がわからなかった。ただ彼に揺すられながら、恐るべき占(うらない)から逃(の)がれた蛮人のような、大きな哄笑を身近に感じただけである。
陛下、いかがなさいました」
 彼は語尾言葉のままに口を開(あ)けて、暫(しばら)くナポレオンの顔を眺めていた。ナポレオンの唇(くちびる)は、間もなくサン・クルウの白い街道の遠景の上で、皮肉な線を描き出した。ネーには、このグロテスクな中に弱味を示したナポレオンの風貌(ふうぼう)は初めてであった。
陛下、そのヨーロッパ征服する奴は何者でございます?」
「余だ、余だ」とナポレオンは片手を上げて冗談を示すと、階段の方へ歩き出した。
 ネーは彼の後から、いつもと違ったナポレオンの狂った青い肩の均衡を見詰めていた。
「ネー、今夜はモロッコの燕(つばめ)の巣をお前にやろう。ダントンがそれを食いたさに、椅子から転がり落ちたと云う代物(しろもの)だ」

        二

 その日のナポレオンの奇怪な哄笑に驚いたネー将軍感覚は正当であった。ナポレオンの腹の上では、径五寸の田虫が地図のように猖獗(しょうけつ)を極(きわ)めていた。この事実を知っていたものは貞淑無二な彼の前皇后ジョセフィヌただ一人であった。
 彼の肉体植物の繁茂し始めた歴史の最初は、彼の雄図を確証した伊太利(イタリー)征伐のロジの戦の時である。彼の眼前で彼の率いた一兵卒が、弾丸に撃ち抜かれて顛倒(てんとう)した。彼はその銃を拾い上げると、先登を切って敵陣の中へ突入した。彼に続いて一大隊が、一聯隊が、そうして敵軍は崩れ出した。ナポレオンの燦然(さんぜん)たる栄光はその時から始まった。だが、彼の生涯を通して、アングロサクソンのように彼を苦しめた田虫もまた、同時にそのときの一兵卒の銃から肉体へ移って来た。
 ナポレオンの田虫は頑癬(がんせん)の一種であった。それは総(あら)ゆる皮膚病の中で、最も頑強(がんきょう)な痒(かゆ)さを与えて輪郭的に拡がる性質をもっていた。掻(か)けば花弁を踏みにじったような汁が出た。乾(かわ)けば素焼のように素朴な白色を現した。だが、その表面一度爪が当ったときは、この湿疹(しっしん)性の白癬(はくせん)は、全図を拡げて猛然と活動を開始した。
 或る日、ナポレオン侍医を密(ひそ)かに呼ぶと、古い太鼓の皮のように光沢の消えた腹を出した。侍医は彼の傍(そば)へ、恭謙な禿頭(はげあたま)を近寄せて呟(つぶや)いた。
「Trichophycia, Eczema, Marginatum.」
 彼は頭を傾け変えるとボナパルトに云った。
閣下、これは東洋の墨をお用いにならなければなりません」
 この時から、ナポレオンの腹の上には、東洋の墨が田虫の輪郭に従って、黒々と大きな地図描き出した。しかし、ナポレオンの田虫は西班牙(スペイン)とはちがっていた。彼の爪が勃々(ぼつぼつ)たる雄図をもって、彼の腹を引っ掻き廻せば廻すほど、田虫はますます横に分裂した。ナポレオンの腹の上で、東洋の墨はますますその版図を拡張した。あたかもそれは、ナポレオン軍馬が破竹のごとくオーストリア領土侵蝕(しんしょく)して行く地図の姿に相似していた。――この時からナポレオンの奇怪な哄笑は深夜部屋の中で人知れず始められた。
 彼の田虫の活動ナポレオンの全身を戦慄(せんりつ)させた。その活動の最高頂は常に深夜に定っていた。彼の肉体毛布の中で自身の温度のために膨張する。彼の田虫は分裂する。彼の爪は痒さに従って活動する。すると、ますます活動するのは田虫であった。ナポレオンの爪は彼の強烈な意志のままに暴力を振って対抗した。しかし、田虫には意志がなかった。ナポレオンの爪に猛烈な征服慾があればあるほど、田虫の戦闘力紫色を呈して強まった。全世界を震撼(しんかん)させたナポレオンの一個の意志は、全力を挙(あ)げて、一枚の紙のごとき田虫と共に格闘した。しかし、最後にのた打ちながら征服しなければならなかったものは、ナポレオンボナパルトであった。彼は高価な寝台彫刻に腹を当てて、打ちひしがれた獅子(しし)のように腹這(はらば)いながら、奇怪な哄笑を洩(もら)すのだ。
「余はナポレオンボナパルトだ。余は何者をも恐れぬぞ、余はナポレオンボナパルトだ」
 こうしてボナパルトの知られざる夜はいつも長く明けていった。


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