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バラルダ物語 - 牧野 信一 ( まきの しんいち )

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俺は見た 痛手を負へる一頭の野鹿が オリオーンの槍に追はれて 薄明(うすあけ)の山頂(みね)を走れるを ――あゝ されど 古人(いにしへびと)の嘆きのまゝに 影の猟人なり 影の野獣なり  日照りつゞきで小川の水嵩が――その夕暮時に、この二三日来の水車(みづぐるま)の空回りを憂へたあまり、蝋燭のやうにめつきりと耄碌してしまつた私と此の水車小屋の主人であるところの雪太郎と、ふるへる腕を堪えて水底深く水深計を立てゝ見ると、朝に比べて更に五寸強の減水であつた。――私は、風穴に吸ひ込まれるやうな心細い悪寒を覚えながら、水面に首垂れて深い吐息を衝くと、不図自分の顔が、青空を浮べた水鏡の中にはつきりと映つてゐた。いつもいつも上手(かみて)の年古りた柳の影で、不断に轟々然たる物凄まじい響きを挙げて回り続けてゐる水車であつたから、このあたりの流れは白く泡立ち煮えくり返つてゐるすがたで、ものゝ影が映るなどゝは思ひも寄らぬのに――嗚呼、そこには私と雪太郎上半身が微風(そよかぜ)の気合ひも知らずに、あざやかに生息してゐる。きよとんとして、水面を見あげてゐる。まさしく二体のニツケルマン(河童)に違ひなかつた。で、私は、もの珍らし気に、ものゝ怪(け)の顔つきを見定めてやらうと思つて、呑めるまで程近く水面に顔をおしつけて凝つと閣魔の眼(まなこ)を視張つた途端に、キラキラキラと突然水鏡が砕け散つた。
 柳の影を振り返つて見ると、水面と殆んどすれ/\になつてゐる水車が、乾いた喉に泉の雫を享けたやうに、物狂ほしく廻転を貪りはじめてゐた。
 私と雪太郎は、汀の葦の中にどつかりと胡坐をして、思はずそろつた動作で鉄の棒を持ちあげるほどの重々しい思ひで徐ろに腕組をすると、黙々として胸を張つた。
 柳の木の間から真向きにあたる川上の、恰度流れが悠やかに曲らうとしてゐるところに水門が構へてゐる。――見ると、水門の両端に二人の男が馬乗りになつて、此方を向いて腕を挙げながら切りと何か喚いてゐたが、水車の音にさへぎられて一向に声はとゞかなかつた。その腕の振り動かし具合は、見へざる敵の剣に、今や見事な|巻き落し(ヴオレイ)を喰はして馬上ゆたかに快哉の叫びを挙げてゐる颯爽たる騎士の姿に私の眼に映つたりした。二人の人物は雪太郎の父上である雪五郎と弟の雪二郎である。二人は、終日、水門の両端に相向ひ合つて、水を溜めては堰を切り、流してはまた門を閉ぢて水を溜める仕事に没頭してゐるのである。雪五郎は八十歳に近い年輩であつたが、楽々と斯る労働に堪へ得る程の健康の持主である。私も一度、試みに水門番にたづさはつて見たこともあるが、いざ堰を切る段になつて閂を引き、把手を肩にして満身の力を持つて開門しようとしても、曳哉/\と叫ぶ掛声ばかりが水車の騒ぎよりも壮烈に鳴り渡るばかりで、打たうが叩かうが、それは私にとつては永遠に開かずの扉であつた。加けに私は空力があまつて肩を滑らし、あはやと云ふ間もなく真つさかさまに水中目がけて不慮のダイビングを試み、危うく溺死しかゝつたところを雪五郎に救助された。毎晩/\雪五郎父子と共に囲炉裡のまはりに集つて私も盃を執りあげるのであるが、さま/″\な債権者がおし寄せて来て彼等はもう私達の平身叩頭の詫びも聞き倦きて、明日にもこの古呆けた水車小屋を乗つとらうとする勢ひであつた。
「雨が降りさへすれば、忽ち車は回り出すんでございます。どうぞ、それまでお待ち下さい。今、その俵を持つて行かれては、今夜にでも恵みの雨が降り出して、いざ車が回りはぢめたとしても、それこそ私どもの臼は空つぽのまゝで、杵に打たれて割れてしまふより他に道はございません。」
 雪太郎が、畳に頭をすりつけて涙ながらに詫言を述べると、私たちのまはりに車がゝりの陣立でぐるりと勢ぞろひをしてゐるむくむくとむくれあがつた雷共の中から、中でも獰猛地主のアービスが腕まくりをしながらすゝみ出たかとおもふと、いきなり物をも云はず拳骨玉を振りあげて雪太郎の頭をぽかりとなぐつた。そして、役者のしぐさよりも役者らしく真に迫つた怖ろしい憎みの見得を切つて、
「えい、この空つぽの臼頭奴が――」
 とほき出した。――「こばから皆な杵に打たれて死んでしまやがれツ。」
 それに続いてアービスの従者のアヌビスが、自慢のねぢくれ腕を、ぬつと、今度は、父親の雪五郎の鼻の先に突きつけて、
「金が返せないといふんなら、うちの若旦那御所通りに、うぬの娘をお妾奉公に出すが好いや。何も奉公に出したからと云つて、とつて喰はうと云ふんぢやない。斯んなぶつつぶれ小屋で、喰ふや喰はずの暮しをしてゐる貧乏娘が、俺らのうちの若旦那のお情けを蒙るなんて、夢にもない大した出世ぢやねえか、そんな妙佳も知らずに、一体娘は何処にかくしてしまやがつたんだい。やい、やい、やい、さあ、ぬかせ、娘の在所(ありか)を云やあがれえ。俺達一同は、手前達のぺこぺこお辞儀体操を見物に来たんぢやないぞや――やい、この米搗きばつたの老ぼれ野郎奴!」
 と、まことに(立板に水を流すやうに)ぺらぺらとまくし立てるのであつた。私は、立板に水を流すやう――といふ形容詞に不図出遇ふと、何とまあ見る間に、小川流れがさんさんと水嵩を増して節も長閑水車回りはじめた光景が、ありありと眼の先へ浮びあがつて、胸が一杯になつた。思はず私は、眼を閉ぢて有り難い光景にふら/\と迷ひ込まうとした途端に、
「そつちの隅の大先生!」
 と呼び醒された。見ると、それは米俵に大股をひろげてふんぞり反つてゐる鼻曲りのガラドウである。奴は泥棒である。昼間は、地味ネクタイなどを結び、胸にはさんらんたる金鎖を輝やかせて町の銀行接待係などゝいふ紳士的な業務にたづさはつてゐる癖に、夜になると、云はゞ昼間のつけ鬚はかなぐり棄てゝ狐の性に反つて不思議な活躍に躍り出すのだ。現に私の或る彼の性と似通つた叔父貴と共謀して、私の死んだ父親が、愚かであればあるほどいとしい私の行末の生活を案じた上に数百町歩に渡るものゝ見事な蜜柑山を遺しておいたのを、私の老母をたぶらかして「私」の印形を手込めにして「負債証書」を捏造したとかといふ話だ。私は、断じて、そんな「山」などゝいふものゝ所有権に関心は持たぬのであるが、秋口から冬にかけてこの竜巻村の三方をとり囲む蜜柑山の壮麗な色彩りを見渡して野遊びの快を貪る日などに、番小屋の窓から叔父やガラドウが大きな眼を視張つて、蜜柑泥棒監視をしてゐる姿を見ると、慌てゝ踵を回さずには居られなくなるのであつた。私は彼等の物慾を卑しむわけではなかつたが、その一味に肉親の者が加はつてゐるのを知つてしまつた事に鬱陶しさを覚ゆるのであつた。――ところで、このガラドウは、そんな類ひの所業が寧ろ仕事であつて、今では、山を越えた隣り町に住む私の叔父屋敷つゞきの桃林の中にバンガロウ式の館を建てゝ、美しい妾を囲つてゐる。それは余談であるから説明を元に返すが、ガラドウといふのは私が与へた仇名であつて、つまり狐頭の化物の意味である。本来の和名は――此処に述べる要もないが桐渡鐐之助を、自ら最近、鐐通と改めてゐる。理由は解らぬのだが、私も考へたこともないが、姓名判断に従つた由である。それと同じく、地主のアービスは牛頭、従者のアヌビスは犬頭――共に私の命じた名前である。
「ねえ、先生。」
 桐渡ガラドウは、さう繰り返しながら、自分の眼の方が米俵に腰掛けてゐるのだから、雪五郎の隣りに坐つてゐる私のよりは、はつきりと上段に据つてゐるのに、その視線をぐねりと波型にしやくりあげて、逆に、下から上へ私の頤をおしあげるやうに見あげるのであつた。私が彼に、鼻曲りといふ形容詞を冠したのは、彼の野蛮皮肉味を抽象的に指さしたのであつて、実物の彼の鼻は、いつも私に昔噺の中にある業慾者の鼻にぶらさがつたといふソーセージ想像させる態の、赤味の滲んだ肉附き豊かな、何とも憎たらしいごろん棒であつて、決して曲つてゐるといふわけ合ひではない。大先生とか、先生とか、何うかすると博士さん――などゝ彼は私を呼ぶので、もうせんには私は、真実彼が私を尊敬して斯く称ぶのかと思ひ、うつら/\として一処に茶屋酒を飲んだり、色紙を書いて贈呈したり、また、印判を証書見たいなものに捺したり、したこともあつたが、それは未だ私が彼にガラドウなどゝいふ仇名を付けぬ時分で、彼が屡々口にする通りに私の親友だと思つてゐたのだが、或時彼が、
「この判さへ捺させてしまへば此方のものだ。――薄のろ野郎奴が、好い気になつて斯んなものを書きやあがつて……」
 さう嘲笑して、私の蔭で折角不得意の筆を執つて私が揮毫したところの、愛唱歌であるから何時でも私は空で覚えてゐるのだが、ちぎれちぎれに雲まよふ、夕べの空に星一つ、光りはいまだ浅けれど、想ひ深しや空の海、あゝカルデヤの牧人が、汝(なれ)を見しより四千年、光りは永久(とは)に若くして、世はかくまでに老ひしかな……云々以下三|聯(スタンザ)から成るゲルマン族の牧歌を、奴は、滅茶苦茶にひつちやぶいて、マメイドといふ私が好意を寄せてゐる居酒屋の娘の頭に雪と散らした。その由を私はマメイドから聞いて、非常自尊心を傷けられた。また彼は、マメイドに向つて、彼が私を目して、三通りの尊称を使ふのは、
「大馬鹿先生」――「自惚博士さん」――「貧棒の大先生」といふ意味なのだ――。
「それを知らないで、好い気になつて小鼻をふくらませてゐる格構と云つたら……」
 そんなことを云つて、ひとりで腹を抱へてゲラゲラと笑ひころげた――。
先生、あたしは、ふんとに口惜しかつたわ、先生とあたしと仲が好いことを、あいつと来たら飛んでもない風に思ひ違へて、あんな博士とは喧嘩をしてしまへ、そして、俺と好い仲にならうではないか――だつて!」
 河原で摘んだ花束を携へて私を訪れたマメイドが、悲しみに首垂れながらそのやうなことを伝へたことがある。


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