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バルザックについてのノート - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )

  • 【書籍】バルザック『バルザック芸術/狂気小説選集 3』
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  • H・ド・バルザック セラフィタ 世界幻想文学大系 国書刊行会
  • バルザック:水野亮訳:海辺の悲劇 他三編
  • A/岩波文庫 谷間のゆり 下巻 バルザック
  • ●東京創元社 【バルザック全集15冊(抜けあり)】 送料無料/J-7
  • 筑摩世界文学大系 バルザック Ⅰ・Ⅱ
  • ★『ゴリオ爺さん』バルザック フランクリンライブラリー
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        バルザック小説  バルザック世界において、性格は寧ろ単純である。強烈ではあるが、各々がタイプとして凝固されている。その性格の中にとじこめられている。むしろきゅうくつに存在している。主人公たちは自身で自分たちの性格を破る力を与えられていない。
 しかし、真におどろくべきことは、バルザックがこのむしろ単純な性格の人々が遭遇した社会関係の紛糾を描き出している巨大な力量である。
 彼が大作家たる所以はここにある。
「幻滅」のリュシアンは、高く低く波瀾は大きいにしろ、性格としてはありふれて凡俗な才気と野心と浮薄さと意志しかもっていない。しかし彼を翻弄した上流人の生活詐術、十九世紀の金力と結びつき権力結びついた新聞人の無良心的な関係手形交換に際して行われる金融魔術――アングレークにおけるプティクローがリュシアンに対してとる態度――を描くときバルザックは殆ど淋漓たる筆力を示している。
 彼が、関係を描破した作家であるということには、未来への示唆があり、この作家文学上のモニュメントとなってしまわず常に生きかえる力をもっていることの証左である。
 何故なら、二十世紀後半の文学は、益々人間集団集団関係真実のテーマとする必然にあるから。

        散文

 バルザック散文は強壮である。「幻滅」などの傑作においてはことにそれが感じられる。生活力があふれ、人生現実に充ち各行が何かを語り、紛糾の深味が次々へと、新鮮な炭酸水のように活気横溢してみなぎっている。
 ヨーロッパ文学においてもバルザック散文の強壮さは失われた。大戦後は散文神経腺のようなものになり、さもなければ破産的なものに細分された。
 アランの散文に対する誤った理解はよくそれを語っている。
 日本近代文学において、散文はどんな伝統に立っているだろうか。
 そういう見地から見ると、漱石散文は秋声の「あらくれ」「黴」などからみるとずっと、弱い。志賀直哉散文はよくやかれた瓦できっちりとふかれた屋根屋根の起伏の美しき眺望のように見るものの心にうつるたしかさをもっている。が、生活の中からせり出して来る生々しい建造物の規模はもっていない。
 散文家として比較すれば、鴎外の方が漱石より雄勁である。漱石のよわさは、しかし彼の稟性の低さに由来するものではない。既に自然主義にはおさまれず、さりとて自身の伝統によって内田魯庵の唱導したような文学の方向にも向えず、新しい方向に向いつつ顫動していた敏感な精神の姿である。芥川散文教養のよせ木であり脆さが痛々しいばかりである。
 最近十年間に登場した作家の多くが、散文から全く逸脱して小径を歩いているのも窮極は、精神の不如意と苦悩とによっている。故に壮健な散文家となる希望も、その苦悩そのものの火にしかないわけである。そしてこの苦悩の重圧は、人々をひしぐか鍛えるか二つに一つしか返事を出さない。
 ツワイクがドストイェフスキー論の中に言っているとおり、
ワイルドがその中で鉱滓となってしまった熱の中でドストイェフスキーは輝く硬度宝石に形づくられた。」

        巨人の檻

 バルザックは、徹底的に、雄渾に、執拗人間生活関係を描く作家であった。大抵の才能ならば、その白熱混沌との中で萎えてしまいそうなところを、踏みこたえ、掌握し、ときほぐし、描写しとおしたところに、この巨大で強壮な精神価値がある。文学史上の一つの定説となっているバルザック情熱の追求、――悪徳も亦情熱権化として偉大なものたり得る――ことを描いたのも、人間人間との間のエネルギー最大の集中の形として、関係の中におかれたのであった。
 そのように、バルザックは飽くまで、関係を描く作家であったから、発端した関係をどこまでも進展させ、発展させるためには、作中の人物たちの性格を、発端において登場したままの本質で一貫させなければならなかった。
 リュシアンはどこまでもリュシアンでなくてはならず、ダヴィドはどこまでもダヴィドでなくてはならなかった。そういう人間の性格の確定の図どりの上に、はじめて、諸関係は益々紛糾し得るのであるし利害は益々錯雑し、近代そのものの複雑を示して展開する可能をもったのである。
 ディケンズクリスマス・カロールの中で、主人公クリスマスの晩に転心させ、俄(にわか)に慈悲の心にめざめさせた。それ故あの小説はそこで終らざるを得なかった。
 バルザックは、クリスマス・カロールに向って鼻の頭に立て皺をよせるに止ったろう。バルザック人物を典型的という名でよぶ習慣が、いつか文学世界に入って来ているが、私たち人間そのものの動きに立って、バルザック文学における虚構真実をふわけするならば、彼の人物たちは、典型というよりも寧ろ原型にちかい。
 利慾、狡猾、打算、すべて「名誉のうらには金がある」という王政復古時代現実をなまなましく反映したバルザック人物たちは、その旺盛な爪牙をといでつかみかかる対象を常に必要としたし、その関係が、バルザック流の情熱純粋を保つためには――純粋にぺてんにかけ、純粋にぺてんにかかるためには――この世の狡猾の英雄に対してこの世ならぬ無邪気な魂を必要とした。それゆえバルザックの浄らかさは誇張されざるを得なかった。リアリストとしてのバルザックの偉大さと、その偉大なリアリストが無自覚のうちにわが身を一つの檻にとじこめていた微妙なモメントは、この点から今日読者にときあかされる。
 そして、我々は沁々と考える。時代というものは何と大したものであるか、と。巨大なバルザック精神は、利害の出発点として金と権力名誉としか見なくて(「幻滅」において、バルザックはセ・アルテの高邁さやそのグループの人々の団結を友情のまじりけなさとしてしか把握しなかった)、階級歴史的な対立の中に高貴な精神もこの世に存在するということは知らなかった。しかし彼の百分の一の天賦しかない一個の青年も、今日歴史の中に生きているという事実によって、例えばエールリッヒが、ジフテリア血清の最初の注射のために闘った対立に高貴なものを感じとり、自分のうちなるささやか善意鼓舞をうけとるのである。

        奇妙な別離

「魂と魂との結合が完きものであったときには、この美しい感情の極致を傷けるいかなるものも致命的なのだ。悪党どもなら匕首を振った後に仲直りするような場合にも、愛する者同志は、ただ一瞥一語のためにも仲をたがえ取り返すべからざるに至る。こうした心情生活が、殆ど完璧の域にあったことの記憶の中に説明のつきかねることの往々ある離別の秘密がひそんでいるのだ。」
銭金のことは、どんなことでも円く行くもの、しかし感情は情容赦を知らないものである。


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