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モスクワ印象記 - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )

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 トゥウェルスカヤの大通を左へ入る。かどの中央出版所にはトルキスタン文字出版広告がはりだされ、午後は、飾窓に通行人がたかって人間と猫の内臓模型をあかず眺める。緑色の円い韃靼(だったん)帽をかぶった辻待ち橇の馭者が、その人だかりを白髯のなかからながめている。
 中央電信局の建築が、ほとんどできあがった。材料置場の小舎を雪がおおっている。トタンの番小屋のきのこ屋根も白くこおっている。
 ――ダワイ! ダワイ! ダワイ!
 馬橇が六台つながって、横道へはいってきた。セメント袋をつんでいる。工事場の木戸内へ一台ずつ入れられた。番兵は裾長外套の肩に銃をつっている。
 長靴二月の雪をふみしめ、番兵は右に歩く。左に歩く。しかし歩哨地点からはとおく去らず、彼は口笛をふいた。交代に間がある――。日曜に踊った女の肩からふいと心の首を持ちあげたとき、番兵は向う側の歩道をゆく二人の女を見た。大股に雪の上を――自分の女の記憶のうえをふみしめるのを瞬間わすれて、番兵自分の目前を見つづけた。
 ――|中国の女(キタヤンキ)?――
 一人の女は黒ずくめ。一人の女は茶色ずくめ。毛皮の襟からでている唇をうごかして彼女たちは番兵理解せぬ言葉をしゃべり、黒ずくめの女の方が高笑いをした。
 番兵は銃をゆすりあげ、さらに女たちの後姿をみまもった。街の平ったい建物のみとおし。後から取りつけたに違いないバルコニーが一つ無意味に中空にとび出している。したに、

     ホテル・パッサージ

 電気入りの看板がでていた。バルチック海春先暴風がおこる朝、この看板はゆれた。そして軋(きし)む。黄色い紙にかいた献立が貼りだしてあるそのホテルのばからしくおもいドアを体で押しあけて、先ず黒ずくめの女がはいった。つづいて、茶色外套の女もはいってしまった。――バング!
 肉入饅頭(ピローシュカ)売りがきた。彼が胸からつるした天火のゆげが、ドアの煽りでちった。同時に肉入饅頭(ピローシュカ)の温い匂い湯気とともにちる。
 番兵の、田舎脳髄のひだのあいだで東洋女の平たい顔の印象がぼやけた。ただ好奇心感覚が、漠然神経にのこっている。その時、永いあいだ立っている橇馬が尾をもたげ、ここちよげにゆっくり排泄作用をおこなった。雪解けの水にぬれたむかい屋根雨樋モスクワの雀がとまって、熱心に、逞しい馬の後脚の間に落ちたできたての、湯気のでる餌をみはった。

 ホテルの四階のはしに、日本女の部屋があった。下足場棕梠がおいてある。そこから日本女の室まで七十二段、黒・赤・緑花模様粗末絨毯がうねくり登っている。昇降機はない。あってもうごかぬ昇降機モスクワじゅうにたくさんある。日本女は一日に少くとも二百十段上ったり下りたりした。そのたびに事務室(カントーラ)の前をとおりすぎた。事務室(カントーラ)の白い戸には三越文具部にあるインク・スタンド通りな碧硝子のとってがついていて、執務時間第八時より第十二時。第十四時より第二十二時と掛札が下っている。新モスクワ生活法を、レーニンの大写真が眺めている。
 四階の手摺から下を見下すと、下足場棕梠の拡った青葉てっぺんと、その蔭に半分かくされたテーブル、うつむいて上靴(ガローシ)をはいている女の背なかまで一つの平面に遠くみおろせた。棕梠があるから、人はここから身を投げても死ぬことはできない。
 一人日本女は、一日のうちになんどもそこから下をのぞいた。
 夜になると、小さい花電燈が二つ点いた。廊下静かだ。よく女中(ゴールニーチナヤ)が手摺のそばに椅子を持ちだし、キャラコのきれに糸抜細工(ドローンワーク)をやった。


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