ヴォルフの世界 - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )
この間さがさなければならない本があって銀座の紀伊国屋へよったらば、欲しいものはなかったかわり、思いがけずパウル・ヴォルフの傑作写真集が飾窓に出ているのに気がついた。もうかえろうとして飾窓をふりかえったら、そこにある。見たくなって、もう一遍混雑をきわめた店内へ戻って、奥の方で開けて眺めているうち、大決心をして到頭買って来た。
ヴォルフの写真を集めた本は、何年か前に「海辺にて」という題だったか、ヴォルフ夫人と幼い女の児とを海辺の様々な情景で撮したのを見たことがあった。その時から写真にもこういう味いがあり得るのだという印象をつよくのこされた。
日頃カメラを愛する人々にとっては、今更ヴォルフも知れすぎた物語であろうけれど、番町書房というところから発行されているこの一冊の作品集は、いろいろな感銘で私をうごかした。
ヴォルフのカメラはまるで美感と温さとをもった生きもののようで、独特の生命に流動しながら、対象の極めて自然な、しかも性格的なモメントをとらえている。最高の機械と技術とが駆使されていることは明らかなのだが、ヴォルフの製作の一つ一つの態度は、それらの道具を駆使する感興というような末梢から遙にぬきんでている。私を一番感動させたのは、制作者としてヴォルフがもっているひろやかで瑞々しく複雑な情緒と、対象をそのものとして活きた性格の姿でとらえてゆく主観の謙抑とでもいう美しさである。頁から頁へと一つの印画から一つの印画へとそこに描こうとされた生活の各断面が十分の量感をもって展開されていて、そこからたちのぼって来る生活の息づきに、心持よく顔をふかれるような感じをうけた。
夏の或る日、畳まった町の屋根屋根を越してずーっと下の方に並木路が見える。その並木路は海岸の散歩道で、梢のこまやかな樹木の彼方に低く遠く静かな海の面がのびている。ぽっくりと一人白い軽い外套を羽織った女がその海岸通の並木路の日蔭の間に立って片手を高くあげながらむこうを通ってゆく汽船に挨拶を送っている。
カメラは高い高い左手の上からその光景を俯瞰している。近い屋根屋根の波の面白さ、それから段々と低くなって並木通へ視線が導かれ、そこに在る点景の白い婦人の姿を中心として一層ひろい海面へのびてゆくリズムは実に変化と諧調に富んでいて、眺めていると複雑にとらえられている角度や線の交錯から、その海辺に都会がつくられて来た歴史の奥行だの、その屋根屋根の下で営まれているその日その時刻の生活の微かな音響だのが、夏の日光の中に匂いとなって感じとられて来るのである。
絵画ではきっと処理しきれないだろうと思えるどっさりの生活の感情が、そこには流動する立体感であつかわれている。
もう一つ非常に印象をうけたのは、その一冊の終りの方に工場や作業台に向って働いている人々を撮った何枚かの中の一枚で、精密な機械の調べ手入れのようなことでもしているらしい年寄の男の写真である。時計屋が使うような片目の覗き眼鏡にぴったり顔をおっつけ、右手でその眼鏡の下のものをいじっているところだが、ヴォルフはカメラをその顔や手の、下の方から向けた。
皺のある大きい老職工の顔のかぶさった肉体的な全容積と頑固な形をしているくせにその仕事にかけての巧妙さを語る大きい手先とが、小さな覗き眼鏡の円筒を中心として、その小さい道具を既に生理の一部分にとかしこんでいるような吸着力で捉えられている。仕事への熟練とその集注力の大さとが、いかにも人間の肉体を通して語られている。こんな微細な作業から大きいこともしてゆく人間の精神への感興が、おのずから湧きおこされて来る。
ヴォルフがいつも自分の撮そうとする対象を愛しているということは、その作品集の日本の編者も絶讚していることだけれども、芸術家が対象を愛すというのはどういうことを意味するのかと実に面白く考えられた。ヴォルフの美が肯定され、彼の対象への愛が肯定されるということは、とりもなおさず、現実のそれぞれの真実が芸術にうけいれられるべきことの肯定であるし、その表現の過程として科学の力いっぱいの発揮、それを可能ならせる客観性がうけいれられるということにほかならない。ヴォルフの対象への並々ならぬ愛として結果しているものの裏づけである主観の謙抑や隅々まで自覚され支配されている客観の力を考えると、今日私たちはそこに息するにいくらか楽な空気をかぐと共に、少なからぬ示唆をうける。あらゆる芸術の分野でごく少数の卓抜な選良たちは常に主観と客観とを二つのものに分けて扱う習俗を跨ぎこして、真実の核心に迫って行っている。主観的な時代には特にそのことの価値が考えられるのである。〔一九四一年五月〕
底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
1980(昭和55)年4月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「文芸」
1941(昭和16)年5月号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2003年2月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
ヴォルフの写真を集めた本は、何年か前に「海辺にて」という題だったか、ヴォルフ夫人と幼い女の児とを海辺の様々な情景で撮したのを見たことがあった。その時から写真にもこういう味いがあり得るのだという印象をつよくのこされた。
日頃カメラを愛する人々にとっては、今更ヴォルフも知れすぎた物語であろうけれど、番町書房というところから発行されているこの一冊の作品集は、いろいろな感銘で私をうごかした。
ヴォルフのカメラはまるで美感と温さとをもった生きもののようで、独特の生命に流動しながら、対象の極めて自然な、しかも性格的なモメントをとらえている。最高の機械と技術とが駆使されていることは明らかなのだが、ヴォルフの製作の一つ一つの態度は、それらの道具を駆使する感興というような末梢から遙にぬきんでている。私を一番感動させたのは、制作者としてヴォルフがもっているひろやかで瑞々しく複雑な情緒と、対象をそのものとして活きた性格の姿でとらえてゆく主観の謙抑とでもいう美しさである。頁から頁へと一つの印画から一つの印画へとそこに描こうとされた生活の各断面が十分の量感をもって展開されていて、そこからたちのぼって来る生活の息づきに、心持よく顔をふかれるような感じをうけた。
夏の或る日、畳まった町の屋根屋根を越してずーっと下の方に並木路が見える。その並木路は海岸の散歩道で、梢のこまやかな樹木の彼方に低く遠く静かな海の面がのびている。ぽっくりと一人白い軽い外套を羽織った女がその海岸通の並木路の日蔭の間に立って片手を高くあげながらむこうを通ってゆく汽船に挨拶を送っている。
カメラは高い高い左手の上からその光景を俯瞰している。近い屋根屋根の波の面白さ、それから段々と低くなって並木通へ視線が導かれ、そこに在る点景の白い婦人の姿を中心として一層ひろい海面へのびてゆくリズムは実に変化と諧調に富んでいて、眺めていると複雑にとらえられている角度や線の交錯から、その海辺に都会がつくられて来た歴史の奥行だの、その屋根屋根の下で営まれているその日その時刻の生活の微かな音響だのが、夏の日光の中に匂いとなって感じとられて来るのである。
絵画ではきっと処理しきれないだろうと思えるどっさりの生活の感情が、そこには流動する立体感であつかわれている。
もう一つ非常に印象をうけたのは、その一冊の終りの方に工場や作業台に向って働いている人々を撮った何枚かの中の一枚で、精密な機械の調べ手入れのようなことでもしているらしい年寄の男の写真である。時計屋が使うような片目の覗き眼鏡にぴったり顔をおっつけ、右手でその眼鏡の下のものをいじっているところだが、ヴォルフはカメラをその顔や手の、下の方から向けた。
皺のある大きい老職工の顔のかぶさった肉体的な全容積と頑固な形をしているくせにその仕事にかけての巧妙さを語る大きい手先とが、小さな覗き眼鏡の円筒を中心として、その小さい道具を既に生理の一部分にとかしこんでいるような吸着力で捉えられている。仕事への熟練とその集注力の大さとが、いかにも人間の肉体を通して語られている。こんな微細な作業から大きいこともしてゆく人間の精神への感興が、おのずから湧きおこされて来る。
ヴォルフがいつも自分の撮そうとする対象を愛しているということは、その作品集の日本の編者も絶讚していることだけれども、芸術家が対象を愛すというのはどういうことを意味するのかと実に面白く考えられた。ヴォルフの美が肯定され、彼の対象への愛が肯定されるということは、とりもなおさず、現実のそれぞれの真実が芸術にうけいれられるべきことの肯定であるし、その表現の過程として科学の力いっぱいの発揮、それを可能ならせる客観性がうけいれられるということにほかならない。ヴォルフの対象への並々ならぬ愛として結果しているものの裏づけである主観の謙抑や隅々まで自覚され支配されている客観の力を考えると、今日私たちはそこに息するにいくらか楽な空気をかぐと共に、少なからぬ示唆をうける。あらゆる芸術の分野でごく少数の卓抜な選良たちは常に主観と客観とを二つのものに分けて扱う習俗を跨ぎこして、真実の核心に迫って行っている。主観的な時代には特にそのことの価値が考えられるのである。〔一九四一年五月〕
底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
1980(昭和55)年4月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「文芸」
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校正:松永正敏
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