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一つの思考実験 - 寺田 寅彦 ( てらだ とらひこ )

  • 古書≪森鴎外集≫7 青年、舞姫他 【 森鴎外】河出書房 貴重 初版
  • 「森鴎外私論」吉野俊彦 森鴎外評論-批評-書籍・10冊 N21681
  • 岩波文庫1675昭和41年/阿部一族他二編森鴎外 岩波書店
  • 600円~ 岩波文庫【青年】森鴎外 (プチソフト1)
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・山椒大夫  他四篇」(旺文社文庫)◇◆
  • ◆◇ 森鴎外著「青年」(新潮文庫) ◇◆  名著! 
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・うたかたの記  他三篇」(岩波文庫)◇◆
  • ◆新品DVD★『NHK 名作の風景 8』森鴎外 正岡子規 夏目漱石1円
  • 森鴎外 高瀬舟・高瀬舟縁起・寒山捨得・寒山捨得縁起 CD 未開封
  • 森鴎外 舞姫 雁 井上靖 訳編 明治の古典8 初版
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 私は今の世の人間自覚的あるいはむしろ多くは無自覚的に感ずるいろいろの不幸や不安原因のかなり大きな部分が、「新聞」というものの存在と直接関係をもっているように思う。あるいは新聞存在を余儀なくし、新聞内容供給している現代文化そのものがこれらの原因になっていると言ったほうが妥当かもしれないが、それはいずれにしても、私はあらゆる日刊新聞を全廃する事によって、この世の中がもう少し住みごこちのいいものになるだろうと思っている。
 新聞を全廃したらさだめて不便な事であろうと一応は考えられる。その不便を感ずる種類や程度はもちろん人々の位地や職業によっていろいろであろうが、不便ということに異議はなさそうである。しかしそれらの不便がどれだけ根本的な性質のものでどれだけ我慢のしきれない種類のものかという事は、少しゆっくり考えてみなければよくわからないと思う。われわれの日常生活に必要欠くべからざるものと通例思われている器具調度の類でも、実はそれを全廃してしまって少しもさしつかえのないものはいくらでもある。たとえば、西洋ならばどんな簡易生活でも、こればかりは必要と思われている椅子(いす)やテーブルがなくても決してさしつかえない事は多数の日本人に明瞭(めいりょう)である。また昔の日本の女になくてかなわなかった髪飾りや帯などは外国の女には無用の長物である。
 新聞を必要とするように今のわれわれの生活を導いたものは新聞自身であるかもしれないとすると、新聞が必要がられるという事実だけでは決して新聞本質的必要を証明する材料にはならない。
 新聞記事はその日その日の出来事をできるだけ迅速に報知する事をおもな目的としている。その当然の結果として肝心の正確という事が常に犠牲にされがちである事はだれもよく知るとおりである。しかしこの一事だけでも新聞というものが現代の人心に与える影響はなかなか軽少なものではない。ほかの事はすべてさしおいても、「おそくとも確実に」というあらゆる「真」の探究者に最も必要な心持ちをすべての人からだんだんに消散させようとするような傾向のあるのはいかんともしがたい。もっとも大概の人間には真に対する潔癖はあるから、そういう不正確な記事たまたまその潔癖を刺激してかえってそれを亢進(こうしん)させるような効果がある場合があるかもそれはわからない。また大多数の人は始めから新聞記事の正確さの「程度」をのみこんでいて、従って新聞の与える知識には、いつでもある安全係数(セーフティファクトル)をかけた上で利用するから、あまりたいした弊害はないと考えられるかもしれない。有数ないい新聞ならば実際そうかもしれない。しかし正確でなくてもいいからできるだけ早く知るということがどうして、またどこまで必要であるかという事がいちばんの先決問題になる。

 海外に起こった外交政治経済に関する電報重要新聞記事の一つである。こういうものがあらゆる階級の人に興味があるという事は望まるべき事でもあり、またそれが事実であるとしたところで、これらの報知を一日でも早く知る必要をほんとうに痛切に感ずる人が国民の中で何人あるかという事を考えてみなければならない。
 次には内国政治経済産業方面に関する記事でも、大多数の国民が一日を争うて知らなければならないものがどのくらいのパーセントを占めているかを考えてみなければならない。
 全くとらわれない頭で冷静に考えてみた時に、これらの記事大部分は、多数の「善良な国民」がたとえ一か月くらいおくれて知っても少しの不都合のないものであると私は考える。
 ただ国民の中でおそらくきわめて少数なある種のデマゴーグ政治家、あるいは投機的の事業にたずさわるいわゆる「実業家」のうちの一部の人たちは、一日でも一時間でも他人より早くこれらの記事を知りたいと思うだろう。そういう人々の便宜を計るという事がかりにいいとしたところで、そういう人はよしや新聞を全廃してもおそらく少しも困る事はあるまい。それぞれ自分適当な通知機関を設けて知るだけの事は知らなければ承知しないに相違ない。これに反して大多数の政党員ないし政治に興味をもつ一般人それからまじめな商業産業に従事している人たちにとってたとえば仏国大統領が代わったとかニューヨークの株が下がったとか、あるいは北海道首相演説したとか議会で甲某が乙某とどんなけんかをしたとかいう事を、二週間あるいは一月おそく知ったためにどれだけの損害があるかが私にはよほど疑わしい。
 これらの記事がすべて正確であると仮定した場合でさえ、その必要が疑わしいくらいならば、記事不正確である場合にはどうなるだろう。
 こう言ってもおそらく私の言わんと欲するところは容易に通じないだろうと思う。それでくどいようでも同じ事を繰り返す事を許してもらいたい。
 新聞を最も必要と感ずる人の種類を考えてみると、それは、広義における投機者であり、また一種特別な意味でのブールジョアである。いい意味での善良な国民、穏和な意味でのプロレタリアは、実際めいめいのまじめな仕事に真剣に従事している限り、拙速主義の疑わしい知識に飛びついて朝夕心を騒がせ気をいら立てる必要は毛頭ないのである。
 あらゆる先入観念を捨て、あらゆる枝葉の利害を除いて最も本質的にこの問題を考えてみたならば、私がここに言っていることが必ずしも無稽(むけい)なものでない事が了解されはしないかと思う。
 次に考えなければならないのはいわゆる社会欄である。この欄の記事内容はかなり雑多な方面にわたっている。その中でも季節に関する年中行事報道やあるいは近き未来に関する各種の予告などこういった種類のものを日々新聞で承知するという事は決して悪い事ではない。しかし今日実際に存在する新聞社会欄で最も大きな部分を占めているのはこの種の事がらではない。この種の記事はかえってどこかのすみに小さな活字で出ている。これに反して驚くべく大きな見出しで出ているものの内で、知名の人の死に関する詳細な記事とか、外国から来た貴賓の動静とかはまだいいとしたところで、それらよりももっと今の新聞特色として目立っているものは、この世の中にありとあらゆる醜悪な「罪」に関する詳細の記事である。この種の事実をわれわれが一日も早くしかも誤謬(ごびゅう)によってはなはだしく曲げゆがめられた形で知らなければならない必要がどこにあるか私にはわからないのである。
 これらの報道は多くの人々の好奇心を満足させ、いわゆるゴシップと名づけらるる階級の空談の話柄を供給する事は明らかであるが、そういう便宜や享楽と、この種の記事一般読者の心に与える悪い影響とを天秤(てんびん)にかけてみた時に、どちらが重いか軽いかという事は少し考えてみればだれにもわかる事ではあるまいか。
 少し事がらがわき道へはいるが、新聞社会記事ほど人間心理を無視したものはまれである。もっともいわゆる「講談」のごときものも、かなり心理をゆがめたり誇張したりしてはいるが、ゆがめ方もあれまで徹底すればかえって害はなくなる。そうしてうそで固めたばかばかしい饒舌(じょうぜつ)の中におのずからまた何物かほんとうのものに触れているところがないでもない。しかるに普通社会記事となって現われた、たとえば人殺しやけんかの表現が、ひとたび関係者の心理に触れる段になると、それらはもう決してわれわれ人間心理でなくて全く違った「存在(ビーイング)」の心理になってしまっている。そしてそれがいかにももっともらしくほんとうらしく提供されているのである。
 これはしかし記者自身が人間心理理解しないのではない、ただいわゆる社会記事の「定型」というものが、各種の便宜的必要からおのずからきまってしまって、それによらないわけには行かないためだという説明を、そのほうの事情に通じた人から聞いた事もある。
 罪悪の心理がもしほんとうに科学的な正確さをもって書き表わされていれば、それは読者にとってはかなり有益であり、そうしてそういう罪悪を予防し減少するような効果を生じるかもしれない。これに反して罪悪の外側のゆがんだ輪郭がいたずら読者の病的な好奇心を刺激し、ややもすれば「罪の享楽」を暗示するだけであったらその影響ははたしてどうであろう。
 罪悪と反対な人間善行に関する記事もまれには見受けるが、それがひとたび新聞記事となって現われると不思議にその善(よ)い事の「中味」が抜けてしまって、妙にいやな気持ちの悪い「輪郭」だけになっている場合がかなり多いように思われる。そういう種類の記事を読んでいて、人事(ひとごと)ながらもひとりで顔の赤くなる場合がありはしないか。
 しかしこういう不満は今ここで論じている問題とは別問題である。


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