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一つの芽生 - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )

  • 宮本百合子選集第一巻・小説集 ☆宮本百合子
  • 【本】 宮本百合子研究・宮本百合子批評 関係書 6冊 N21078
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          この一篇を我が亡弟に捧ぐ         一  もう四五日経つと、父のおともをして私も珍らしく札幌へ行くことになっていたので、九月が末になると、家中の者が寄り集って夕飯後を、賑(にぎ)やかに喋り合うのが毎晩のおきまりになっていた。  その夜も例の通り、晩餐(ばんさん)がすむと皆母を中心に取り囲んで、おかしい話をしてもらっては、いかにも仲よく暮している者達らしい幸福な、門の外まで響き渡るような笑声を立てていた。おいしかった晩餐の満足と、適度な笑いを誘う滑稽の快さで、話しても聞きても、すっかり陽気に活気づいていた。
 けれども、その楽しい心持は、暫くして母の注意がフト次弟の顔色に注がれた瞬間から、全く「その瞬間」からすべてが一息に、正反対の方へと転換してしまった。或る人々の言葉を借りていえば、その一瞬間のうちに彼及び私どもの、永久的な運命の別れ目が刻されたのであった。
 ニコニコと心に何のこだわりもない微笑を浮べながら、皆自分よりは強そうな息子達の顔を、順繰りに眺めては、即興的な批評を与えていた母は、次弟のところまで来ると、非常に微かではあったが表情を変えた。そして、暫く見ていたが、やがて小さい声でオヤと云った。
「道男さん、熱があるんじゃあないかえ」
と云いながら、すかすように首を曲げて、卓子(テーブル)の一番端に頬杖(ほおづえ)を突いている彼の顔を見た。
「僕? 熱なんかありゃあしない」
「でも大変赤いよ。ちょっとこっちへ額を出してごらん」
「いいったら、おかあさま。僕熱なんかありゃあしない!」
 彼は、自分の方へ注意を牽(ひ)かれている者たちを見廻して、一層顔を赤めながらまるで怒ったような声で否定した。
 母のいうことにはいつも素直な彼が、そんなにむきになって云い張るには訳があった。
 十月の三日から、日光学校からの旅行があるのだけれども、夏時分から脚気心臓も悪かった彼は、家じゅうの者にとめられた。けれども、ぜひ行きたいと云うので、四五日前医者へ行って診断してもらった結果、ようよう渋々ながら許しを得たばかりのところなのである。
 彼が、どうぞ出発までどこもわるくなりませんようにと一生懸命注意していたと同じ程度に、私共は子供のあさはかから万ケ一故障のあるのを隠しはしまいかということに注意していたのである。それ故、折角行かれると思ったのに、ここで止められては大変だと思っているようすを、明かに表示する執拗さと頑固さで彼は断然と熱を計ることをこばんだ。
 彼が厭(いや)がれば厭がるほど、熱のあるのを確かめた母は、いきなり手を延して額に触った。
 そして、
「お前が何と云っても熱はあります。おはかりなさい」
と云って、検温器を無理に挾ませた。
 出して見ると、九度五分もあったので、彼ももう何とも云えないで、おとなしく床に就くほかなかったのである。
 心臓を冷してやったり、脈搏数えたりしながら、腸の熱をずいぶん高くまで出す彼のふだんを知っている私は、不安らしい不安はちっとも感じなかった。
「カンコウ」か「ヒマシ油」の頓服でも行けば、あしたの朝はカラリと、まるで嘘のように癒ってしまう経験を、屡々得ているので、今度もまたその通りだろうと思った。
「何でもないのにおかあさま心配するから僕全くいやになっちまう風邪にきまってら」
などと云いながら、別に苦しくもなさそうに寝ている彼の傍へ机を持ち出して、私はわりに落着いた心持で或る読みかけの本を開いていた。
 心配心配なのだけれども、もう少し後だったらすべてにおいてもっともっと危ない状態に置かれるところだったのを、いい工合に今始まってよかったという安心が、かなり強く私共の心を支配していたのである。
 そして、私には特にはっきりと、当然こうなるはずだったのだというような心持が著しく起っているのを感じていた。なぜだか解らないけれども、こうなるのが決して意外な出来事ではないという気がしていたのである。
 人に知られまいと努めていた緊張から解放された彼は、だんだん夜が更けかかるにつれて、頭痛を感じて来た。
 水枕を当てたり、氷嚢(ひょうのう)を当てたりしても、どうしても眠られないのを苦にし始めた頃から、九月三十日のあの恐ろしい大嵐が、戸外ではいよいよあらあらしくなって来たのである。
 ドドドウッとたたきのめすように吹きおろす風が、樹木の枝を折り草を薙(な)ぎ倒し、家屋の角々に猛然とぶつかって、跳ね返されまた跳ね返されしては、ワワーッ! ワワーッ! と鬨(とき)の声をあげて、彼方の空へとひた走りに馳け上ってしまう。
 まるで気違いのようにあっちの隅から、こっちの隅まで馳けずりまわる雨の轟(とどろ)きに混って、木が倒れたり瓦が砕けたり、どこかの扉がちぎれそうに煽られたりする音が聞えて来る。
 折々青い火花をちらして明滅していた電燈は、もうとっくに消えてしまったので、蝋燭(ろうそく)をつけると、一あて風がすさぶ毎に、どこからか入って来る風がハラハラするように焔を散らす。
 やがてその蝋燭も消えてしまった。真暗闇のうちで私はすくむような心持になりながら、黙ってはいるが気味の悪いに違いない弟の手を握って、堅唾(かたず)を飲んで坐っていた。
 生れて始めて、こんなにひどい嵐に遭ったので、私はほんとうに度胆(どぎも)を抜かれて、何を考えることも思うこともできないような心持になった。
 ただ怖(こ)わいというだけをはっきり感じながら、小さくなっていると、いつともなくまるで思考の対照を失っていた心のうちに弟のことがズーッと拡がり出した。
 それも、彼のどのことを考えるというのではなく、彼――道男――という名によって総括されている彼全体の感じが、漠然と浮み上って来たのである。
 すると、その彼の感じは暫くの間、外と同じように暗い心の表面で揺れるようにしているうちに、だんだんその周囲だけがほんのりと明るんで来たと思うと、何かもっとずうっと力の強い別な心持がそれに加わって来るのを感じた。そして、やがてそれはどうだろうかなという確かな意味を持つ危惧の念となったのである。
 もちろん、彼の病気はどうだろうかなと思ったのである。けれども、それに続いて起った感じは、純然たる絶望だったのに自分は、思わずハッとした。
 最初にあの感じが起ったときから、ここまで動いて来る心の後を附けていた、もう一つの自分の心が非常にあわてたのを感じた。
 けれども、なぜ彼は死ぬということが、今頃から分るのだ。妙に反抗的な心持になって自分は考えた。
 彼が死ななければならないほど、苦しがっていもしないのに。第一まだ医者さえ来ないでどうしてそんなことが解るのだ。あまり嵐が怖いので、お前はどうかしたな。
 私はそのまま笑ってしまうか、さもなければ確かにあまりこわいので調子の狂っているどの点かを見出したかった。
 けれども、不思議なことには、そんなにも否定し紛らそうと努力する意志が強いにも拘らず、心のかなり大部分は、それを肯定するような傾向にあるのを知ると、なおさら恐ろしいような妙な心持になってしまった。
 そこでは、否定する意志と、肯定したより広い何物かは、もう対立という関係を破っている。


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