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一家 - 若山 牧水 ( わかやま ぼくすい )

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 友人と共に夕食後の散歩から歸つて來たのは丁度七時前であつた。夏の初めにありがちのいやに蒸し暑い風の無い重々しい氣の耐へがたいまで身に迫つて來る日で、室(へや)に入つて洋燈(ランプ)を點けるのも懶(ものう)いので、暫くは戲談口(じやうだんぐち)などきき合ひながら、黄昏(たそがれ)の微光の漂つて居る室の中に、長々と寢轉んでゐた。
 しばらくして友が先づ起き上つて灯を點けた。その明るさが室の内を照らし出すと、幾分|頭腦(あたま)も明瞭(はつきり)したやうで先刻(さつき)途中で買つて來た菓子の袋を袂から取り出して茶道具を引寄せた。そして自分は湯を貰ひに二階から勝手に降りた。折惡しくすつかり冷え切つてゐますので沸かして持つて參ります、と宿の主婦(おかみ)は周章(うろた)へて炭を火鉢につぐ。宿といつても此家(ここ)は普通(なみ)の下宿ではない、ただ二階の二間(ふたま)を友人と共に借切つて賄(まかなひ)をつけて貰つてるといふ所謂(いはゆる)素人下宿の一つである。自分等の引越して來たのはつい三ヶ月ほど以前(まへ)であつた。
 序でに便所に入つて、二階の室に歸つて行くと、待ち兼ねてゐたらしい友は自分の素手(すで)なのを見て
「又か?」
 と、眉をひそめて、苦笑を浮べる。
 無言に點頭(うなづ)いて、自分は坐つてまた横になつて、先づ菓子を頬張つた。渇き切つた咽喉を通つて行くその不味(まづさ)加減と云つたら無い。思はずも顏をしかめざるを得なかつた。
 自身にもこの經驗をやつたらしい友は、微笑みながら自分のこのさまを見守つてゐたが、
「どうも困るね、此家(ここ)の細君にも。」
 と低聲(こごゑ)で言つて、
「何時(いつ)行つてみても火鉢に火の氣のあつたことは無い。」
 と、あとは大眞面目に不足極まるといふ顏をする。
「まつたくだ。今に見給へ、また例の泥臭い生温(なまぬる)の湯を持つて來るぜ。今|大周章(おほうろたへ)で井戸に驅け出して行つたから。」
「水も汲んでないのか、どうもまつたく驚くね。丁度今は夕方ぢやないか。」
「よくあれで世帶が持つて行ける。」
「行けもしないぢやないか。如何(どう)だい、昨夜(ゆうべ)は。」
 と言つてたまらぬやうに、ウハヽヽヽと吹き出した。續いて自分も腹を抱へて笑つた。
 昨夜(ゆふべ)の矢張り今の頃、酒屋番頭小僧をつれて、先々月からの御勘定今日こそはといふので今まで幾十度となく主人の口車に乘せられて取り得なかつた金を催促に押しかけて來た。丁度主人は不在(るす)だつたので彼等は細君を對手に手酷く談判に及んだ折も折、今度はまた米屋手代が、これも同じく、もう如何しても待つてはあげられませぬと酒屋が催促して居る眞最中(まつさいちゆう)に澁り切つてやつて來た。狹苦しい門口(かどぐち)は以上の借金取りで、充滿(いつぱい)になつて居るといふ騷ぎ。あれやこれやといろ/\押問答がやや久しく續けられてゐたが、終(つひ)には喧嘩かとも思はるるばかりの烈しい大聲を張り上げるやうになつて來た。殊にいつもこの事に馴れきつて居る酒屋番頭の金切聲といふものは殆んど近邊(きんぺん)三四軒の家までも聞え渡らうかと思はれる位ゐで、現に三四人の子供は面白相に眼を見張り囁(ささや)き交して門前に群がつて居る。こんな有樣で二階に居る身も氣が氣でない。宛(さなが)ら自分等があの亂暴な野卑な催促を受けて居るかのやうで二人とも息を殺して身を小さくして縮(すく)んでゐたのである。
 折よく其處へ主人が歸つて來て、どういふ具合に斷つたものか定めし例の巧みな口前を振(ふる)つたのであらう、先づ明晩まで待つて呉れといふ哀願を捧げて、辛くも三人を追ひ歸した。
 其|後(あと)ではまた細君を捉へて罵る主人の怒つた聲が忍びやかに聞えてゐた。
 斯んなことは決して今に始まつた事でないので、僕等が此家(ここ)に移つて以來、殆んど數ふるに耐へぬ程起つて居るのである。
「然し……………」
 と友は笑ふのをやめて、眞面目になつて、
「然し、細君はあれが全然(まるつきり)氣にならぬと見えるね。」
「まさか、何ぼ何だつて幾分かは……」
「いや、全然(まるつきり)だぜ。あんなに酷い嘲罵を浴びせられても、それは實にすましたもんだよ。出來ないものは幾ら何と言つても出來ないんだからつて具合でな。全くどうも洒々(しあ/\)たるもんだ。」
大悟徹底といふわけなんだらう。」
「さうかも知れない、それでなくてどうして毎日々々のあの債鬼に耐へられるもんか。然し洒々(しあ/\)と云つても何も惡氣のある洒々(しあ/\)ではないのだよ。だからあの亭主のやうにうまく對手を丸めて歸すとか何とかいふ手段をも一つも執ることが出來ないのだね。見給へ、細君一人の時に取りに來た奴なら何時でもあんな大聲を出すやうになる……」
 と言つて、また暫くして、
「いや、それが出來ないのではなからう、爲(せ)んのだらう。負債も平氣、催促も平氣、嘲罵も近隣の評判も全然(まつたく)平氣なんだからな。少しも氣にかからんのだからな。」
「もうあれが習慣になつたのかも知れない。」
習慣――幾らかそれもあるだらう。が、此家(ここ)が斯んなに窮してるのもほんの昨今のことだといふから、郷里に居た昨年頃までは立派に暮して來たんだらうぢやないか。


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