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一連の非プロレタリア的作品 「亀のチャーリー」「幼き合唱」「樹のない村」 - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )

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一連の非プロレタリア作品 ――「亀のチャーリー」「幼き合唱」「樹のない村」―― 附・創作活動組織活動との統一問題にふれて  十月下旬行われた作家同盟主催文学講習会のある夜、席上でたまたま「亀のチャーリー」が討論中心となった。ある講習会員が「亀のチャーリー」をとりあげ、その作品一般読者の間で評判がよく親しみをもって読まれたから、ああいう肩のこらない作品の型もプロレタリア文学の中にあってよいのではないかという風に問題をおこし、プロレタリア文学ジャンル問題連関させていた。
 その晩、自分最後時間をうけもっていたのでおそく出席し、そもそもその講習会員がどんな発端からそういう話をはじめたのかわからず、鹿地亘意見を述べるのを聞いていた。「亀のチャーリー」について問題とすべきはプロレタリア文学としての創作方法問題であって、ジャンル問題ではないということが説明されていた。自分はそのとき「亀のチャーリー」をよんでいなかった。帰って注意ぶかく読んだが、はたして「亀のチャーリー」はプロレタリア文学の中にあってもよいという種類の肩のこらぬ作品であったろうか?
 藤森成吉が『改造九月号に発表した小説「亀のチャーリー」は、三十年もアメリカ移民労働者として辛苦の生活をしている動物子供のすきな日本人中野が、市場で亀をひろって育てたことから亀のチャーリーあだ名され、アメリカ子供人気を博しつつ、日本切手菓子その他宣伝用具として子供らを教育し、ピオニイルに仕立ててゆく。亀のチャーリーは相もかわらず貧乏で冬じゅう何も食わぬ二匹の亀の子とボロ靴下を乾したニューヨーク小部屋では五セントの鱈の頭を食って暮しているがピオニイルはゾクゾク殖えてゆくという物語を、五章からなるエピソード構成で書いているのである。
 小説の冒頭には、ワシントン百年祭当日、アメリカ共産党によって指導された民衆の、中国から手をひけ、ソヴェト同盟を守れ、とスローガンをかかげた大衆的示威運動光景が描かれ、チャーリー中野もそれに参加したと紹介されている。ニューヨーク反戦デモ参加するばかりか、中野三十年間転々としてアメリカであらゆる労役に従事していた間に、鉱山の大ストライキプロレタリアとして夜も眠らず働いたことがある。なおかつ現在では自分の周囲におけるアメリカ子供の中からピオニイルを養成しているというのであるから、おそらく日本移民労働者一人として、アメリカ共産党組織されているのであろう。
「亀のチャーリー」一篇を読んで最も強く印象されることは、亀のチャーリーという中年の男が全く孤立的に書かれていることである。生活的な面では住んでいるアメリカプロレタリア大衆とも、故国日本革命大衆ともなんら切実な交流を持っていない。ポッツリ切りはなされている亀のチャーリーという男が、ニューヨークには、ほかの日本人労働者学生商人もいるであろうのに、それらとはちっともかかわりなく、またアメリカ労働者、その前衛とも何の有機的結合をも示さず、ひたすらアメリカ子供に向って公式的な宣伝教育をしてはせっせとピオニイルにしてゆくことが書かれている。――これは全く著しく変であると思った。
 ピオニイルの組織は誰でも知っているとおり、どの国においてもプロレタリアート指導のもとに組織されている革命的な階級少年少女組織である。ピオニイルは共産青年同盟員によって指導されるのが通例であり、おそらく五十を越しているであろう腕の毛まで白い亀のチャーリーにその任務がはたせられていることはなかろうが、それは一応チャーリー子供好きの特色、独特性によるものとして、どうも納得できないのは、亀のチャーリーがピオニイル養成という現実仕事理解に対して示している機械的な卑俗的な、安易さである。
 たとえば、メリイという女の子が夏場彼の店に出入りしてピオニイルになる過程作者は手軽くこう書いている。メリイに本を読ますと円い青い目をクルクルさせて「正確な理解力」を示し、「十日ばかりチャーリーの店の手伝いをして」「やめる時にはもうピオニイルの組織に入ってい、弟や妹ばかりか父親母親たちへまで宣伝するようになった。」あるいは失業者息子が二人、店に掻払いにきたのに、亀のチャーリーがつかまえて説得して「本」をやると「二人はやがていいピオニイルに成長して、いつも二人で組になって活動した」と。
 あとからあとからそのようにしてつくられるピオニイルらは、どこへ組織的にはつけられるのか、どんな分隊、野営をチャーリーが知っているのか、読者にはわからずに、はなはだ不安である。「本」をよますと「正確な理解力」を示すというが、それはどんな本であろうか。子供らは質問するというが、七百万人の失業者のあふれたアメリカ子供牛乳トラストが市価つり上げのため原っぱへカンをつんで行って何千リットルという牛乳をぶちまけ、泥に吸わせ、そのために自分たちの口には牛乳が入らないでウロついているアメリカ勤労階級子供らは、亀のチャーリーにどんな、現実的なプロレタリア子供らしい質問をするか? 子供らがピオニイルにならずにおれぬモメントはどこにあったのであろうか?
 最も興味あり関心事であるべきそれらの点を、作者機械主義で片づけている。同時に、一人子供をピオニイルにしようとし、なし得たことによって得た経験が、亀のチャーリーの心持をプロレタリアとして、またアメリカ帝国主義の下で有色人種労働者として二重の搾取抑圧とに闘っている日本人移民労働者としてのチャーリーの心持をどのくらい高め、鼓舞し、生きてゆく日常世界観を変革したかというようないきいきした人間階級的摂取は、作品のどこにもあらわれて来ない。
 その例は小説の初めに、風邪をひいてしょげた亀のチャーリーの心持とその次の不自然な、非現実飛躍に現れている。しょげたチャーリー平凡らしく、金もたまらず、妻も子も持てずに働きつづけ、今や体が弱って髪の白くなったのを「これが日本人労働者運命なのだ」とこぼし、更に「おまけに、お前が気が弱くなったのは、体が弱ってきたセイってよりも、むしろ恐慌のセイらしいぞ」と弱気な、非闘争的なダラ幹魔術にかかっているような述懐をもらしたかと思うと、忽然として次の行では作者はそのチャーリーに「収入が減ったって、だがそれ以上のものがあるんだ」と意気込ませている。そしてつづけていっている。「今年の宣伝のためにはこの恐慌はウンと有利だ」と。
 作者の非プロレタリア現実把握が微妙に右の一二行によって暴露されている。即ち、チャーリーの本当の気分は恐慌によって弱くなっているのだが、宣伝のためには有利だと、まるで第二インターナショナル職業社会主義者のように、切迫した恐慌による階級階級との対立を人為的にみている。三十年間にうけた抑圧との闘いによってプロレタリアとして目覚めた一移民労働者が、今や彼の賃金を百ドルから七十ドルに切り下げる恐慌に対して、利害の衝突する二つの資本主義国家間の泥仕合的排外主義に対し、ピオニイルの養成にも熱誠を示すというようなのでは決してない。
 プロレタリアートの心持を書こうとして客観現実主観とが非弁証法的な分裂をとげたというのではない。
「亀のチャーリー」は、生々したたくましい現実としてのプロレタリアート日常作用している革命性、そのための組織など書いていない。ましてや、一九二九年来の恐慌が一層深刻化し、資本主義の局部的安定さえ今は破れ、資本主義国家資本主義国家との衝突危機が切迫している現段階のプロレタリアートのピオニイルという最も革命組織的なものにふれつつ、それを最も非組織的に非現実的に描くことによってプロレタリアートの力を背後に押しかくし、亀の子、子供子供ずきの孤独移民チャーリー市民的な哀感をかなでている。
 作者は「移民」という小説を近く発表するらしく広告で見た。しかし「亀のチャーリー」のように、主題の把握においてプロレタリアートの闘争から切りはなされ、プロレタリア作家に課せられている課題から逸脱したものであるならば、「移民」の書かれる革命意味もまた少ないであろう。

 作家が一つの作品から次の作品へと正しい発展をとげてゆくことは、困難な努力のいる仕事である。ブルジョア作家たちは、その本質から、作家としての完成を個人的自己完成としてしか理解し得ないため、その努力を取材から取材への一見めあたらしげな転々たる移行およびその扱いかた、書きかたの練達へと集中する。彼らはいかに数多く一つから一つへと書きまわろうとも、ブルジョア世界観の上に立っている以上主観の真の意味における発展はない。いきおい陳腐な本質粉飾としての形式主義に、芸術至上主義に堕さざるを得ない。
 この点プロレタリア作家は全く根底を異にしていると思う。プロレタリア作家こそプロレタリア階級の発展の各モメントとともに発展し得る。プロレタリア作家唯物弁証的把握によって自身の階級の当面の革命的モメントを正確に政治的に把握し得さえすれば――社会矛盾における複雑活溌な相互関係とそれに対して階級として働きかけるプロレタリアート革命性を具体的にとらえ得さえすれば、作品における主題の積極性、発展性革命の進展につれて押しすすめられ得る。この意味プロレタリア文学および作家の発展をわれわれは問題にするのであるし、プロレタリア作家の発展の努力はこの方向に向ってなされなければならぬ。あれやこれやと低下したあるいは逸脱した題材を書きまわるのではなく、プロレタリアートの課題とともに書きすすめる努力こそされなければならない。

 須井一の「幼き合唱」と「樹のない村」とはこの観点からわれわれに何を教えるであろうか。「幼き合唱」において作者漁師息子である小学校教師佐田のブルジョア教育に対する反抗を書いている。貧乏なばかりに師範の五年間を屈辱の中に過し、それをやっと「向学心」と「学問光明」のために忍従していよいよ教師となった彼は、「希望理想と満足とがひとりでに胸をしめ上げて来る」という状態で就任する。ところが「教員生活の最初の下劣さ」として、先輩教員らのへつらい屈伏を目撃し二宮金次郎の話をして児童から「私は金次郎は感心ですけれど万兵衛はわるいと思います」といわれたことを契機に、猛然と自分のかけられてきた師範学校世界観の魔睡を批判しはじめる。佐田の煩悶がかくして始る。佐田は神経的に正義派的に、彼の認識の中で一般化されている(作者も同様に一般化している)児童の「意欲をもたぬ幼年期の純真さ、無邪気さ」、創意性などを計量し、「労作にむすびついた教育具体的実践に結合した」教育こそ小学教育基礎であると感じる。


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