一隅 - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )
洋傘だけを置いて荷物を見にプラットフォームへ出ていた間に、児供づれの女が前の座席へ来た。反対の側へ移って、包みを網棚にのせ、空気枕を膨らましていると、
「ああ、ああ、いそいじゃった!」
袋と洋傘を一ツの手に掴んだ肥った婆さんが遽しく乗り込んで来た。
「早くかけとしまいよ、ばあや、そら、そこがあいてるわよ、かけちゃいさえすればいいから……よ」
プラットフォームに立って送りに来た二十七の町方の女が頻りに世話を焼いた。
「ああここにしようね――御免なさい」
前の座席には小官吏らしい男が一人いるだけであったが、三等の狭い一ツの席に肥った私、更に肥った婆さんが押し並ぶのには苦笑した。十一時四十分上野発仙台行の列車で大して混んでいず、もっと後ろに沢山ゆとりはあるのだ。婆さんの連れは然し、
「戸に近い方がいいものね、ばあや、洋傘置いちゃうといいわ、いそいでお座りよ。上へのっかっちゃってさ」
窓から覗き込んで指図する。婆さんは、けれども矢張り洋傘を掴んだまま、汚れた手拭で顔を拭いた。
「降りゃしないかね、これで彼方へつくのはどうしたって日暮れだ」
「大丈夫だよ、俥でおいでね、くたぶれちゃうよ。一里半もあるんだってからさ」
「お前傘は?」
「いいよ、平気」
「どうせ家へかえるんだもんね」
「あああ家へかえるんだもの」
婆さんは、偶然の隣人である私の風体を暫く観察していたが、いきなり云った。
「源坊、あぶないよ」
女は、遠い改札口の方をぼんやり眺めたなり鸚鵡(おおむ)返しに、
「あぶないよ本当に」
と、傍に立って車窓を見上げている六ツばかりの男の児の手を引っぱった。白っぽい半洋袴服をつけ、役者の子のような鳥打帽をかぶったその男の児は、よろけながら笑った。
「大丈夫だよ」
婆さんは荒っぽい愛惜を現した顔で子供を眺めながら云った。
「乗りたいの、やっと辛棒してるんだよ。ね? そうだろう?」
「そうさ、今が今まで一緒に行く気でいたんだもの」
「又この次のとき行くさ。どうせ一晩泊りだもん――あっちじゃ伯母さんが来るだろうかねえ」
「さあ」
「来りゃいいのにね、そうすりゃこの間のことだってあのまんま何てことなくなっちゃっていいんだがね」
「来るだろう」
空気枕に頭を押しつけこれ等の会話をききつつ、私は可笑しい、奇妙な心持がした。ばあや、ばあやと呼ばれる婆さんも――恐らく送りに来ている女の母親なのだろうが、その若い女の方も、殆ど絶えず喋る癖に、互にまるで上の空のようであった。反射的にひょいひょいいろいろ云う。ちっとも語調に真情がない、――
軈(やが)て発車した。
私は眠い。一昨日那須温泉から帰って来、昨日一日買いものその他に歩き廻って又戻って行こうとしているのだから。それに窓外の風景もまだ平凡だ。僅かとろりとした時、隣りの婆さんが、後の男に呼びかけた。
「あのう――白岡(しらおか)はまだよっぽど先でござんしょうか」
「まだ四ツ五ツ先ですよ」
「大宮からよっぽど先でござんしょうか」
「大宮から蓮田、白岡です」
「そうでございますか」
そして、女性的本能の残留らしい媚をふくんだ調子で婆さんはつづけた。
「始めてだもんですから。どうも一向勝手が判りませんでねえ――あのう、すみませんが白岡へ参りましたら一寸教えて下さいませんか」
「私は手前で降りるんですが」
「へえ……」
婆さんは露骨に骨折損をしたという表情をその声に現して、此方へ向きなおった。小さい引つめ束髪に結った彼女の髷は、もう幾日櫛をとおさないか。謂わばまあ埃と毛髪のこね物なのだが、そこへ、二本妻楊子がさしてある。
蕨を出て程なく婆さんは、私に訊いた。
「大宮はまだでしょうか」
「この次浦和でしょう? 次が与野、大宮です。――大きい停車場だからすぐわかりますよ」
「どうも有難うございます。何にしろ始めて此方へ来るもんですから勝手が分らなくって――白岡って処へ参るんですが……」
浦和を出たばかりに、婆さんは、
「もう大宮でござんしょうか」
と、私に質問を繰返した。下町の生活に馴れて汽車に乗るだけさえ一事件であるのだろうと同情していた私は、少し癇癪を起した。
婆さんは、それを働かして少しは自分で自分の行く先に注意を払うだけの脳味噌も持ち合わせていないのであろうか。彼女の質問のしぶりには、彼女が混んだ電車に乗り合わせた時、ほんの三寸の隙間をも見つけて、そこへ小さからぬ尻から割り込んで掛けずに置かない性質が微妙に閃いているのであった。ばあやさんよ。私は、そして、そのような性質は余りすきではないのだ。
大宮へ来た。駅夫が「オワミヤ――オワミヤ」とワのところにアクセントをつけ車窓の下を呼んで通った。婆さんは、呆然と、その駅夫の開いたりしまったりする口だけを見た。
「大宮ですか」
「ええ……」
「大きいステーションでござんすねえ」
「次の次が白岡ですよ」
「さよですか――どうも」
初夏の若葉こそ曇り日に照っているが、駅の黒い柵の裏から直ぐ荒漠とした原野が連っている物音もせぬ小駅が白岡であった。ひっそり砂利を敷きつめた野天に立つ告知板の黒文字 しらおか 寂しい駅前の光景が柔かく私の心を押した。
「白岡ですよ」
婆さんは袋と洋傘とを今度は一ツずつ左右の手に掴み、周章(あわ)てて席を出たが、振り返り、
「あの、私の降りるのここでござんしょうか」
「――だって白岡でしょう?」
――何と可笑しく腹立たしい婆さん!
列車は、婆さんが鼠色のコートにくるまって不機嫌で愚かな何かの怪のように更に遠く辿って行くだろう疎林の小径を右に見て走った。
〔一九二七年十二月〕
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「作楽」お茶の水附属高女同窓会会報第三十九号
1927(昭和2)年12月7日発行
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
「早くかけとしまいよ、ばあや、そら、そこがあいてるわよ、かけちゃいさえすればいいから……よ」
プラットフォームに立って送りに来た二十七の町方の女が頻りに世話を焼いた。
「ああここにしようね――御免なさい」
前の座席には小官吏らしい男が一人いるだけであったが、三等の狭い一ツの席に肥った私、更に肥った婆さんが押し並ぶのには苦笑した。十一時四十分上野発仙台行の列車で大して混んでいず、もっと後ろに沢山ゆとりはあるのだ。婆さんの連れは然し、
「戸に近い方がいいものね、ばあや、洋傘置いちゃうといいわ、いそいでお座りよ。上へのっかっちゃってさ」
窓から覗き込んで指図する。婆さんは、けれども矢張り洋傘を掴んだまま、汚れた手拭で顔を拭いた。
「降りゃしないかね、これで彼方へつくのはどうしたって日暮れだ」
「大丈夫だよ、俥でおいでね、くたぶれちゃうよ。一里半もあるんだってからさ」
「お前傘は?」
「いいよ、平気」
「どうせ家へかえるんだもんね」
「あああ家へかえるんだもの」
婆さんは、偶然の隣人である私の風体を暫く観察していたが、いきなり云った。
「源坊、あぶないよ」
女は、遠い改札口の方をぼんやり眺めたなり鸚鵡(おおむ)返しに、
「あぶないよ本当に」
と、傍に立って車窓を見上げている六ツばかりの男の児の手を引っぱった。白っぽい半洋袴服をつけ、役者の子のような鳥打帽をかぶったその男の児は、よろけながら笑った。
「大丈夫だよ」
婆さんは荒っぽい愛惜を現した顔で子供を眺めながら云った。
「乗りたいの、やっと辛棒してるんだよ。ね? そうだろう?」
「そうさ、今が今まで一緒に行く気でいたんだもの」
「又この次のとき行くさ。どうせ一晩泊りだもん――あっちじゃ伯母さんが来るだろうかねえ」
「さあ」
「来りゃいいのにね、そうすりゃこの間のことだってあのまんま何てことなくなっちゃっていいんだがね」
「来るだろう」
空気枕に頭を押しつけこれ等の会話をききつつ、私は可笑しい、奇妙な心持がした。ばあや、ばあやと呼ばれる婆さんも――恐らく送りに来ている女の母親なのだろうが、その若い女の方も、殆ど絶えず喋る癖に、互にまるで上の空のようであった。反射的にひょいひょいいろいろ云う。ちっとも語調に真情がない、――
軈(やが)て発車した。
私は眠い。一昨日那須温泉から帰って来、昨日一日買いものその他に歩き廻って又戻って行こうとしているのだから。それに窓外の風景もまだ平凡だ。僅かとろりとした時、隣りの婆さんが、後の男に呼びかけた。
「あのう――白岡(しらおか)はまだよっぽど先でござんしょうか」
「まだ四ツ五ツ先ですよ」
「大宮からよっぽど先でござんしょうか」
「大宮から蓮田、白岡です」
「そうでございますか」
そして、女性的本能の残留らしい媚をふくんだ調子で婆さんはつづけた。
「始めてだもんですから。どうも一向勝手が判りませんでねえ――あのう、すみませんが白岡へ参りましたら一寸教えて下さいませんか」
「私は手前で降りるんですが」
「へえ……」
婆さんは露骨に骨折損をしたという表情をその声に現して、此方へ向きなおった。小さい引つめ束髪に結った彼女の髷は、もう幾日櫛をとおさないか。謂わばまあ埃と毛髪のこね物なのだが、そこへ、二本妻楊子がさしてある。
蕨を出て程なく婆さんは、私に訊いた。
「大宮はまだでしょうか」
「この次浦和でしょう? 次が与野、大宮です。――大きい停車場だからすぐわかりますよ」
「どうも有難うございます。何にしろ始めて此方へ来るもんですから勝手が分らなくって――白岡って処へ参るんですが……」
浦和を出たばかりに、婆さんは、
「もう大宮でござんしょうか」
と、私に質問を繰返した。下町の生活に馴れて汽車に乗るだけさえ一事件であるのだろうと同情していた私は、少し癇癪を起した。
婆さんは、それを働かして少しは自分で自分の行く先に注意を払うだけの脳味噌も持ち合わせていないのであろうか。彼女の質問のしぶりには、彼女が混んだ電車に乗り合わせた時、ほんの三寸の隙間をも見つけて、そこへ小さからぬ尻から割り込んで掛けずに置かない性質が微妙に閃いているのであった。ばあやさんよ。私は、そして、そのような性質は余りすきではないのだ。
大宮へ来た。駅夫が「オワミヤ――オワミヤ」とワのところにアクセントをつけ車窓の下を呼んで通った。婆さんは、呆然と、その駅夫の開いたりしまったりする口だけを見た。
「大宮ですか」
「ええ……」
「大きいステーションでござんすねえ」
「次の次が白岡ですよ」
「さよですか――どうも」
初夏の若葉こそ曇り日に照っているが、駅の黒い柵の裏から直ぐ荒漠とした原野が連っている物音もせぬ小駅が白岡であった。ひっそり砂利を敷きつめた野天に立つ告知板の黒文字 しらおか 寂しい駅前の光景が柔かく私の心を押した。
「白岡ですよ」
婆さんは袋と洋傘とを今度は一ツずつ左右の手に掴み、周章(あわ)てて席を出たが、振り返り、
「あの、私の降りるのここでござんしょうか」
「――だって白岡でしょう?」
――何と可笑しく腹立たしい婆さん!
列車は、婆さんが鼠色のコートにくるまって不機嫌で愚かな何かの怪のように更に遠く辿って行くだろう疎林の小径を右に見て走った。
〔一九二七年十二月〕
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「作楽」お茶の水附属高女同窓会会報第三十九号
1927(昭和2)年12月7日発行
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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