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万葉集のなり立ち - 折口 信夫 ( おりくち しのぶ )

  • 古典文学解釈講座 万葉集 ■三友社出版■
  • 週刊 四季 花めぐり 6 『万葉集』の花』
  • 江戸 木版画 浮世絵『遊女院』万葉集 奥村重政画 雲母刷 
  • 【書籍】リービ英雄ほか『Man’yo Luster万葉集』
  • 雑誌242國文学『万葉集の総合研究』昭和31
  • 1000円均一;昭和万葉集;第11巻;外箱付;古書
  • 451岩波文庫『新訓 万葉集 上下』昭和49帯 印有
  • ◆怕ろしき物の歌―万葉集があかす謎の七世紀 李 寧煕
  • 松岡静雄『日本古語大辞典(訓古)』-古事記/日本書紀/万葉集
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     一 奈良の宮の御代 万葉集一部の、大体出来上つたのは何時か。其は、訣らない、と答へる方が寧(むしろ)、ほんとうであらう。併(しか)し、私としての想像説を述べて、此迄人の持つてゐた考への、大いに訂正せねばならぬものだ、と言ふことを承知して貰はうと思ふ。
万葉編纂の時代と、其為事に与つた人とに就ては、いろ/\の説がある。併し、其拠り処となつてゐる第一の有力な証拠は、唯万葉集自身と、古今集仮名漢字二様の序があるばかりである。仮名序に拠ると、万葉集出来たのは奈良の宮の御代で醍醐天皇から十代前、年数は百年余以前、といふことになる。起算点を醍醐天皇に置くと、平城天皇の時世となつて、其御代始めの大同元年まで、かつきり百年になる。処が、一代前の宇多帝から数へ出すと、平安朝最初の天子桓武天皇を斥(サ)したことになる。年数は百年以上、といふ事が出来る。処が、此文章解釈がいろ/\で、まづ正直に、百年余といふ伝へを守り、起算点を一代前に据ゑて、桓武説を提出してゐるのは、袋冊子である。併し奈良宮御代といふ言葉は、度外視せられてゐる。
処が、奈良宮の奈良なる字に執著してゐると思はれるのは、人麻呂勘文以下の「聖武説」、栄華物語の「高野女帝孝謙称徳)説」の二つである。此両説は勿論、単に、仮名序から導かれたゞけでなく、学者間の言ひ伝へ、或は古今雑部の

神無月 時雨ふりおける楢の葉の 名に負ふ宮の ふる辞ぞ。これ(文屋有季)

と言ふ歌なども働きかけてゐるものと見るべきであらう。なる程、万葉集一部に収めてゐるのは、雄略以下淳仁帝の四年(宝字五年)までの作物である事は、此書の記載を信じれば言へる。其に今一つ、万葉集奈良朝のものだと定めたい考へが、既に古くからあつた筈だから、旁(かたは)らかうした解釈がついたものと思はれる。仮名序に照して見ると、十代以前といふのは合はなくなる。其上、百年余の余は、略(ほぼ)、五十年を意味してゐることになる。畢竟(ひつきやう)、粗漏な穿鑿に予断の感情を交へた臆断、と今までの証拠だけでは、定める外はない。
ふりかへつて、平城説が成り立つかどうかを見よう。古今の漢文序には、大同天子の代に出来たとしてゐる。此序の価値を疑ふ人もあるが、其は主として、仮名序の直訳以外に、此類の違つた記事を交へてゐることに、疑ひを挟む処から出てゐるらしい。此漢文序が疑ふべくば、仮名序も疑はなければならない。殊に考へねばならぬのは、今日印刷せられた書物のやうに、発行年月が定まらず、幾らでも増補訂正出来たものの写本時代には、譬(たと)ひそれが、勅撰の書であつても、編纂後数回の増訂は、自由であつたはずである。現に、漢文序を信じれば、古今集の前に続万葉集といふものが、出来てゐたのである。数年の後其に、訂正を加へたのが、古今となつたのだとある。
さういふ風にして出来た古今の仮名序が、撰修上奏の際に、書かれたまゝとも言はれない上に、漢文序の如きは、可なりの年月を隔てた後に、添へられても一時に固定せなかつた当時の編纂物としては、不思議はない。さすれば、その二つの序の間に、自由書き添へも出来る余地は考へられる。かうして、漢文の序を信じれば、続万葉が古今の前身で、古今はもと/\、万葉集の後継として作られたものと考へて差し支へがない。此続万葉集に対して古万葉集の名で、平安時代は通つて居たものか。菅家(クワンケ)万葉即、新撰万葉集に対した名とするのはおぼつかない。今の新撰万葉と性質の違う新撰万葉集が元、あつたとも思はれるから、古今の続万葉は、其が増訂をする積りで勅撰せられたものか、とも言ふ事が出来よう。二つの序の最適切な解釈は、平城説の外にないことになる。更に脇の方から、其可能性を試して見よう。

     二 大伴家持

一体万葉集の撰者に関する諸説の中、多少確実性を持つて居るものは、大伴家持をば、大なり小なり関係させて説いて居る。
平安朝の第一桓武天皇延暦四年八月に、大伴家持は亡くなつた。実に、当時まで長岡都造営最中で、平安城はかたもなかつた時である。処が、翌月の事、家持の生前東宮大夫(ダイブ)として事(つか)へて居た早良(サハラ)皇太子が、新都造営主任であつた藤原種継暗殺せしめられた事件が起つた。一个月も立たぬ間の出来事であつたので、彼は其謀主に擬せられて、名簿は除かれる。其子永主(或は、永手)其他が流罪になつた。此より僅か三年前の延暦元年にも、既に一度氷上川継の乱にまき添へで、解官の上、京を構はれた事があつた。其は、直に免(ゆる)されたが、三度目のは長かつた。平城天皇の御代になつてから、先帝の遺詔として、本官に復されるまで、二十年待たなければならなかつた。
家持その外大伴一族及び、其家に出入りしたと見える人々の歌の、本集に数多く載つたばかりでなく、家持自身の手記に相違ないと鑑定すべき部分も、沢山にある。内はに見積つて、以上の部分だけが、家持の手で編纂せられたものとしても、ともかくも、万葉集に与へてゐる家持の為事は、可なりの分量がある。
本集の中、年月づけのあるもので、一番新しいのは、天平宝字三年一月の家持の歌である。ちようど、彼が死んで、大伴本家の離散した年から、二十五年前に当る。此時に編纂を終へて、公表したものとも思はれぬ。其後の彼は、多く外官に任ぜられて、延暦元年まで、殆ど落ちついて都の生活を味うて居る暇がなかつたものと思はれる。さすれば、其後の怱忙たる事情を見れば、体裁が整へられ、公表せられたらうとは信ぜられぬ。


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