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三つの挿話 - 神西 清 ( じんざい きよし )

  • 古書≪森鴎外集≫7 青年、舞姫他 【 森鴎外】河出書房 貴重 初版
  • 「森鴎外私論」吉野俊彦 森鴎外評論-批評-書籍・10冊 N21681
  • 岩波文庫1675昭和41年/阿部一族他二編森鴎外 岩波書店
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  • ◆◇ 森鴎外著「青年」(新潮文庫) ◇◆  名著! 
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・うたかたの記  他三篇」(岩波文庫)◇◆
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 A氏は南露出身の機械技師である。北鉄譲渡の決済事務東京へやつて来てから二ヶ月ほどたち、そろそろ日本人人情にも慣れ気持のゆとりも出来てきたので、平気一人旅をするやうになつた。これも、A氏がある工場へ買付品の検収のため旅行したときの挿話である。
 その二等車は大して混み合つてゐたわけでもなかつたが、A氏の向ひは空席ではなく一人の若い日本の令嬢が腰を下ろしてゐた。この令嬢は始発駅で発車間ぎはにすうつと乗り込んで来て、ほかに適当な席も見当らなかつたのだらう、別にこだはる様子もなく外国人であるA氏の前に席をとつたのである。持物といつたらハンドバッグ一つきり、連れがあるかと思へばさうでもない。黒いスーツに黒い外套(がいとう)、それを細つそりした身に上品に着こなしてゐる。席につくなりA氏に一瞥(いちべつ)を与へるでもなく、窓外へ眼をそらした。
 尤(もっと)もA氏の方でも、この令嬢を初めからじろじろ眺める非礼を敢(あえ)てしたわけではない。彼はだいぶん時代のついたボストン・バッグから、今朝事務所受けとつた妻の便りや新聞や、また検収に必要な規格上の要項やさうしたものを取り出して読み耽(ふけ)つた。二時間ほどして、もうほかに読むものがなくなつたとき、思ひ出したやうにポケット煙草(たばこ)へ手をやりながら、はじめて向ひ側の令嬢に注意したのである。
 彼女は相変らず窓外の景色に所在なささうな眸(ひとみ)を放つてゐる。A氏には彼女が、乗り込んだ時から身じろぎもせずにその退屈な姿勢をとりつづけてゐるもののやうに見える。うち見たところ教養も豊かに具(そな)へてゐるに違ひないこの令嬢が、雑誌一つ開くではなくぼんやりと窓外へ眼をやつてゐるのが、ひどく不思議なやうな気がした。いや、不思議といへばそれだけではない。よく見ると、西洋鷹匠(たかじょう)のかぶるやうな黒い帽子で半ばかくされてゐるその額(ひたい)が、思ひなしか妙に蒼(あお)ざめて深い憂愁を湛(たた)へてゐるやうにさへ見えるのである。光線の具合かな、とA氏は思つた。だがそれにしても……。
 一体A氏は日本の令嬢なるものをしげしげと観察する機会にめぐまれたのはこれが初めてなのである。来朝以来、公けの席などで芸者といふものを恰(あたか)も日本代表女性のやうに誇示される機会はあるにはあつたが、正直のところA氏はこの種の女性には怖毛(おぞけ)をふるつてゐる。不自然な結髪、生彩のない厚化粧、そして何よりも堪(たま)らないあの髪油の匂ひ、といふよりも寧(むし)ろ臭気。さうした死んだ美を敢(あえ)て外国人に誇示する日本人心理を、寧ろ怪訝(けげん)なものにさへ思つてゐる。といつて日本家庭に縁のないA氏は、銀座劇場などで見かける溌剌(はつらつ)とした令嬢に、わづかに日本女性の生ける美を見出(みいだ)して来たに過ぎない。
 しかし、いま眼(ま)のあたりにするこの令嬢は、少くもそれら嬉々(きき)とした令嬢群とも選を異にしてゐるやうである。ひよつとしたらこれは、日本の智的な女性代表的タイプの一つかも知れない。憂愁の底に一種をかし難い気品がある。それが平ぜい女性の前で煙草を喫(す)ふことなど一向平気なA氏にも、何か一言ゆるしを得たい義務感のやうなものを強(し)ひるのである……。
 A氏は次第にいまいましくなつた。そこで思ひ切つてホープの函(はこ)をポケットからとり出すと、ふと小声で独りごちたのである。――
お嬢さん、何だつてさう浮かない顔をしてらつしやる?」
 これは断じてこの令嬢に言ひかけたのではない。ふつとさういふ母国語の一句が鼻唄のやうな韻律をもつて口をついたに過ぎなかつた。
 と、その途端に再びA氏を愕(おどろ)かせることが起つた。その令嬢は、つと窓の外からA氏の顔に眼を転ずると、意外なことに生粋(きっすい)のロシヤ語で――恐らくA氏が来朝以来はじめて日本人の口から聞くことが出来たほどの生粋のロシヤ語で、切つて返して来た。
「何でもございませんわ。私はただ退屈なだけですの。」
 A氏は唖然(あぜん)とした。次いでさつと顔を紅らめた。次いで、ああ飛んでもないことを言はなくつてよかつたと胸を撫(な)でおろした。
 この退屈した二人が、令嬢の下車した温泉駅までの時間を、お互ひに意外な話相手を見出(みいだ)したことは言ふまでもない。A氏の聞いた所によると、何でもその令嬢は外交官の娘で、永らくロシヤに滞在したことのある人だつたさうである。


 A氏はこの話をして、「全く独り言でもうつかりした事は言へないものだ」と感慨ぶかさうに繰り返すのだつたが、これを聞いてゐた日本人のB(これは僕の友人で、対蘇(たいソ)貿易に従事してゐる或る会社に勤めてゐる。僕はこのBの口からこれらの挿話を又聞きに聞いたのである――)も、頗(すこぶ)るこの話に興味をそそられた。で或る時、これも北鉄のことで滞京してゐる技師Cにその話をし、君も何か面白い話の種を持つてゐないかねと尋ねた。するとモスクヴァつ児(こ)であるC技師は、にやりと一笑して、次のやうな譬喩(ひゆ)を以て答へた。
 ……ウクライナのさるところに猟の名手がゐた。あるとき虎狩りに出かけて行つて、かういふ土産(みやげ)話をした。
 僕がさる淋(さび)しい谷間に辿(たど)りついて、ふと前方を見ると、遥か彼方(かなた)の丘の蔭から何と虎の頭がのぞいてゐるぢやないか。僕は勇躍|狙(ねら)ひをさだめ、ずどんと一発ぶつ放した。勿論(もちろん)みごとに命中して、虎の頭はがくりと落ちて見えなくなつた。仕澄ましたりと僕は歩み寄る。


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