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三筋町界隈 - 斎藤 茂吉 ( さいとう もきち )

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  • 【ちくま学芸文庫・稀少本】中野重治『斎藤茂吉ノート』
  • ▲遊楽古書⑰「茂吉小文」斎藤茂吉▲S24年/朝日新聞社/絶版/初版
  • 斎藤茂吉 短冊 歌人・精神科医 アララギ
  • ◆本◇現代日本文学全集23 S28発行 斎藤茂吉 q
  • 0805 日本の文学26 柳田国男・斎藤茂吉・折口信夫 付録付き
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       一  この追憶随筆明治二十九年を起点とする四、五年に当るから、日清(にっしん)戦役が済んで遼東還附(りょうとうかんぷ)に関する問題が囂(かまびす)しく、また、東北三陸の大海嘯(だいかいしょう)があり、足尾銅山鉱毒事件があり、文壇では、森鴎外の『めさまし草』、与謝野鉄幹(よさのてっかん)の『東西南北』が出たころ、露伴の「雲の袖(そで)」、紅葉(こうよう)の「多情多恨」、柳浪(りゅうろう)の「今戸心中(いまどしんじゅう)」あたりが書かれた頃(ころ)に当るはずである。東京鉄道馬車がはじめて出来て、浅草観音境内には砂がき婆(ばあ)さんのいたころである。この砂がき婆さんは一目眇(すがめ)の小さな媼(おうな)であったが、五、六種の色の粉末を袋に持っていて人だかりの前で、祐天和尚(ゆうてんおしょう)だの、信田(しのだ)の森だの、安珍清姫だの、観世音霊験記だのを、物語をしながら上下左右自由自在に絵を描いて行く、白狐(びゃっこ)などは白い粉で尾のあたりからかいて、赤い舌などもちょっと見せ、しまいに黒い粉で眼を点ずる、不動明王の背負う火焔(かえん)などは、真紅な粉で盛りあげながら描くといったような具合で、少年の私は観世音に詣(もう)ずるごとに其処を立去りかねていたものである。その媼もいつのまにか見えなくなった、何時(いつ)ごろどういう病気で亡くなったか知る由もなく、また媼の芸当の後継(あとつぎ)もいず、類似のわざをする者も出ずにしまったから、あれはあれで絶えたことになる。その頃助手のようなものは一人も連れて来ずに、いつも媼ひとりでやって来ていた。またその粉末も砂がきとはいえ、砂でなくて饂飩粉(うどんこ)か何かであったのかも知れず、それにも一種の技術があって万遍なく色の交るように拵(こしら)えてあったのかも知れないが、実際どういうものであったか私にはよく分からぬ。また現在ああいうものが復興するにせよ、時代には敵(かな)わぬだろうから、あの成行きはあれはあれで好(よ)かったというものである。
 鉄道馬車も丁度そのころ出来た。蔵前(くらまえ)どおりを鉄道馬車が通るというので、女中に連れられて見に行ったことがある。目隠しをした二頭の馬が走ってゆくのは、レールの上を動く車台を引くので車房には客が乗っている。私が郷里で見た開化絵を目(ま)のあたり見るような気持であったが、そのころまでは東京にもレールの上を走る馬車はなかったものである。この馬車電車出来るまで続いたわけである。電車出来たてに犬が轢(ひ)かれたり、つるみかけている猫が轢かれたりした光景をよく見たものであるが、鉄道馬車場合にはそんな際(きわ)どい事故は起らぬのであった。

       二

 そういうわけで、私は数えどし十五のとき、郷里|上(かみ)ノ山(やま)の小学校を卒(お)え、陰暦七月十七日、つまり盆の十七日の午前一時ごろ父に連れられて家を出た。父は大正十二年に七十三歳で歿(ぼっ)したから、逆算してみるに明治二十九年にはまだ四十六歳のさかりである。しかし父は若い時分ひどく働いたためもう腰が屈(まが)っていた。二人は徒歩山形あたりはまだ暁の暗いうちに過ぎ、それから関山越えをした。その朝山形を出はずれてから持っていた提灯(ちょうちん)を消したように憶(おぼ)えている。
 関山峠はもうそのころは立派街道(かいどう)でちっとも難渋しないけれど、峠の分水嶺を越えるころから私の足は疲れて来て歩行が捗(はかど)らない。広瀬川上流に沿うて下るのだが、幾たびも幾たびも休んだ、父はそういう時には私に怪談をする。それは多く狐(きつね)を材料にしたもので父の実験したものか、または村の誰彼実験したもののようにして話すので、ただの昔話でないように受取ることも出来る。しかしその怪談の中にはもう話してもらったのもあるし足の疲労の方が勝つものだから、だんだん利目(ききめ)がなくなって来るというような具合であった。ところがあたかもそのとき騎兵隊演習戦があった。卒は黄の肋骨(ろっこつ)のついた軍服でズボンには黄の筋が入ってあり、士官は胸に黒い肋骨のある軍服でズボンには赤い筋が入っている。それを見たとき疲労も何も忘れてしまった。私は日清戦争錦絵(にしきえ)は見ていても本物を見るのはその時が初めてであった。
 一隊は広瀬川此岸(しがん)におり、敵らしい一隊は広瀬川の対岸の山かげあたりにいる。戦闘が近づくと当方隊の一部は馬から下り広瀬川の岸に散開して鉄砲を打ちかけた。そうすると向うからも鉄砲の音が聞こえてくる。その音は私には何ともいえぬ緊張した音である。暫(しば)らく鉄砲を打っていたかとおもうと、当方の一隊は尽(ことごと)く抜剣し橋を渡って突撃した。父も私もこういう光景を見るのは生れてからはじめてであった。私の元気はこれを見たので回復して日の暮れ作並(さくなみ)温泉に著(つ)いた。その日の行程十五里ほどである。
 翌日仙台に著いて一泊し、東北での城下仙台に目のあたり来たことを感じ、旅館では最中(もなか)という菓子をはじめて食った。当時長兄が一年志願兵第二師団に入営していたのに面会に行ったが機動演習で留守であった。そこで一日置いて朝仙台を発し、夜になって東京上野駅に著いた。そして、世の中にこんな明るい夜が実際にあるものだろうかとおもった。数年を経て不夜城と言う言葉を覚えたが、その時も上野駅にはじめて著いたときの印象を逆におもい出したものであった。そのころの燈火は電燈よりも石油の洋燈(ラムプ)が多かったはずだのにそんなに明るく感じたものである。
 それから父と二人は二人乗の人力車(じんりきしゃ)で浅草区東|三筋町(みすじまち)五十番地に行ったが、その間の町は上野駅のように明るくはなかった。やはり上ノ山ぐらいの暗いところが幾処もあって、少年の私の脳裡(のうり)には種々雑多な思いが流れていたはずである。さてその五十番地には、養父斎藤紀一先生浅草医院というのを開いていたので、其処(そこ)にたどりついたのである。
 医院はまだ宵の口なので、大きなラムプが部屋に吊(つ)りさげられてあって光は皎々(こうこう)と輝いていた。客間は八畳ぐらいだが紅(あか)い毛氈(もうせん)などが敷いてあって万事が別な世界である。また、最中という菓子毎日のように食うことが出来る
 ここに書いた陰暦七月十七日陽暦にすれば何日になるだろうかと思って調べたことがある。それに拠(よ)ると旧の七月十七日は新の八月二十五日になるから、二十八日か二十九日かに東京に著いたことになる。

       三

 養父紀一先生はそのころ紀一郎といったが、紀一という文字非常によいものだと漢学出来る患家の一人がいったとかで紀一と改めたのである。父の開業していた、その浅草医院は、大学先生の見離した病人が本復(ほんぷく)したなどという例も幾つかあって、父は浅草区内で流行医の一人になっていた。


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