上海された男 - 牧 逸馬 ( まき いつま )
※
夜半(よなか)に一度、隣に寝ている男の呻声(うめきごえ)を聞いて為吉(ためきち)は寝苦しい儘、裏庭に降立(おりた)ったようだったが、昼間の疲労(つかれ)で間もなく床に帰ったらしかった。その男は前日無免許の歯医者に歯を抜いて貰った後が痛むと言って終日不機嫌だった。為吉が神戸中の海員周旋宿を渡り歩いた末、昨日(きのう)波止場に近いこの合宿所へ流れ込んで、相部屋でその男と始めて会った時も、男は黙りこくって、煩(うるさ)そうに為吉を見やった丈(だ)けだった。
彼は近海(きんかい)商船の豊岡丸(とよおかまる)から下船した許(ばか)りの三等油差しだという話だった。遠航専門の甲板部の為吉とは話も合わないので、夜っぴて唸(うな)っていても、為吉は別に気に止めなかったのである。
油臭い蒲団(ふとん)の中で、朝為吉が眼を覚ました時には、隣の夜具は空だった。彼は別に気に止めなかった。それよりも既(も)う永い間、陸(おか)にいる為吉には機関の震動とその太い低音とが此の上なく懐しかった。殊に朝の眼覚めには、それが一入(ひとしお)淋しく感じられた。
濠洲航路の見習水夫でも、メリケン行の雑役でも好いから、今日こそは一つ乗組まなくては、と為吉は朝飯もそこそこに掲示場へ飛び出した。黒板には只一つ樺太(からふと)定期ブラゴエ丸の二等料理人の口が出ているだけで、その前の大|卓(テーブル)の上に車座に胡座(あぐら)を掻(か)いて、例(いつ)もの連中が朝から壷を伏せていた。
「きあ、張ったり、張ったり!」
と鎮洋丸(ちんようまる)をごてって下(おろ)された沢口(さわぐち)が駒親(こまおや)らしかった。
「張って悪いは親父の頭――と」
「へん、張らなきゃ食えねえ提燈屋(ちょうちんや)――か」
為吉は呆然(ぼんやり)と突っ立って、大きくなって行く場を見詰めていた。建福丸(けんぷくまる)が一人で集めていた。
「いい加減におしよ、此の人達は」
と女将(おかみ)のおきん婆あが顔を出した。「今一人来てるんだよ、朝っばらから何だね。それから、為さん、鳥渡(ちょいと)顔を貸して――」土間を通って事務所になっている表の入口へ出る迄、おきん婆あは低声(こごえ)に囁(ささや)き続けた。
「素直にね、それが一番だよ。誰にだって出来心ってものはあるんだからさ、大したことはなかろうけれど、まあ、素直に、ね」
指の傷を気にし乍(なが)ら、為吉は何故か仏頂面をしていた。何か解ったような、それでいて何も解らないような妙な気もちだった。事務室には明るい午前の陽が漲(みなぎ)って、暫(しば)らくは眼が痛いようだった。
「為ってのはお前か」
と太い声がした。返事をする前に、為吉は瞬きし乍ら声の主を見上げた。洋服を着た四十代の男だった。
「お前は坂本新太郎(さかもとしんたろう)というのを知ってるだろう」
彼は矢継早やに質問した。坂本新太郎というのは昨夜の相部屋の男の名だった。相手の態度から何か忌(いま)わしい事件を直感した為吉は黙った儘頷いた。
「太い奴だ!」と男は為吉の手首を掴んだ。驚いた顔が幾つも戸の隙間に並んでいた。
「僕は観音崎署(かんのんざきしょ)の者だ。一寸同行しろ」
超自然的に為吉は冷静だった。周囲の者が立騒ぐのを却って客観視し乍ら、口許(くちもと)に薄笑いさえ浮べていた。それが彼を極悪人のように見せた。只かまを掛けるつもりで荒っぽく出た刑事は、これで一層自信を強くしたようだった。
「さっさと来い」と彼は自分で興奮して為吉を戸口の方へ引擦ろうとした。
「行きますよ、行きさえしたら宜(い)いんでしょう。なあに直ぐ解るこった」
「早くしろ」
と刑事は為吉を小突こうとした。其の手を払って為吉は叫んだ。
「何をしやがる! Damn You」
刑事の右手が飛んで為吉の頬桁(ほおげた)を打った。
「抵抗すると承知せんぞ」
「まあ、まあ、旦那」と顔役の亜弗利加(アフリカ)丸が飛んで出た。「本人も柔順(おとな)しくお供すると言ってるんですから――が、一体|何(ど)うしたと言うんです」
「太い野郎だ」と刑事は息を切らしていた。
「君等は未(ま)だ知らんのか。昨夜坂本新太郎が殺害されたのだ」
一同は愕然(あっ)と驚いた。最も駭(おどろ)いた――或いはそう見えた――のが為吉であった。
「それは真実(ほんとう)ですか、それは」
「白ばくれるな!」と刑事が呶鳴(どな)りつけた。
「本署へ引致する前に証拠物件を捜索せにゃならん。前へ出ろ!」
すると「サカモト」と羅馬(ローマ)字の彫られたジャック小刀(ナイフ)が為吉の菜葉洋袴(なっぱズボン)の隠しから取出された。
「そいつは違う」と為吉は蒼くなって言った。
「黙れ!」刑事は指の傷へ眼を付けた。
「其の繃帯は何だ、血が染(にじ)んでるじゃないか。
彼は近海(きんかい)商船の豊岡丸(とよおかまる)から下船した許(ばか)りの三等油差しだという話だった。遠航専門の甲板部の為吉とは話も合わないので、夜っぴて唸(うな)っていても、為吉は別に気に止めなかったのである。
油臭い蒲団(ふとん)の中で、朝為吉が眼を覚ました時には、隣の夜具は空だった。彼は別に気に止めなかった。それよりも既(も)う永い間、陸(おか)にいる為吉には機関の震動とその太い低音とが此の上なく懐しかった。殊に朝の眼覚めには、それが一入(ひとしお)淋しく感じられた。
濠洲航路の見習水夫でも、メリケン行の雑役でも好いから、今日こそは一つ乗組まなくては、と為吉は朝飯もそこそこに掲示場へ飛び出した。黒板には只一つ樺太(からふと)定期ブラゴエ丸の二等料理人の口が出ているだけで、その前の大|卓(テーブル)の上に車座に胡座(あぐら)を掻(か)いて、例(いつ)もの連中が朝から壷を伏せていた。
「きあ、張ったり、張ったり!」
と鎮洋丸(ちんようまる)をごてって下(おろ)された沢口(さわぐち)が駒親(こまおや)らしかった。
「張って悪いは親父の頭――と」
「へん、張らなきゃ食えねえ提燈屋(ちょうちんや)――か」
為吉は呆然(ぼんやり)と突っ立って、大きくなって行く場を見詰めていた。建福丸(けんぷくまる)が一人で集めていた。
「いい加減におしよ、此の人達は」
と女将(おかみ)のおきん婆あが顔を出した。「今一人来てるんだよ、朝っばらから何だね。それから、為さん、鳥渡(ちょいと)顔を貸して――」土間を通って事務所になっている表の入口へ出る迄、おきん婆あは低声(こごえ)に囁(ささや)き続けた。
「素直にね、それが一番だよ。誰にだって出来心ってものはあるんだからさ、大したことはなかろうけれど、まあ、素直に、ね」
指の傷を気にし乍(なが)ら、為吉は何故か仏頂面をしていた。何か解ったような、それでいて何も解らないような妙な気もちだった。事務室には明るい午前の陽が漲(みなぎ)って、暫(しば)らくは眼が痛いようだった。
「為ってのはお前か」
と太い声がした。返事をする前に、為吉は瞬きし乍ら声の主を見上げた。洋服を着た四十代の男だった。
「お前は坂本新太郎(さかもとしんたろう)というのを知ってるだろう」
彼は矢継早やに質問した。坂本新太郎というのは昨夜の相部屋の男の名だった。相手の態度から何か忌(いま)わしい事件を直感した為吉は黙った儘頷いた。
「太い奴だ!」と男は為吉の手首を掴んだ。驚いた顔が幾つも戸の隙間に並んでいた。
「僕は観音崎署(かんのんざきしょ)の者だ。一寸同行しろ」
超自然的に為吉は冷静だった。周囲の者が立騒ぐのを却って客観視し乍ら、口許(くちもと)に薄笑いさえ浮べていた。それが彼を極悪人のように見せた。只かまを掛けるつもりで荒っぽく出た刑事は、これで一層自信を強くしたようだった。
「さっさと来い」と彼は自分で興奮して為吉を戸口の方へ引擦ろうとした。
「行きますよ、行きさえしたら宜(い)いんでしょう。なあに直ぐ解るこった」
「早くしろ」
と刑事は為吉を小突こうとした。其の手を払って為吉は叫んだ。
「何をしやがる! Damn You」
刑事の右手が飛んで為吉の頬桁(ほおげた)を打った。
「抵抗すると承知せんぞ」
「まあ、まあ、旦那」と顔役の亜弗利加(アフリカ)丸が飛んで出た。「本人も柔順(おとな)しくお供すると言ってるんですから――が、一体|何(ど)うしたと言うんです」
「太い野郎だ」と刑事は息を切らしていた。
「君等は未(ま)だ知らんのか。昨夜坂本新太郎が殺害されたのだ」
一同は愕然(あっ)と驚いた。最も駭(おどろ)いた――或いはそう見えた――のが為吉であった。
「それは真実(ほんとう)ですか、それは」
「白ばくれるな!」と刑事が呶鳴(どな)りつけた。
「本署へ引致する前に証拠物件を捜索せにゃならん。前へ出ろ!」
すると「サカモト」と羅馬(ローマ)字の彫られたジャック小刀(ナイフ)が為吉の菜葉洋袴(なっぱズボン)の隠しから取出された。
「そいつは違う」と為吉は蒼くなって言った。
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基本情報 名前 牧 健(まき けん) あだ名 まきけん 出席番号 27 生年月日 6月29日 血液型 A型 所属クラブ 野球部 趣味 早朝マラソン 特技 柔軟 身長 -
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