世界怪談名作集 05 クラリモンド - ゴーチェ テオフル ( ゴーチェ テオフル )
世界怪談名作集
クラリモンド
ゴーチェ Theophile Gautier
岡本綺堂訳
一
わたしがかつて恋をしたことがあるかとお訊(たず)ねになるのですか。あります。わたしの話はよほど変わっていて、しかも怖ろしい話です。わたしは六十六歳になりますが、いまだにその記憶の灰をかき乱したくないのです。
わたしはごく若い少年の頃から、僧侶の務めを自分の天職のように思っていましたので、すべて私の勉強はその方面のことに向けていました。二十四のころまでのわたしの生活は、長い初学者としての生活でした。神学の課程を卒(お)えますと、つづいて種(しゅ)じゅの雑務に従事しましたが、牧師長の人たちはわたしがまだ若いにもかかわらず、わたしを認めてくれまして、最後に聖職につくことを許してくれました。そうして、その僧職の授与式は復活祭の週間のうちに行なわれることに決まりました。
わたしはその頃まで、世間に出たことがありませんでした。わたしの世界は、学校の壁と、神学校関係の社会だけに限られていました。それで、わたしは世間でいう女というものには、極めて漠然とした考えしか持っていませんでしたし、また、そんな問題において考えたりすることは決してありませんでしたので、全く無邪気のままに生活していたのでした。私は一年にたった二度、わたしの年老いた虚弱な母に逢いに行くばかりで、私とほかの世間との関(かか)り合いというものは、全くこれだけのことしかなかったのであります。
わたしはこの生活になんの不足もありませんでした。わたしは自分が二度と替えられない終身の職に就いたことに対しては、なんの躊躇(ためらい)も感じていませんでした。私はただ心の喜びと、胸の躍(おど)りを感じていました。どんな婚約をした恋人でも、わたしほどの夢中の喜びをもって、ゆるやかな時刻の過ぎるのをかぞえたことはありますまい。わたしは寝る時には、聖餐式(せいさんしき)でわたしが説教する時のことを夢みながら床(とこ)につくのです。わたしはこの世に、僧侶になるというほどの喜びは、他に何もないものだと信じていました。詩人になれても、帝王になれても、わたしはそれを断わりたいほどで、わたしの野心はもうこの僧侶以上に何も思っていませんでした。
とうとう私にとって大事の日が参りました。私はまるで自分の肩に羽(はね)でも生えているように、浮きうきした心持ちで、教会の方へ軽く歩んでいました。まるで自分を天使(エンジェル)のように思うくらいでした。そうして、大勢(おおぜい)の友達のうちには暗いような物思わしげな顔をしている者があるのを、不思議に思うくらいでありました。わたしは祈祷(きとう)にその一夜を過ごして、まったく法悦(ほうえつ)の状態にあったのです。慈愛ぶかい司教さまは永遠にいます父――神のごとくに見え、教会の円天井(まるてんじょう)のあなたに天国を見ていたのであります。
この儀式をくわしくご存じでしょうが、まず浄祓式(ベネゼクション)がおこなわれ、それから、両種の聖餐拝受式(コミュニオン)、それから、てのひらに洗礼者の油を塗る抹油式(まつゆしき)、それが済んでから、司教と声をそろえて勤める神聖なる献身の式が終わるのであります。
ああ、しかしヨブ(旧約ヨブ記の主人公)が、「眼をもて誓約せざるものは愚かなる人間なり」と言ったのは、よく真理を説いています。わたしがその時まで垂れていた頭を偶然にあげると、わたしの眼の前にまるでさわれるぐらいに近く思われて、実際は自分のところからかなり離れた聖壇の手すりのはしに、非常に美しい若い女が目ざむるばかりの高貴の服装をしているのを見ました。
それはわたしの眼には、世界が変わったように思われました。私はまるで盲目の眼が再びあいたように感じたのです。つい今の瞬間までは栄光に輝いていた司教の姿はたちまちに消え去って、黄金の燭台に燃えていた蝋燭はあかつきの星のように薄らいで、一面の暗闇(くらやみ)がお堂の内に拡がったように思われました。かの愛らしい女はその暗闇を背景にして、天使の出現のようにきわだって浮き出していたのです。彼女は輝いていました。実際、輝いて見えるというだけでなく、光りを放っていました。
わたしは他のことに気を奪(と)られてはならないと思って、二度と眼をあくまいと決心してまぶたを伏せました。なぜといって、わたしの煩悶はだんだんに嵩(こう)じてきて、自分はいま何をしているか分からないくらいになったからでした。それにもかかわらず、次の瞬間にはまたもや眼をあげて、睫毛(まつげ)のあいだから彼女を見ました。すると、誰しも太陽を見つめる時、むらさき色の半陰影が輪を描くように、彼女はすべて虹色(にじいろ)にかがやいていました。
ああ、なんという美しさであろう。偉大なる画家は、理想の美を天界に求めて、地上に聖女の真像を描きますが、今わたしの眼前にある自然のほんとうの美しさに近い描写はまだ見いだされません。いかなる詩句といえども、画像の絵具面(パレット)といえども、彼女の美を写してはいませんでした。彼女はやや脊丈(せい)の高い、女神のような形と態度とを有していました。やわらかい金色(こんじき)な髪をまん中で二つに分け、それが金の波を打つ二つの河になって両方の顳※(こめかみ)に流れているところは、王冠をいただく女王のように見えました。額(ひたい)は透き通った青みのある白さで、二つのアーチ形をした睫毛の上にのび、おのずからなる快活な輝きを持つ海緑色の瞳(ひとみ)をたくみに際立(きわだ)たしているのでした。ただ不思議に見えたのは、その眉がほとんど黒いことでした。それにしても、なんという眼でしょう。ただ一度のまたたきだけでも、一人の男の運命を決めることのできる眼です。今までわたしが人間に見たことのない、清く澄んだ、熱情のある、うるんだ光りを持つ、生きいきした眼でありました。
二つの眼は矢のように光りを放ちました。それがわたしの心臓に透るのをはっきりと見たのです。
わたしはごく若い少年の頃から、僧侶の務めを自分の天職のように思っていましたので、すべて私の勉強はその方面のことに向けていました。二十四のころまでのわたしの生活は、長い初学者としての生活でした。神学の課程を卒(お)えますと、つづいて種(しゅ)じゅの雑務に従事しましたが、牧師長の人たちはわたしがまだ若いにもかかわらず、わたしを認めてくれまして、最後に聖職につくことを許してくれました。そうして、その僧職の授与式は復活祭の週間のうちに行なわれることに決まりました。
わたしはその頃まで、世間に出たことがありませんでした。わたしの世界は、学校の壁と、神学校関係の社会だけに限られていました。それで、わたしは世間でいう女というものには、極めて漠然とした考えしか持っていませんでしたし、また、そんな問題において考えたりすることは決してありませんでしたので、全く無邪気のままに生活していたのでした。私は一年にたった二度、わたしの年老いた虚弱な母に逢いに行くばかりで、私とほかの世間との関(かか)り合いというものは、全くこれだけのことしかなかったのであります。
わたしはこの生活になんの不足もありませんでした。わたしは自分が二度と替えられない終身の職に就いたことに対しては、なんの躊躇(ためらい)も感じていませんでした。私はただ心の喜びと、胸の躍(おど)りを感じていました。どんな婚約をした恋人でも、わたしほどの夢中の喜びをもって、ゆるやかな時刻の過ぎるのをかぞえたことはありますまい。わたしは寝る時には、聖餐式(せいさんしき)でわたしが説教する時のことを夢みながら床(とこ)につくのです。わたしはこの世に、僧侶になるというほどの喜びは、他に何もないものだと信じていました。詩人になれても、帝王になれても、わたしはそれを断わりたいほどで、わたしの野心はもうこの僧侶以上に何も思っていませんでした。
とうとう私にとって大事の日が参りました。私はまるで自分の肩に羽(はね)でも生えているように、浮きうきした心持ちで、教会の方へ軽く歩んでいました。まるで自分を天使(エンジェル)のように思うくらいでした。そうして、大勢(おおぜい)の友達のうちには暗いような物思わしげな顔をしている者があるのを、不思議に思うくらいでありました。わたしは祈祷(きとう)にその一夜を過ごして、まったく法悦(ほうえつ)の状態にあったのです。慈愛ぶかい司教さまは永遠にいます父――神のごとくに見え、教会の円天井(まるてんじょう)のあなたに天国を見ていたのであります。
この儀式をくわしくご存じでしょうが、まず浄祓式(ベネゼクション)がおこなわれ、それから、両種の聖餐拝受式(コミュニオン)、それから、てのひらに洗礼者の油を塗る抹油式(まつゆしき)、それが済んでから、司教と声をそろえて勤める神聖なる献身の式が終わるのであります。
ああ、しかしヨブ(旧約ヨブ記の主人公)が、「眼をもて誓約せざるものは愚かなる人間なり」と言ったのは、よく真理を説いています。わたしがその時まで垂れていた頭を偶然にあげると、わたしの眼の前にまるでさわれるぐらいに近く思われて、実際は自分のところからかなり離れた聖壇の手すりのはしに、非常に美しい若い女が目ざむるばかりの高貴の服装をしているのを見ました。
それはわたしの眼には、世界が変わったように思われました。私はまるで盲目の眼が再びあいたように感じたのです。つい今の瞬間までは栄光に輝いていた司教の姿はたちまちに消え去って、黄金の燭台に燃えていた蝋燭はあかつきの星のように薄らいで、一面の暗闇(くらやみ)がお堂の内に拡がったように思われました。かの愛らしい女はその暗闇を背景にして、天使の出現のようにきわだって浮き出していたのです。彼女は輝いていました。実際、輝いて見えるというだけでなく、光りを放っていました。
わたしは他のことに気を奪(と)られてはならないと思って、二度と眼をあくまいと決心してまぶたを伏せました。なぜといって、わたしの煩悶はだんだんに嵩(こう)じてきて、自分はいま何をしているか分からないくらいになったからでした。それにもかかわらず、次の瞬間にはまたもや眼をあげて、睫毛(まつげ)のあいだから彼女を見ました。すると、誰しも太陽を見つめる時、むらさき色の半陰影が輪を描くように、彼女はすべて虹色(にじいろ)にかがやいていました。
ああ、なんという美しさであろう。偉大なる画家は、理想の美を天界に求めて、地上に聖女の真像を描きますが、今わたしの眼前にある自然のほんとうの美しさに近い描写はまだ見いだされません。いかなる詩句といえども、画像の絵具面(パレット)といえども、彼女の美を写してはいませんでした。彼女はやや脊丈(せい)の高い、女神のような形と態度とを有していました。やわらかい金色(こんじき)な髪をまん中で二つに分け、それが金の波を打つ二つの河になって両方の顳※(こめかみ)に流れているところは、王冠をいただく女王のように見えました。額(ひたい)は透き通った青みのある白さで、二つのアーチ形をした睫毛の上にのび、おのずからなる快活な輝きを持つ海緑色の瞳(ひとみ)をたくみに際立(きわだ)たしているのでした。ただ不思議に見えたのは、その眉がほとんど黒いことでした。それにしても、なんという眼でしょう。ただ一度のまたたきだけでも、一人の男の運命を決めることのできる眼です。今までわたしが人間に見たことのない、清く澄んだ、熱情のある、うるんだ光りを持つ、生きいきした眼でありました。
二つの眼は矢のように光りを放ちました。それがわたしの心臓に透るのをはっきりと見たのです。
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