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二十五年間の文人の社会的地位の進歩 - 内田 魯庵 ( うちだ ろあん )

  • ★2枚★ 昭和23年 24年 昭和二十三年 二十四年 1円
  • 横田順弥 百年前の二十世紀―明治・大正の未来予測
  • 明治・大正の未来予測「百年前の二十世紀」横田順彌 筑摩書房
  • ★☆眉村卓『二十四時間の侵入者』☆★◎秋元文庫版◎
  • 中野重治全集 第二十一巻★藝術家の立場・近代日本文学史考・文
  • 素顔のカラヤン二十年後の再会 眞鍋圭子★小澤征爾ベルリン交響
  • 希少!石原さとみ写真集 二十歳、夏 初版 美品
  • ■中古 鳩5銭錫貨 昭和二十一年製
  • 少年探偵 怪人二十面相 江戸川乱歩 S48 ポプラ社D69
  • 一圓/1円【銀貨】大日本 明治二十四年 コイン卸価格コレクション
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 二十五年という歳月は一世紀四分の一である。決して短かいとは云われぬ。此の間に何十人何百人の事業家、致富家、名士、学者が起ったり仆れたりしたか解らぬ。二十五年前には大外交家小村侯爵はタシカ私立法律学校の貧乏講師であった。英雄広瀬中佐はまだ兵学校の寄宿生であった。
 二十五年前には日清、日露の二大戦役が続いて二十年間に有ろうと想像したものは一人も無かった。戦争を予期しても日本が大勝利を得て一躍世界列強に伍すようになると想像したものは一人も無かった。それを反対にいつかは列強の餌食となって日本全国が焦土となると想像したものは頗る多かった。内地雑居となった暁は向う三軒両隣が尽く欧米人となって土地を奪われ商工業を壟断(ろうだん)せられ、総て日本人欧米人の被傭者、借地人、借家人小作人、下男、下女となって惴々焉憔々乎として哀みを乞うようになると予言したものもあった。又雑婚が盛んになって総ての犬が尽く合の子のカメ犬となって了ったように、純粋日本人の血が亡びて了うと悲観した豪(えら)い学者さえあった。国会とか内地雑居とかいうものが極楽のように喜ばれたり地獄のように恐れられたりしていた。
 二十五年前には東京市内には新橋上野浅草間に鉄道馬車が通じていたゞけで、ノロノロした痩馬のガタクリして行く馬車非常なる危険として見られて「お婆アさん危いよ」という俗謡流行った。電灯試験的に点火されても一時間に十度も二十度も消えて実地の役に立つものとは誰も思わなかった。電話というものは唯実験室内にのみ研究されていた。東海道鉄道さえが未だ出来上らないで、鉄道反対の気焔が到る処の地方に盛んであった。
 二十五年前には思想中心政治であった。文学が閑余の遊戯として見られていたばかりでなく、倫理哲学学者という小団体書斎に於ける遊戯であった。科学の如きは学校教育の一課目とのみ見られていた。真に少数なる読書階級一角政治論に触るゝ外は一般社会総て思想と全く没交渉であって、学術文芸の如きは遊戯としての外は所謂聡明なる識者にすら顧みられなかった。
 二十五年前には文学士春の屋朧の名が重きをなしていても、世間は驚異の目を※って怪しんだゝけで少しも文学を解していなかった。議会の開けるまで惰眠を貪るべく余儀なくされた末広鉄腸、矢野竜渓尾崎咢堂等諸氏の浪花節然たる所謂政治小説が最高文学として尊敬され、ジュール・ベルネの科学小説が所謂新文芸として当時の最もハイカラなる読者に款待やされていた。
 二十五年前には外山博士が大批評家であって、博士漢字破りの大演説が樗牛のニーチェ論よりは全国に鳴響いた。博士は又大詩人であって『死地に乗入る六百騎』というような韻文が当時の青年の血を湧かした。
 二十五年前には琴や三味線の外には音楽というものが無かった。オルガンやヴヮイオリンは学校道具であって、音楽学校の養成する音楽者というは『蛍の光』をオルガンで弾く事を知ってる人であった。音楽会を開いて招待しても嘆願しても聞きに来る人は一人も無かった。
 二十五年前には日本の島田や丸髷の目方が何十匁とか何百匁とかあって衛生上害があるという理由束髪が行われ初め、前髪も鬢も髦(かもじ)も引詰めて小さく結んで南京玉の網を被せたのが一番のハイカラであった。
 二十五年前には「国民之友」が漸く生れたばかりで、徳富蘇峰氏が志賀三宅両氏と共に並称せられた青年文人であった。硯友社未だ高等学校内の少年団体であって世間に顔出ししてなかった。依然として国文及び漢文文学の中堅として見られていた。
 二十五年前には今の日比谷公園の片隅に、昔の大名長屋海鼠壁や二の字窓が未だ残っていた。今の学者町たる本郷西片町は開けたばかりで広い/\原の彼地此地にポツポツ家が建ち初めた。西片町の下の植物園の近所には田があった。東京の到る処に昔の江戸の残り物があった。
 二十五年は顧みると早いようだが、中々長い歳月である。大抵な大事業は計劃せられ、実行せられ、終結せられて十分余りある。昔の悠長な時代さえ前九年後三年、十二年で東北征伐の大遠征を終ってる。平家が亡びたのは其の勃興したる平治から初めて檀の浦の最後までが二十七年、頼政の旗上げから数えるとたった六七年である。南朝五十七年も其前後の準備や終結を除いた正味二十五年ぐらいなものであろう。世界を震撼した仏国革命正味は六七年間である。千七百八十九年の抑々の初めから革命終って拿破烈翁(ナポレオン)に統一せられた果が、竟にウワータールーの敗北(千八百十五年)に到るまでを数えても二十六年である。米国独立戦争レキシントンから巴黎条約までが七年間である。如何なる時代歴史の頁を繙いて見ても二十五年間には非常なる大事件が何度も繰返されている。如何なる大破壊も如何なる大建設二十五年間には優に楽々と仕遂げ得られる。一国一都市の勃興も滅亡も一人一家の功名も破滅二十五年間には何事か成らざる事は無い。
 博文館は此の二十五年間を経過した。当時本郷の富坂の上に住っていた一青年たる小生は、壱岐殿坂を九分通り登った左側の「いろは」という小さな汁粉屋の横町を曲ったダラダラ坂を登り切った左側の小さな無商売屋(しもたや)造りの格子戸博文館看板が掛っていたのを記憶している。小生は朝に晩に其家の前を何度も通行した。此の小さな格子戸の中で日本出版界の革命が計劃されていたとは誰しも想像しなかったろう。
日本大家論集」という博文館の最初の試みの雑誌が物議を生じた。


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