人の国 関連リンク

豊島 与志雄 のオススメ作品

作家別索引

作品別索引

人の国 - 豊島 与志雄 ( とよしま よしお )

  • ★ジャンクリストフ3/ロマンロラン豊島与志雄昭和38年岩波文庫
  • ★ジャンクリストフ2/ロマンロラン豊島与志雄昭和37年岩波文庫
  • ★ジャンクリストフ1/ロマンロラン豊島与志雄昭和37年岩波文庫
  • ★ジャンクリストフ8/ロマンロラン豊島与志雄昭和38年岩波文庫
  • レ・ミゼラブル全4冊 ユーゴー・豊島与志雄 岩波文庫
  • レ・ミゼラブル 全4巻 ユーゴー作 豊島与志雄 訳 岩波文庫
  • 岩波文庫 レ・ミゼラブル 1巻 豊島与志雄訳 挿絵原画 
  • ロマン・ロラン:豊島与志雄訳:ジャン・クリストフ 全8冊
  • ジャン・クリストフ/ロマン・ロラン 豊島与志雄訳 岩波文庫全4冊
  • ●死刑囚最後の日●ユーゴー豊島与志雄●養徳叢書S24●即決
次のページ
 久保田さんは、六十歳で某大学教授の職を辞して以来、いつしか夜分に仕事をする習慣がついてしまった。夜分に仕事をするのは、必ずしも盗人や小説家のみに限ったことではない。久保田さんが従事していた仕事は、人類理想史という尨大な著述で、天上の神話楽園から地上の無政府共産主義理想郷に至るまで、人間の各種の理想歴史的に叙述することであった。そのために久保田さんは、毎晩遅くまで書斎に籠って勉強した。のみならず、終日書斎に起臥して、滅多に外出することもなかった。
 そういう生活一年ばかり続いて、この二月のはじめ頃から、久保田さんは急に元気が衰え、顔色が悪くなり、食慾が甚しく減じてきた。家族の者達がひどく心配するので、久保田さん自身も多少気に懸って、友人の老医学士へ相談してみた。
「なあに心配するほどのことはないよ。」と老医学士は口元に微笑を浮べ、平ったい指先で煙草の灰をはたきながら云った。「余り家にばかり蟄居しているから、機能の働きが鈍ってきたのさ。人間にもやはり植物と同様に、空気日光とが必要なんだ。少し外に出てみ給え、すぐに元気回復するよ。まあ何だね、若い綺麗な女にでも接するのは最も有効だが、君にはそういう直接療法も出来まいから、一つ間接療法として、天気のいい日郊外散歩に出かけたり、それから何よりも、夜更しを止めて、朝早く太陽と一緒に起き上ることだね。服薬なんかの必要は更にない。」
 事もなげにそう云われて、落付いた静かな眼付で見られると、久保田さんは少し極りが悪くなるくらいに安堵して、痩せた細長い指先で煙草一本つまんで、苦笑しながら答えた。
「じゃあその間接療法とかをやってみることにしよう。」
 そこで久保田さんは、老医学士の言葉家族の者達に伝えて、彼等が安堵するのを見て自分も益々安堵して、ゆっくりと間接療法に取掛った。
 風の少い打晴れ三月の或る日、久保田さんは半日を郊外散歩に費してみた。所が不幸にも、幻滅の悲哀をなめさせられた。春とは云えまだ冷い空気地面流れていて、郊外の風光を楽しむだけののびのびした気持になれなかったし、往来の電車はひどく込み合っていたし、霜解の田舎道は泥濘で歩きにくかった。それを我慢して兎に角半日を過してきたが、身体大変疲れた上に、頭が茫として愚かになった気がした。
時間無駄につぶした上に、頭まで悪くして、これほど馬鹿げたことはない。」
 そして久保田さんは、一度郊外散歩を思い諦めて、此度は早起の方に取掛った。
 習慣というものは、殊に老年になると、なかなか破り難いものである。夜更しをして朝寝の習慣がついている久保田さんには、太陽と一緒に起上るということが、そう容易くは出来なかった。前晩頼んでおいた女中夫人に声をかけられても、一寸返辞をしたきりで、も少しと思って躊躇しているうちに、またうとうととするのだった。
 そういうことを幾度か繰返した後、久保田さんは遂に或る朝、太陽より少し後れて、六時頃起き上ることが出来た。而も奇蹟的に、誰にも起されずに訳なく出来たのである。
 何だかちらちらとしてはっきり分らなかったが、そのちらちらとした中から、三分の一ほど欠けた不恰好な月がひょっこりと浮び出して、久保田さんの頭にはっきり映った。前晩窓を閉める時に、隣家の大きな欅のしなやかな枝先に引っかかっていた、その月だな……と思うと同時に、久保田さんは本当に眼を覚して、二つ三つ瞬きしたが、そのままふと起上ってしまった。
 下働きの女中一人起上ったばかりの所だった。その喫驚した顔付へ、久保田さんは自分でも少しおかしいほど軽い気持で、黙っておれと相図しておいて、冷い水で顔を洗い禿げかかった半白の髪を丁寧に撫でつけ、先刻の月影がまだ残っている頭を、不思議そうに打振りながら、座敷縁側を開けて庭に出てみた。
 爽かな三月下旬夜明だった。霧とも云えないほど薄すらとしたものが、植込の下影に逃げ迷っていて、清々(すがすが)しく打晴れた空には、薔薇色の光が一面に流れていた。遠く都会の眼覚のどよめきを伝えながらも、空気はまだしっとりと落付いていて、小鳥眠りを護ってるらしかった。久保田さんは両手を高く差上げ、力一杯に伸びをして、少し肌寒くなるのを快く感じてから、庭の隅々まで歩いてみた。
「ほう、なるほどこれは悪くない!」
 銀杏の小さな葉が出かかっていた。楓の可愛い若葉も拡がりかかっていた。桜の蕾が薄赤くふくらんでいた。紫陽花の枝には指のように太い芽が並んでおり、山吹の枝先にも小さな芽が無数についていた。苔のない柔い地面から匐い出している蚯蚓を、庭下駄に踏み潰すまいとしてひょいと飛び越すと、すぐ眼の前の茂みから、親指大の赤い椿の蕾が覗いていた。
「あら、もうお眼覚めでございますか。」
 足音もそれらしい気配さえもなく、不意に起ったその声音に、久保田さんは喫驚して、椿の蕾から振り向くと、十歩ばかり彼方の檜葉横手に、いつも機嫌のよい仲働きのお清が、殊にその時は一層晴れやかな笑顔をして、まるで宙に浮いたように佇んでいた。
「どうだい!」
 まだ消え去らぬ喫驚した気持の中からそう云って、四五歩近づいてゆくと、お清はしなやかな指先で前髪の後れ毛を撫で上げながら、覚めたばかりの澄み切った眼を細めて、円い笑顔をにこにこと笑いくずした。
「ほんとにどうしたんでございましょう。私の方が寝坊なんか致しまして。」
 その様子から言葉つきまで、平素書斎にやって来る折の、機嫌はよいが妙にかしこまった二十歳彼女とは、全く人が違ったようだった。久保田さんは落凹んだ眼をくるくるとさした。
「どうしたんだって、そりゃ何も……。」云いかけてまたも眼をくるくるとさした。


次のページ

豊島 与志雄 (とよしま よしお) 以外のオススメ作品

人の国 (ひとのくに) のリンク元

「人の国-豊島 与志雄」の関連ページ


関連ページ
Web Services by Yahoo! JAPAN