人魚の祠 - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )
泉鏡太郎
一
「いまの、あの婦人(ふじん)が抱(だ)いて居(ゐ)た嬰兒(あかんぼ)ですが、鯉(こひ)か、鼈(すつぽん)ででも有(あ)りさうでならないんですがね。」
「…………」
私(わたし)は、默(だま)つて工學士(こうがくし)の其(そ)の顏(かほ)を視(み)た。
「まさかとは思(おも)ひますが。」
赤坂(あかさか)の見附(みつけ)に近(ちか)い、唯(と)ある珈琲店(コオヒイてん)の端近(はしぢか)な卓子(テエブル)で、工學士(こうがくし)は麥酒(ビイル)の硝子杯(コツプ)を控(ひか)へて云(い)つた。
私(わたし)は卷莨(まきたばこ)を點(つ)けながら、
「あゝ、結構(けつこう)。私(わたし)は、それが石地藏(いしぢざう)で、今(いま)のが姑護鳥(うぶめ)でも構(かま)ひません。けれども、それぢや、貴方(あなた)が世間(せけん)へ濟(す)まないでせう。」
六|月(ぐわつ)の末(すゑ)であつた。府下(ふか)澁谷(しぶや)邊(へん)に或(ある)茶話會(さわくわい)があつて、斯(こ)の工學士(こうがくし)が其(そ)の席(せき)に臨(のぞ)むのに、私(わたし)は誘(さそ)はれて一日(あるひ)出向(でむ)いた。
談話(はなし)の聽人(きゝて)は皆(みな)婦人(ふじん)で、綺麗(きれい)な人(ひと)が大分(だいぶ)見(み)えた、と云(い)ふ質(たち)のであるから、羊羹(やうかん)、苺(いちご)、念入(ねんいり)に紫(むらさき)袱紗(ふくさ)で薄茶(うすちや)の饗應(もてなし)まであつたが――辛抱(しんばう)をなさい――酒(さけ)と云(い)ふものは全然(まるで)ない。が、豫(かね)ての覺悟(かくご)である。それがために意地汚(いぢきたな)く、歸途(かへり)に恁(か)うした場所(ばしよ)へ立寄(たちよ)つた次第(しだい)ではない。
本來(ほんらい)なら其(そ)の席(せき)で、工學士(こうがくし)が話(はな)した或種(あるしゆ)の講述(かうじゆつ)を、こゝに筆記(ひつき)でもした方(はう)が、讀(よ)まるゝ方々(かた/″\)の利益(りえき)なのであらうけれども、それは殊更(ことさら)に御海容(ごかいよう)を願(ねが)ふとして置(お)く。
實(じつ)は往路(いき)にも同伴立(つれだ)つた。
指(さ)す方(かた)へ、煉瓦塀(れんぐわべい)板塀(いたべい)續(つゞ)きの細(ほそ)い路(みち)を通(とほ)る、とやがて其(そ)の會場(くわいぢやう)に當(あた)る家(いへ)の生垣(いけがき)で、其處(そこ)で三(み)つの外圍(そとがこひ)が三方(さんぱう)へ岐(わか)れて三辻(みつつじ)に成(な)る……曲角(まがりかど)の窪地(くぼち)で、日蔭(ひかげ)の泥濘(ぬかるみ)の處(ところ)が――空(そら)は曇(くも)つて居(ゐ)た――殘(のこ)ンの雪(ゆき)かと思(おも)ふ、散敷(ちりし)いた花(はな)で眞白(まつしろ)であつた。
下(した)へ行(ゆ)くと學士(がくし)の背廣(せびろ)が明(あかる)いくらゐ、今(いま)を盛(さかり)と空(そら)に咲(さ)く。枝(えだ)も梢(こずゑ)も撓(たわゝ)に滿(み)ちて、仰向(あをむ)いて見上(みあ)げると屋根(やね)よりは丈(たけ)伸(の)びた樹(き)が、對(つゐ)に並(なら)んで二株(ふたかぶ)あつた。李(すもゝ)の時節(じせつ)でなし、卯木(うつぎ)に非(あら)ず。そして、木犀(もくせい)のやうな甘(あま)い匂(にほひ)が、燻(いぶ)したやうに薫(かを)る。楕圓形(だゑんけい)の葉(は)は、羽状複葉(うじやうふくえふ)と云(い)ふのが眞蒼(まつさを)に上(うへ)から可愛(かはい)い花(はな)をはら/\と包(つゝ)んで、鷺(さぎ)が緑(みどり)なす蓑(みの)を被(かつ)いで、彳(たゝず)みつゝ、颯(さつ)と開(ひら)いて、雙方(さうはう)から翼(つばさ)を交(かは)した、比翼連理(ひよくれんり)の風情(ふぜい)がある。
私(わたし)は固(もと)よりである。……學士(がくし)にも、此(こ)の香木(かうぼく)の名(な)が分(わか)らなかつた。
當日(たうじつ)、席(せき)でも聞合(きゝあは)せたが、居合(ゐあ)はせた婦人連(ふじんれん)が亦(また)誰(たれ)も知(し)らぬ。其(そ)の癖(くせ)、佳薫(いゝかをり)のする花(はな)だと云(い)つて、小(ちひ)さな枝(えだ)ながら硝子杯(コツプ)に插(さ)して居(ゐ)たのがあつた。九州(きうしう)の猿(さる)が狙(ねら)ふやうな褄(つま)の媚(なまめ)かしい姿(すがた)をしても、下枝(したえだ)までも屆(とゞ)くまい。小鳥(ことり)の啄(ついば)んで落(おと)したのを通(とほ)りがかりに拾(ひろ)つて來(き)たものであらう。
「お乳(ちゝ)のやうですわ。」
一人(ひとり)の處女(しよぢよ)が然(さ)う云(い)つた。
成程(なるほど)、近々(ちか/″\)と見(み)ると、白(しろ)い小(ちひ)さな花(はな)の、薄(うつす)りと色着(いろづ)いたのが一(ひと)ツ一(ひと)ツ、美(うつくし)い乳首(ちゝくび)のやうな形(かたち)に見(み)えた。
却説(さて)、日(ひ)が暮(く)れて、其(そ)の歸途(かへり)である。
私(わたし)たちは七丁目(なゝちやうめ)の終點(しうてん)から乘(の)つて赤坂(あかさか)の方(はう)へ歸(かへ)つて來(き)た……あの間(あひだ)の電車(でんしや)は然(さ)して込合(こみあ)ふ程(ほど)では無(な)いのに、空(そら)怪(あや)しく雲脚(くもあし)が低(ひく)く下(さが)つて、今(いま)にも一降(ひとふり)來(き)さうだつたので、人通(ひとどほ)りが慌(あわたゞ)しく、一町場(ひとちやうば)二町場(ふたちやうば)、近處(きんじよ)へ用(よう)たしの分(ぶん)も便(たよ)つたらしい、停留場(ていりうぢやう)毎(ごと)に乘人(のりて)の數(かず)が多(おほ)かつた。
で、何時(いつ)何處(どこ)から乘組(のりく)んだか、つい、それは知(し)らなかつたが、丁(ちやう)ど私(わたし)たちの並(なら)んで掛(か)けた向(むか)う側(がは)――墓地(ぼち)とは反對(はんたい)――の處(ところ)に、二十三四の色(いろ)の白(しろ)い婦人(ふじん)が居(ゐ)る……
先(ま)づ、色(いろ)の白(しろ)い婦(をんな)と云(い)はう、が、雪(ゆき)なす白(しろ)さ、冷(つめた)さではない。薄櫻(うすざくら)の影(かげ)がさす、朧(おぼろ)に香(にほ)ふ裝(よそほひ)である。……こんなのこそ、膚(はだへ)と云(い)ふより、不躾(ぶしつけ)ながら肉(にく)と言(い)はう。其(その)胸(むね)は、合歡(ねむ)の花(はな)が雫(しづく)しさうにほんのりと露(あらは)である。
藍地(あゐぢ)に紺(こん)の立絞(たてしぼり)の浴衣(ゆかた)を唯(たゞ)一重(ひとへ)、絲(いと)ばかりの紅(くれなゐ)も見(み)せず素膚(すはだ)に着(き)た。襟(えり)をなぞへに膨(ふつく)りと乳(ちゝ)を劃(くぎ)つて、衣(きぬ)が青(あを)い。青(あを)いのが葉(は)に見(み)えて、先刻(さつき)の白(しろ)い花(はな)が俤立(おもかげだ)つ……撫肩(なでがた)をたゆげに落(おと)して、すらりと長(なが)く膝(ひざ)の上(うへ)へ、和々(やは/\)と重量(おもみ)を持(も)たして、二(に)の腕(うで)を撓(しな)やかに抱(だ)いたのが、其(それ)が嬰兒(あかんぼ)で、仰向(あをむ)けに寢(ね)た顏(かほ)へ、白(しろ)い帽子(ばうし)を掛(か)けてある。寢顏(ねがほ)に電燈(でんとう)を厭(いと)つたものであらう。嬰兒(あかんぼ)の顏(かほ)は見(み)えなかつた、だけ其(それ)だけ、懸念(けねん)と云(い)へば懸念(けねん)なので、工學士(こうがくし)が――鯉(こひ)か鼈(すつぽん)か、と云(い)つたのは此(これ)であるが……
此(こ)の媚(なま)めいた胸(むね)のぬしは、顏立(かほだ)ちも際立(きはだ)つて美(うつく)しかつた。鼻筋(はなすぢ)の象牙彫(ざうげぼり)のやうにつんとしたのが難(なん)を言(い)へば強過(つよす)ぎる……かはりには目(め)を恍惚(うつとり)と、何(なに)か物思(ものおも)ふ體(てい)に仰向(あをむ)いた、細面(ほそおも)が引緊(ひきしま)つて、口許(くちもと)とともに人品(じんぴん)を崩(くづ)さないで且(か)つ威(ゐ)がある……其(そ)の顏(かほ)だちが帶(おび)よりも、きりゝと細腰(ほそごし)を緊(し)めて居(ゐ)た。面(おもて)で緊(し)めた姿(すがた)である。皓齒(しらは)の一(ひと)つも莞爾(につこり)と綻(ほころ)びたら、はらりと解(と)けて、帶(おび)も浴衣(ゆかた)も其(そ)のまゝ消(き)えて、膚(はだ)の白(しろ)い色(いろ)が颯(さつ)と簇(むらが)つて咲(さ)かう。霞(かすみ)は花(はな)を包(つゝ)むと云(い)ふが、此(こ)の婦(をんな)は花(はな)が霞(かすみ)を包(つゝ)むのである。膚(はだへ)が衣(きぬ)を消(け)すばかり、其(そ)の浴衣(ゆかた)の青(あを)いのにも、胸襟(むねえり)のほのめく色(いろ)はうつろはぬ、然(しか)も湯上(ゆあが)りかと思(おも)ふ温(あたゝか)さを全身(ぜんしん)に漲(みなぎ)らして、髮(かみ)の艶(つや)さへ滴(したゝ)るばかり濡々(ぬれ/\)として、其(それ)がそよいで、硝子窓(がらすまど)の風(かぜ)に額(ひたひ)に絡(まつ)はる、汗(あせ)ばんでさへ居(ゐ)たらしい。
ふと明(あ)いた窓(まど)へ横向(よこむ)きに成(な)つて、ほつれ毛(げ)を白々(しろ/″\)とした指(ゆび)で掻(か)くと、あの花(はな)の香(か)が強(つよ)く薫(かを)つた、と思(おも)ふと緑(みどり)の黒髮(くろかみ)に、同(おな)じ白(しろ)い花(はな)の小枝(こえだ)を活(い)きたる蕚(うてな)、湧立(わきた)つ蕊(しべ)を搖(ゆる)がして、鬢(びんづら)に插(さ)して居(ゐ)たのである。
唯(と)、見(み)た時(とき)、工學士(こうがくし)の手(て)が、確(しか)と私(わたし)の手(て)を握(にぎ)つた。
「下(お)りませう。是非(ぜひ)、談話(はなし)があります。」
立(た)つて見送(みおく)れば、其(そ)の婦(をんな)を乘(の)せた電車(でんしや)は、見附(みつけ)の谷(たに)の窪(くぼ)んだ廣場(ひろば)へ、すら/\と降(お)りて、一度(いちど)暗(くら)く成(な)つて停(と)まつたが、忽(たちま)ち風(かぜ)に乘(の)つたやうに地盤(ぢばん)を空(そら)ざまに颯(さつ)と坂(さか)へ辷(すべ)つて、青(あを)い火花(ひばな)がちらちらと、櫻(さくら)の街樹(なみき)に搦(から)んだなり、暗夜(くらがり)の梢(こずゑ)に消(き)えた。
「まさかとは思(おも)ひますが。」
赤坂(あかさか)の見附(みつけ)に近(ちか)い、唯(と)ある珈琲店(コオヒイてん)の端近(はしぢか)な卓子(テエブル)で、工學士(こうがくし)は麥酒(ビイル)の硝子杯(コツプ)を控(ひか)へて云(い)つた。
私(わたし)は卷莨(まきたばこ)を點(つ)けながら、
「あゝ、結構(けつこう)。私(わたし)は、それが石地藏(いしぢざう)で、今(いま)のが姑護鳥(うぶめ)でも構(かま)ひません。けれども、それぢや、貴方(あなた)が世間(せけん)へ濟(す)まないでせう。」
六|月(ぐわつ)の末(すゑ)であつた。府下(ふか)澁谷(しぶや)邊(へん)に或(ある)茶話會(さわくわい)があつて、斯(こ)の工學士(こうがくし)が其(そ)の席(せき)に臨(のぞ)むのに、私(わたし)は誘(さそ)はれて一日(あるひ)出向(でむ)いた。
談話(はなし)の聽人(きゝて)は皆(みな)婦人(ふじん)で、綺麗(きれい)な人(ひと)が大分(だいぶ)見(み)えた、と云(い)ふ質(たち)のであるから、羊羹(やうかん)、苺(いちご)、念入(ねんいり)に紫(むらさき)袱紗(ふくさ)で薄茶(うすちや)の饗應(もてなし)まであつたが――辛抱(しんばう)をなさい――酒(さけ)と云(い)ふものは全然(まるで)ない。が、豫(かね)ての覺悟(かくご)である。それがために意地汚(いぢきたな)く、歸途(かへり)に恁(か)うした場所(ばしよ)へ立寄(たちよ)つた次第(しだい)ではない。
本來(ほんらい)なら其(そ)の席(せき)で、工學士(こうがくし)が話(はな)した或種(あるしゆ)の講述(かうじゆつ)を、こゝに筆記(ひつき)でもした方(はう)が、讀(よ)まるゝ方々(かた/″\)の利益(りえき)なのであらうけれども、それは殊更(ことさら)に御海容(ごかいよう)を願(ねが)ふとして置(お)く。
實(じつ)は往路(いき)にも同伴立(つれだ)つた。
指(さ)す方(かた)へ、煉瓦塀(れんぐわべい)板塀(いたべい)續(つゞ)きの細(ほそ)い路(みち)を通(とほ)る、とやがて其(そ)の會場(くわいぢやう)に當(あた)る家(いへ)の生垣(いけがき)で、其處(そこ)で三(み)つの外圍(そとがこひ)が三方(さんぱう)へ岐(わか)れて三辻(みつつじ)に成(な)る……曲角(まがりかど)の窪地(くぼち)で、日蔭(ひかげ)の泥濘(ぬかるみ)の處(ところ)が――空(そら)は曇(くも)つて居(ゐ)た――殘(のこ)ンの雪(ゆき)かと思(おも)ふ、散敷(ちりし)いた花(はな)で眞白(まつしろ)であつた。
下(した)へ行(ゆ)くと學士(がくし)の背廣(せびろ)が明(あかる)いくらゐ、今(いま)を盛(さかり)と空(そら)に咲(さ)く。枝(えだ)も梢(こずゑ)も撓(たわゝ)に滿(み)ちて、仰向(あをむ)いて見上(みあ)げると屋根(やね)よりは丈(たけ)伸(の)びた樹(き)が、對(つゐ)に並(なら)んで二株(ふたかぶ)あつた。李(すもゝ)の時節(じせつ)でなし、卯木(うつぎ)に非(あら)ず。そして、木犀(もくせい)のやうな甘(あま)い匂(にほひ)が、燻(いぶ)したやうに薫(かを)る。楕圓形(だゑんけい)の葉(は)は、羽状複葉(うじやうふくえふ)と云(い)ふのが眞蒼(まつさを)に上(うへ)から可愛(かはい)い花(はな)をはら/\と包(つゝ)んで、鷺(さぎ)が緑(みどり)なす蓑(みの)を被(かつ)いで、彳(たゝず)みつゝ、颯(さつ)と開(ひら)いて、雙方(さうはう)から翼(つばさ)を交(かは)した、比翼連理(ひよくれんり)の風情(ふぜい)がある。
私(わたし)は固(もと)よりである。……學士(がくし)にも、此(こ)の香木(かうぼく)の名(な)が分(わか)らなかつた。
當日(たうじつ)、席(せき)でも聞合(きゝあは)せたが、居合(ゐあ)はせた婦人連(ふじんれん)が亦(また)誰(たれ)も知(し)らぬ。其(そ)の癖(くせ)、佳薫(いゝかをり)のする花(はな)だと云(い)つて、小(ちひ)さな枝(えだ)ながら硝子杯(コツプ)に插(さ)して居(ゐ)たのがあつた。九州(きうしう)の猿(さる)が狙(ねら)ふやうな褄(つま)の媚(なまめ)かしい姿(すがた)をしても、下枝(したえだ)までも屆(とゞ)くまい。小鳥(ことり)の啄(ついば)んで落(おと)したのを通(とほ)りがかりに拾(ひろ)つて來(き)たものであらう。
「お乳(ちゝ)のやうですわ。」
一人(ひとり)の處女(しよぢよ)が然(さ)う云(い)つた。
成程(なるほど)、近々(ちか/″\)と見(み)ると、白(しろ)い小(ちひ)さな花(はな)の、薄(うつす)りと色着(いろづ)いたのが一(ひと)ツ一(ひと)ツ、美(うつくし)い乳首(ちゝくび)のやうな形(かたち)に見(み)えた。
却説(さて)、日(ひ)が暮(く)れて、其(そ)の歸途(かへり)である。
私(わたし)たちは七丁目(なゝちやうめ)の終點(しうてん)から乘(の)つて赤坂(あかさか)の方(はう)へ歸(かへ)つて來(き)た……あの間(あひだ)の電車(でんしや)は然(さ)して込合(こみあ)ふ程(ほど)では無(な)いのに、空(そら)怪(あや)しく雲脚(くもあし)が低(ひく)く下(さが)つて、今(いま)にも一降(ひとふり)來(き)さうだつたので、人通(ひとどほ)りが慌(あわたゞ)しく、一町場(ひとちやうば)二町場(ふたちやうば)、近處(きんじよ)へ用(よう)たしの分(ぶん)も便(たよ)つたらしい、停留場(ていりうぢやう)毎(ごと)に乘人(のりて)の數(かず)が多(おほ)かつた。
で、何時(いつ)何處(どこ)から乘組(のりく)んだか、つい、それは知(し)らなかつたが、丁(ちやう)ど私(わたし)たちの並(なら)んで掛(か)けた向(むか)う側(がは)――墓地(ぼち)とは反對(はんたい)――の處(ところ)に、二十三四の色(いろ)の白(しろ)い婦人(ふじん)が居(ゐ)る……
先(ま)づ、色(いろ)の白(しろ)い婦(をんな)と云(い)はう、が、雪(ゆき)なす白(しろ)さ、冷(つめた)さではない。薄櫻(うすざくら)の影(かげ)がさす、朧(おぼろ)に香(にほ)ふ裝(よそほひ)である。……こんなのこそ、膚(はだへ)と云(い)ふより、不躾(ぶしつけ)ながら肉(にく)と言(い)はう。其(その)胸(むね)は、合歡(ねむ)の花(はな)が雫(しづく)しさうにほんのりと露(あらは)である。
藍地(あゐぢ)に紺(こん)の立絞(たてしぼり)の浴衣(ゆかた)を唯(たゞ)一重(ひとへ)、絲(いと)ばかりの紅(くれなゐ)も見(み)せず素膚(すはだ)に着(き)た。襟(えり)をなぞへに膨(ふつく)りと乳(ちゝ)を劃(くぎ)つて、衣(きぬ)が青(あを)い。青(あを)いのが葉(は)に見(み)えて、先刻(さつき)の白(しろ)い花(はな)が俤立(おもかげだ)つ……撫肩(なでがた)をたゆげに落(おと)して、すらりと長(なが)く膝(ひざ)の上(うへ)へ、和々(やは/\)と重量(おもみ)を持(も)たして、二(に)の腕(うで)を撓(しな)やかに抱(だ)いたのが、其(それ)が嬰兒(あかんぼ)で、仰向(あをむ)けに寢(ね)た顏(かほ)へ、白(しろ)い帽子(ばうし)を掛(か)けてある。寢顏(ねがほ)に電燈(でんとう)を厭(いと)つたものであらう。嬰兒(あかんぼ)の顏(かほ)は見(み)えなかつた、だけ其(それ)だけ、懸念(けねん)と云(い)へば懸念(けねん)なので、工學士(こうがくし)が――鯉(こひ)か鼈(すつぽん)か、と云(い)つたのは此(これ)であるが……
此(こ)の媚(なま)めいた胸(むね)のぬしは、顏立(かほだ)ちも際立(きはだ)つて美(うつく)しかつた。鼻筋(はなすぢ)の象牙彫(ざうげぼり)のやうにつんとしたのが難(なん)を言(い)へば強過(つよす)ぎる……かはりには目(め)を恍惚(うつとり)と、何(なに)か物思(ものおも)ふ體(てい)に仰向(あをむ)いた、細面(ほそおも)が引緊(ひきしま)つて、口許(くちもと)とともに人品(じんぴん)を崩(くづ)さないで且(か)つ威(ゐ)がある……其(そ)の顏(かほ)だちが帶(おび)よりも、きりゝと細腰(ほそごし)を緊(し)めて居(ゐ)た。面(おもて)で緊(し)めた姿(すがた)である。皓齒(しらは)の一(ひと)つも莞爾(につこり)と綻(ほころ)びたら、はらりと解(と)けて、帶(おび)も浴衣(ゆかた)も其(そ)のまゝ消(き)えて、膚(はだ)の白(しろ)い色(いろ)が颯(さつ)と簇(むらが)つて咲(さ)かう。霞(かすみ)は花(はな)を包(つゝ)むと云(い)ふが、此(こ)の婦(をんな)は花(はな)が霞(かすみ)を包(つゝ)むのである。膚(はだへ)が衣(きぬ)を消(け)すばかり、其(そ)の浴衣(ゆかた)の青(あを)いのにも、胸襟(むねえり)のほのめく色(いろ)はうつろはぬ、然(しか)も湯上(ゆあが)りかと思(おも)ふ温(あたゝか)さを全身(ぜんしん)に漲(みなぎ)らして、髮(かみ)の艶(つや)さへ滴(したゝ)るばかり濡々(ぬれ/\)として、其(それ)がそよいで、硝子窓(がらすまど)の風(かぜ)に額(ひたひ)に絡(まつ)はる、汗(あせ)ばんでさへ居(ゐ)たらしい。
ふと明(あ)いた窓(まど)へ横向(よこむ)きに成(な)つて、ほつれ毛(げ)を白々(しろ/″\)とした指(ゆび)で掻(か)くと、あの花(はな)の香(か)が強(つよ)く薫(かを)つた、と思(おも)ふと緑(みどり)の黒髮(くろかみ)に、同(おな)じ白(しろ)い花(はな)の小枝(こえだ)を活(い)きたる蕚(うてな)、湧立(わきた)つ蕊(しべ)を搖(ゆる)がして、鬢(びんづら)に插(さ)して居(ゐ)たのである。
唯(と)、見(み)た時(とき)、工學士(こうがくし)の手(て)が、確(しか)と私(わたし)の手(て)を握(にぎ)つた。
「下(お)りませう。是非(ぜひ)、談話(はなし)があります。」
立(た)つて見送(みおく)れば、其(そ)の婦(をんな)を乘(の)せた電車(でんしや)は、見附(みつけ)の谷(たに)の窪(くぼ)んだ廣場(ひろば)へ、すら/\と降(お)りて、一度(いちど)暗(くら)く成(な)つて停(と)まつたが、忽(たちま)ち風(かぜ)に乘(の)つたやうに地盤(ぢばん)を空(そら)ざまに颯(さつ)と坂(さか)へ辷(すべ)つて、青(あを)い火花(ひばな)がちらちらと、櫻(さくら)の街樹(なみき)に搦(から)んだなり、暗夜(くらがり)の梢(こずゑ)に消(き)えた。
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泉(いずみ)作品名:ニニンがシノブ伝作者名:二代目まとめあき投稿日:2008年11月3日画像情報:640×480,99645Bジャンル:アニメ,漫画 -
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おひさ^^レイヤーをかなりつかいました -- 泉 (2009-05-21 074110) 名前 コメント
