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伊勢之巻 - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )

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 昔男と聞く時は、今も床(ゆか)しき道中姿。その物語に題は通えど、これは東(あずま)の銭なしが、一年(ひととせ)思いたつよしして、参宮を志し、霞(かすみ)とともに立出でて、いそじあまりを三河国(みかわのくに)、そのから衣、ささおりの、安弁当の鰯(いわし)の名に、紫はありながら、杜若(かきつばた)には似もつかぬ、三等の赤切符。さればお紺の婀娜(あだ)も見ず、弥次郎兵衛(やじろべえ)が洒落(しゃれ)もなき、初詣(ういもうで)の思い出草。宿屋の硯(すずり)を仮寝の床に、路(みち)の記の端に書き入れて、一寸(ちょいと)御見(ごけん)に入れたりしを、正綴(ほんとじ)にした今度の新版、さあさあかわりました双六(すごろく)と、だませば小児衆(こどもしゅ)も合点せず。伊勢七度(ななたび)よいところ、いざ御案内者で客を招けば、おらあ熊野へも三度目(みたびめ)じゃと、いわれてお供に早がわり、いそがしかりける世渡りなり。
  明治三十乙巳十月吉日
鏡花


       一

「はい、貴客(あなた)もしお熱いのを、お一つ召上りませぬか、何ぞお食(あが)りなされて下さりまし。」
 伊勢国古市(ふるいち)から内宮(ないぐう)へ、ここぞ相(あい)の山の此方(こなた)に、灯(ともしび)の淋しい茶店。名物赤福餅(あかふくもち)の旗、如月(きさらぎ)のはじめ三日の夜嵐に、はたはたと軒を揺(ゆす)り、じりじりと油が減って、早や十二時に垂(なんなん)とするのに、客はまだ帰りそうにもしないから、その年紀頃(としごろ)といい、容子(ようす)といい、今時の品の可(い)い学生風、しかも口数を利かぬ青年なり、とても話対手(はなしあいて)にはなるまい、またしないであろうと、断念(あきら)めていた婆々(ばば)が、堪(たま)り兼ねてまず物優しく言葉をかけた。
 宵から、灯も人声も、往来(ゆきき)の脚も、この前あたりがちょうど切目で、後へ一町、前へ三町、そこにもかしこにも両側の商家軒を並べ、半襟前垂(まえだれ)の美しい、姐(ねえ)さんが袂(たもと)を連ねて、式(かた)のごとく、お茶あがりまし、お休みなさりまし、お飯(まんま)上りまし、お饂飩(うどん)もござりますと、媚(なま)めかしく呼ぶ中を、頬冠(ほっかむり)やら、高帽やら、菅笠(すげがさ)を被(かぶ)ったのもあり、脚絆(きゃはん)がけに借下駄(かりげた)で、革鞄(かばん)を提げたものもあり、五人づれやら、手を曳(ひ)いたの、一人大手を振るもあり、笑い興ずるぞめきに交(まじ)って、トンカチリと楊弓(ようきゅう)聞え、諸白(もろはく)を燗(かん)する家(や)ごとの煙、両側の廂(ひさし)を籠(こ)めて、処柄(ところがら)とて春霞(はるがすみ)、神風に靉靆(たなび)く風情、灯(ひ)の影も深く、浅く、奥に、表に、千鳥がけに、ちらちらちらちら、吸殻も三ツ四ツ、地(つち)に溢(こぼ)れて真赤(まっか)な夜道を、人脚|繁(しげ)き賑(にぎや)かさ。
 花の中なる枯木(こぼく)と観じて、独り寂寞(じゃくまく)として茶を煮る媼(おうな)、特にこの店に立寄る者は、伊勢平氏の後胤(こういん)か、北畠(きたばたけ)殿の落武者か、お杉お玉の親類の筈(はず)を、思いもかけぬ上客(じょうかく)一|人(にん)、引手夥多(ひくてあまた)の彼処(かしこ)を抜けて、目の寄る前途(さき)へ行(ゆ)き抜けもせず、立寄ってくれたので、国主(こくしゅ)に見出(みいだ)されたほど、はじめ大喜びであったのが、灯(あかり)が消え、犬が吠(ほ)え、こうまた寒い風を、欠伸(あくび)で吸うようになっても、まだ出掛けそうな様子も見えぬので。
「いかがでございます、お酌(しゃく)をいたしましょうか。」
「いや、構わんでも可(い)い、大層お邪魔をするね。」
 ともの優しい、客は年の頃二十八九、眉目秀麗(びもくしゅうれい)、瀟洒(しょうしゃ)な風采(ふうさい)、鼠(ねず)の背広に、同一(おなじ)色の濃い外套(がいとう)をひしと絡(まと)うて、茶の中折(なかおれ)を真深う、顔を粛(つつ)ましげに、脱がずにいた。もしこの冠物(かむりもの)が黒かったら、余り頬(ほお)が白くって、病人らしく見えたであろう。
 こっくりした色に配してさえ、寒さのせいか、屈託でもあるか、顔の色が好(よ)くないのである。銚子(ちょうし)は二本ばかり、早くから並んでいるのに。
 赤福の餅(もち)の盆、煮染(にしめ)の皿も差置いたが、猪口(ちょく)も数を累(かさ)ねず、食べるものも、かの神路山(かみじやま)の杉箸(すぎばし)を割ったばかり。
 客は丁字形(ていじけい)に二つ並べた、奥の方の縁台に腰をかけて、掌(てのひら)で項(うなじ)を圧(おさ)えて、俯向(うつむ)いたり、腕を拱(こまぬ)いて考えたり、足を投げて横ざまに長くなったり、小さなしかも古びた茶店の、薄暗い隅なる方(かた)に、その挙動(ふるまい)も朦朧(もうろう)として、身動(みうごき)をするのが、余所目(よそめ)にはまるで寝返(ねがえり)をするようであった。
 また寝られてなろうか!
「あれ、お客様まだこっちのお銚子もまるでお手が着きませぬ。」
 と婆々は片づけにかかる気で、前の銚子を傍(かたえ)へ除(の)けようとして心付く、まだずッしりと手に応(こた)えて重い。
「お燗を直しましょうでござりますか。」
 顔を覗(のぞ)き込むがごとくに土間に立った、物腰のしとやかな、婆々は、客の胸のあたりへその白髪頭(しらがあたま)を差出したので、面(おもて)を背けるようにして、客は外(と)の方(かた)を視(なが)めると、店頭(みせさき)の釜(かま)に突込んで諸白の燗をする、大きな白丁(はくちょう)の、中が少くなったが斜めに浮いて見える、上なる天井から、むッくりと垂れて、一つ、くるりと巻いたのは、蛸(たこ)の脚、夜の色|濃(こまや)かに、寒さに凍(い)てたか、いぼが蒼(あお)い。

       二

 涼しい瞳(ひとみ)を動かしたが、中折(なかおれ)の帽の庇(ひさし)の下から透(すか)して見た趣で、
「あれをちっとばかりくれないか。」と言ってまた面(おもて)を背けた。
 深切な婆々(ばば)は、膝(ひざ)のあたりに手を組んで、客の前に屈(かが)めていた腰を伸(の)して、指(ゆびさ)された章魚(たこ)を見上げ、
旦那様(だんなさま)、召上りますのでござりますか。」
「ああ、そして、もう酒は沢山だから、お飯(まんま)にしよう。」
「はいはい、……」
 身を起して背向(うしろむき)になったが、庖丁(ほうちょう)を取出すでもなく、縁台の彼方(あなた)の三畳ばかりの住居(すまい)へ戻って、薄い座蒲団(ざぶとん)の傍(かたわら)に、散(ちら)ばったように差置いた、煙草(たばこ)の箱と長煙管(ながぎせる)。
 片手でちょっと衣紋(えもん)を直して、さて立ちながら一服吸いつけ、
「且那え。」
「何だ。」
「もう、お無駄でござりまするからお止(よ)しなさりまし、第一あれは余り新しゅうないのでござります。それにお見受け申しました処、そうやって御酒(ごしゅ)もお食(あが)りなさりませず、滅多に箸(はし)をお着けなさりません。何ぞ御都合がおありなさりまして、私(わし)どもにお休み遊ばします。時刻(とき)が経(た)ちまするので、ただ居てはと思召(おぼしめ)して、婆々に御馳走(ごちそう)にあなた様、いろいろなものをお取り下さりますように存じます、ほほほほほ。」
 笑(わらい)とともに煙を吹き、
「いいえ、お一人お客様には難有過(ありがたす)ぎましたほど儲(もう)かりましてございまする。大抵のお宿銭ぐらい頂戴をいたします勘定でござりますから、私(わたくし)どもにもう一室(ひとま)、別座敷でもござりますなら、お宿を差上げたい位に、はい、もし、存じまするが、旦那様。」
 婆々は框(かまち)に腰を下して、前垂(まえだれ)に煙草の箱、煙管を長く膝にしながら、今こう謂(い)われて、急に思い出したように、箸の尖(さき)を動かして、赤福の赤きを顧みず、煮染(にしめ)の皿の黒い蒲鉾(かまぼこ)を挟んだ、客と差向いに、背屈(せこご)みして、
旦那様、決してあなた、勿体(もったい)ない、お急立(せきた)て申しますわけではないのでござりますが、もし、お宿はお極(きま)り遊ばしていらっしゃいますかい。」
 客はものいわず。
「一旦(いったん)どこぞにお宿をお取りの上に、お遊びにお出掛けなさりましたのでござりますか。」
「何、山田停車場(ステエション)から、直ぐに、右|内宮道(ないぐうみち)とある方へ入って来たんだ。」
「それでは、当伊勢はお馴(な)れ遊ばしたもので、この辺には御親類でもおありなさりますという。――」と、婆々は客の言尻(ことばじり)について見たが、その実、土地馴れぬことは一目見ても分るのであった。
「どうして、親類どころか、定宿(じょうやど)もない、やはり田舎ものの参宮さ。」
「おや!」
 と大きく、
「それでもよく乗越しておいでなさりましたよ。この辺までいらっしゃいます前には、あの、まあ、伊勢へおいで遊ばすお方に、山田玄関なら、それをお通り遊ばして、どうぞこちらへと、お待受けの別嬪(べっぴん)が、お袖(そで)を取るばかりにして、御案内申します、お客座敷と申しますような、お褥(しとね)を敷いて、花を活(い)けました、古市があるではござりませぬか。」
 客は薄ら寒そうに、これでもと思う状(さま)、燗(かん)の出来立(できたて)のを注(つ)いで、猪口(ちょく)を唇に齎(もた)らしたが、匂(におい)を嗅(か)いだばかりでしばらくそのまま、持つ内に冷(つめた)くなるのを、飲む真似(まね)して、重そうにとんと置き、
「そりゃ何だろう、山田からずッと入ると、遠くに二階家を見たり、目の前に茅葺(かやぶき)が顕(あらわ)れたり、そうかと思うと、足許(あしもと)に田の水が光ったりする、その田圃(たんぼ)も何となく、大(おおき)な庭の中にわざと拵(こしら)えた景色のような、なだらかな道を通り越すと、坂があって、急に両側が真赤(まっか)になる。あすこだろう、店頭(みせさき)の雪洞(ぼんぼり)やら、軒提灯(のきぢょうちん)やら、そこは通った。」

       三

「はい、あの軒ごと、家(や)ごと、向(むこう)三軒両隣と申しました工合(ぐあい)に、玉転(たまころが)し、射的だの、あなた、賭的(かけまと)がござりまして、山のように積んだ景物の数ほど、灯(あかり)が沢山|点(つ)きまして、いつも花盛りのような、賑(にぎやか)な処でござります。」
 客は火鉢に手を翳(かざ)し、
「どの店にも大きな人形を飾ってあるじゃないか、赤い裲襠(しかけ)を着た姐様(ねえさん)もあれば、向う顱巻(はちまき)をした道化もあるし、牛若もあれば、弥次郎兵衛(やじろべえ)もある。屋根へ手をかけそうな大蛸(おおだこ)が居るかと思うと、腰蓑(こしみの)で村雨(むらさめ)が隣の店に立っているか、下駄屋にまで飾ったな。皆(みんな)極彩色だね。


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