伊良湖の旅 - 吉江 喬松 ( よしえ たかまつ )
北から吹く風が冷たく湖上を亙つて来た。浜名湖の波は白く一様に頭を上げて海の方へ逆押しに押し寄せる。
四月の上旬で、空の雲はちぎれ/\に風に吹かれて四方の山へひらみ附いてゐる。明るい光が空を滑つて湖上に落ち、村櫛(むらくし)、白州、大崎の鼻が低く黒く真向ふに見えてゐる。
新居(あらゐ)への渡船を待つて弁天島の橋際に立つてゐた。ギイギイ艫の音を立てゝ一艘の小船が橋の下へ湖水の方から逃げ込んで来た。
「新居へ行く船はまだ出ないかね」と声を掛けると、
「さうさね、今そこへ行つたばかりだがね、二時間ばかりは待たぢやなるめえよ」
「困つたな、何とか他に工夫は無いもんかな」と立つてゐた二人は顔を見合せた。
「一体何処へ行くんだね」と、船首(みよし)の方の男が、棹を立てながらいふ。
「なあに、伊良湖の方へ行くんだがね、新居よりほかに行く途はないかね」
私は風に吹かれて思ふやうにならない地図を皺くちやにしながら、捜(さぐ)りを入れるやうに頭の上から言葉を投げた。二人の船頭は橋杭に船を繋いでゐたが、筒袖に股引をはいて、荒繩をしめてゐた方の男が、不意に飛び上つて来て、私に言つた。
「工風(くふう)の無えこともねえ、私等(わしら)どうせ遊んでゐるで、渡して上げずか。伊良湖なら新居へ行かずに、この先の浜へ着けりや好いだ」
「そりや好い。何処でも行けさへすりや結構だ、渡して呉れるか」
「ぢや、ちよつと待つて、おくんな」
船に残つてゐた一人の男が、船から出て橋を渡つて何処かへ見えなくなつた。
私は又地図を出して、行くさき/″\の様子を訊いた。船頭は太い指を地図の上に出して色々説明して呉れる。
「伊良湖十三里と云つてね、この先の浜伝ひに行きせえすりや、嫌でも行つちまうだ。さうさな、今夜赤羽根ぐれえまでは行けずかな」
「宿屋はあるかね」と、傍に立つてゐた、東京生れのS君が不安さうに口を入れた。
「宿屋つて、どうせ彼方(あつち)へ行つちやさう好い旅舎(やどや)なんかねえさ、泊るぐれえなことは出来るけえど」
「大丈夫だ、安心してゐたまへ。どんな処だつて好いぢやないか」
「さうもいかない」とS君はちらつと私の方を見て笑つて言つた。
間もなく一人の男が帰つて来た。私達はその舟へ乗せられた。
藻草と海苔(のり)粗朶(そだ)とが舟脚にからむ。横浪が高く右の方から打かゝつて来る。弁天島は黒い松の林に覆はれて湖水と海との間に浮んでゐる。昨夜遅く舞坂の停車場から東海道の松並木の間を、浜松から島へ帰る人を先きにして色々な話を聞きながら通つて来た。その男は宿屋の身内の者だとか言つて、雙方に便宜なやうな話をして聞かせた。道が曲つて、ぱつと眼の前へ浜名湖の夜景色(やけい)が浮び出た時は、何処か遠い国へでも連れて来られたやうな気がした。漁火の点々として浮んでゐるのと、闇の中に咽ぶやうに寄る波と、橋の向ふに薄白く見えてゐる旅館の壁と、瑞西(スイツル)の湖畔へでも連れ出されたやうな気がした。今朝見ると、明るい日の光の下に、それ等の旅館の裏二階の欄干や障子が松林の間からはつきり見えてゐる。
島と湖水と、その背後に迫つてゐる木立の深い山々の上を遠く隔てゝ、一列の雪の峰が雲際(うんさい)に漂渺と浮んでゐる。湖を隔てゝ見る遠い山の影、猪苗代湖の飯豊山(いひでさん)を思はせる。
「船頭さん、あの白い山は何て山だね」
「あれかね、何でも信州の山だが、名は知らねえね」
冷たい風はあの山の向ふから吹いて来るに違ひない。見やつたばかりでも皮膚に粟が出来る。私はまだ雪の消え尽くさない、高原地の黄に枯れた草原を思ひやらずには居られなかつた。花も咲かず、冷たい風がひとり、縦(ほしいまま)に吹き渡つてゐるのだ。
船は横波を受けながら、一条の灰色した砂洲を左に見ながら遅く進んで行く。その一条の砂洲が長く延びて、海の波の打ち込んで来るのを防いでゐる。沖へ沖へと吹く風で、寄せ来る波も高くはない。その砂浜の上へ低くまろんで悲しい音を立てゝゐる。遠い沖の果てには薄白い雲の群が、もや/\湧き上つて、勢よく伸びるでもなく、消えるでもなく、地平線上にたゝなはつてゐる。
船底は折り/\砂地へすいついて動かない。船頭は力を入れて無理やり棹で出した。砂洲と砂洲との切れ目は水が浅く流れて、打ち込んで来る海の波と打当つて、その度毎に両岸の砂がかけ落ちる。二人は外套の襟を立てゝ船の中に身を円くしてゐたが、その砂浜の一端へ船が乗りかけて行くと、勢好く立ち上つて、砂地へ飛び下りた。
見渡すと眼前は一望の砂原だ。処々に小さな砂丘が出来て居て、その一つの蔭に十五六人の漁師等が網を引き合つて、修繕(つくろひ)をしてゐる。風が烈しく吹いてぱら/\、ぱら/\砂山から砂を吹き掛ける。「ほう、ほう」と云ひながら漁師等は、頸を縮めたり、手を振つたりして、その砂を振り払ふが、後から、しつきりなしに降りかゝる、
「ひどい砂だな、埋つて了ひさうだ」と、云ひながら一人の男は砂地から身を起して、一層近く砂山の下へ寄つて行つた。と、その時、ざあつと音がして、一群の砂が、勢好く砂丘の坂から崩れて来て、いま腰をおろした許りの男の上へ降り注いだ。
「やあ」と声を上げたが、見ると、その男は逃げ損ねて、腰から下と、右の半身とはその砂の下になつてしまつた。
四月の上旬で、空の雲はちぎれ/\に風に吹かれて四方の山へひらみ附いてゐる。明るい光が空を滑つて湖上に落ち、村櫛(むらくし)、白州、大崎の鼻が低く黒く真向ふに見えてゐる。
新居(あらゐ)への渡船を待つて弁天島の橋際に立つてゐた。ギイギイ艫の音を立てゝ一艘の小船が橋の下へ湖水の方から逃げ込んで来た。
「新居へ行く船はまだ出ないかね」と声を掛けると、
「さうさね、今そこへ行つたばかりだがね、二時間ばかりは待たぢやなるめえよ」
「困つたな、何とか他に工夫は無いもんかな」と立つてゐた二人は顔を見合せた。
「一体何処へ行くんだね」と、船首(みよし)の方の男が、棹を立てながらいふ。
「なあに、伊良湖の方へ行くんだがね、新居よりほかに行く途はないかね」
私は風に吹かれて思ふやうにならない地図を皺くちやにしながら、捜(さぐ)りを入れるやうに頭の上から言葉を投げた。二人の船頭は橋杭に船を繋いでゐたが、筒袖に股引をはいて、荒繩をしめてゐた方の男が、不意に飛び上つて来て、私に言つた。
「工風(くふう)の無えこともねえ、私等(わしら)どうせ遊んでゐるで、渡して上げずか。伊良湖なら新居へ行かずに、この先の浜へ着けりや好いだ」
「そりや好い。何処でも行けさへすりや結構だ、渡して呉れるか」
「ぢや、ちよつと待つて、おくんな」
船に残つてゐた一人の男が、船から出て橋を渡つて何処かへ見えなくなつた。
私は又地図を出して、行くさき/″\の様子を訊いた。船頭は太い指を地図の上に出して色々説明して呉れる。
「伊良湖十三里と云つてね、この先の浜伝ひに行きせえすりや、嫌でも行つちまうだ。さうさな、今夜赤羽根ぐれえまでは行けずかな」
「宿屋はあるかね」と、傍に立つてゐた、東京生れのS君が不安さうに口を入れた。
「宿屋つて、どうせ彼方(あつち)へ行つちやさう好い旅舎(やどや)なんかねえさ、泊るぐれえなことは出来るけえど」
「大丈夫だ、安心してゐたまへ。どんな処だつて好いぢやないか」
「さうもいかない」とS君はちらつと私の方を見て笑つて言つた。
間もなく一人の男が帰つて来た。私達はその舟へ乗せられた。
藻草と海苔(のり)粗朶(そだ)とが舟脚にからむ。横浪が高く右の方から打かゝつて来る。弁天島は黒い松の林に覆はれて湖水と海との間に浮んでゐる。昨夜遅く舞坂の停車場から東海道の松並木の間を、浜松から島へ帰る人を先きにして色々な話を聞きながら通つて来た。その男は宿屋の身内の者だとか言つて、雙方に便宜なやうな話をして聞かせた。道が曲つて、ぱつと眼の前へ浜名湖の夜景色(やけい)が浮び出た時は、何処か遠い国へでも連れて来られたやうな気がした。漁火の点々として浮んでゐるのと、闇の中に咽ぶやうに寄る波と、橋の向ふに薄白く見えてゐる旅館の壁と、瑞西(スイツル)の湖畔へでも連れ出されたやうな気がした。今朝見ると、明るい日の光の下に、それ等の旅館の裏二階の欄干や障子が松林の間からはつきり見えてゐる。
島と湖水と、その背後に迫つてゐる木立の深い山々の上を遠く隔てゝ、一列の雪の峰が雲際(うんさい)に漂渺と浮んでゐる。湖を隔てゝ見る遠い山の影、猪苗代湖の飯豊山(いひでさん)を思はせる。
「船頭さん、あの白い山は何て山だね」
「あれかね、何でも信州の山だが、名は知らねえね」
冷たい風はあの山の向ふから吹いて来るに違ひない。見やつたばかりでも皮膚に粟が出来る。私はまだ雪の消え尽くさない、高原地の黄に枯れた草原を思ひやらずには居られなかつた。花も咲かず、冷たい風がひとり、縦(ほしいまま)に吹き渡つてゐるのだ。
船は横波を受けながら、一条の灰色した砂洲を左に見ながら遅く進んで行く。その一条の砂洲が長く延びて、海の波の打ち込んで来るのを防いでゐる。沖へ沖へと吹く風で、寄せ来る波も高くはない。その砂浜の上へ低くまろんで悲しい音を立てゝゐる。遠い沖の果てには薄白い雲の群が、もや/\湧き上つて、勢よく伸びるでもなく、消えるでもなく、地平線上にたゝなはつてゐる。
船底は折り/\砂地へすいついて動かない。船頭は力を入れて無理やり棹で出した。砂洲と砂洲との切れ目は水が浅く流れて、打ち込んで来る海の波と打当つて、その度毎に両岸の砂がかけ落ちる。二人は外套の襟を立てゝ船の中に身を円くしてゐたが、その砂浜の一端へ船が乗りかけて行くと、勢好く立ち上つて、砂地へ飛び下りた。
見渡すと眼前は一望の砂原だ。処々に小さな砂丘が出来て居て、その一つの蔭に十五六人の漁師等が網を引き合つて、修繕(つくろひ)をしてゐる。風が烈しく吹いてぱら/\、ぱら/\砂山から砂を吹き掛ける。「ほう、ほう」と云ひながら漁師等は、頸を縮めたり、手を振つたりして、その砂を振り払ふが、後から、しつきりなしに降りかゝる、
「ひどい砂だな、埋つて了ひさうだ」と、云ひながら一人の男は砂地から身を起して、一層近く砂山の下へ寄つて行つた。と、その時、ざあつと音がして、一群の砂が、勢好く砂丘の坂から崩れて来て、いま腰をおろした許りの男の上へ降り注いだ。
「やあ」と声を上げたが、見ると、その男は逃げ損ねて、腰から下と、右の半身とはその砂の下になつてしまつた。
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伊良湖の旅 (いらごのたび) のリンク元
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- http://atpedia.jp/word/%E8%B5%A4%E7%BE%BD%E6%A0%B9
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- http://azby.search.nifty.com/websearch/search?cflg=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&select=41&chartype=&q=%E6%88%A6%E6%A5%B5%E5%A7%AB+%E5%B0%8F%E8%AA%AC&ck=andsrch_u2_az
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