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伊豆の旅 - 島崎 藤村 ( しまざき とうそん )

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 汽車大仁(おほひと)へ着いた。修善寺通ひの馬車はそこに旅人を待受けて居た。停車場を出ると、吾儕(われ/\)四人は直に馬車屋に附纏はれた。其日は朝から汽車に乘りつゞけて、最早(もう)乘物に倦んで居たし、それに旅のはじめで、伊豆の土を踏むといふことがめづらしく思はれた。吾儕は互に用意して來た金でもつて、出來るだけ斯の旅を樂みたいと思つた。K君、A君、M君、揃つて出掛けた。私は煙草看板の懸けてある小さな店を見つけて、敷島を二つ買つて、それから友達に追付いた。
「そろ/\腹が減つて來たネ。」
 とK君は私を見て笑ひ乍ら言出した。大仁の町はづれで、復た/\馬車屋が追馳けて來たが、到頭吾儕は乘らなかつた。「なあに、歩いた方が反つて暖いよ。」斯うは言つても、其實吾儕はこの馬車に乘らなかつたことを悔ゐた。それほど寒い思をした。山々へは雪でも來るのかと思はせた。私の眼からは止處(とめど)もなく涙が流れた。痛い風の刺激に逢ふと、必(きつ)と私はこれだ。やがて山間に不似合な大きな建築物(たてもの)の見える處へ出て來た。修善寺だ。大抵の家の二階は戸が閉めてあつた。出歩く人々も少なかつた。吾儕(われ/\)がブル/″\震へながら、漸くのことである温泉宿へ着いた時は、早く心地(こゝろもち)の好い湯にでも入つて、凍えた身體を温めたい、と思つた。火。湯に入るよりも先づ其方だつた。
 湯治に來て居る客も多かつた。部屋が氣に入らなくて、吾儕(われ/\)は帳場の上にある二階の一間に引越したが、そこでも受持の女中に頼んで長火鉢の火をドツサリ入れて貰つて、その周圍へ集つて暖(あた)つた。何となく氣は沈着(おちつ)かなかつた。
 湯に入りに行く前、一人女中が入つて來て、夕飯(ゆふはん)には何を仕度しやうと尋ねた。「御酒をつけますか。」斯う附添して言つた。
「あゝ、お爛を熱くして持つて來とくれ。」とK君が答へた。
「姉さん、それから御酒(おさけ)は上等だよ。」
 吾儕の身體も冷えては居たが、湯も熱かつた。谷底の石の間から湧く温泉の中へ吾儕は肩まで沈んで、各自(めい/\)放肆(ほしいまゝ)に手足を伸ばした。そして互に顏を見合せて、寒かつた途中のことを思つて見た。
 其日、吾儕の頭腦(あたま)の内(なか)は朝から出逢つた種々雜多な人々で充たされて居た。咄嗟に過ぎる影、人の息、髮のにほひ――汽車中のことを考えると、都會の空氣は何處迄も吾儕から離れなかつた。吾儕は、枯々な桑畠や、淺く萌出した麥の畠などの間を通つて、こゝまで來たが、來て見ると斯の廣い湯槽(ゆぶね)の周圍へ集る人々は、いづれも東京や横濱あたりで出逢さうな人達ばかりである。男女の浴客は多勢出たり入つたりして居る。中には、男を男とも思はぬやうな顏付をして、女同志で湯治に來たらしい人達も居る。その人達老衰した、萎びた乳房が、湯氣の内に朦朧と見える。吾儕は未だ全く知らない人の中へ來て居る氣はしなかつた。
 湯から上つて、洋服やインバスの脱ぎ散してある部屋へ戻つた。これから行く先の話が出た。K君とA君とは地圖を持出した。其時吾儕は茶代の相談をした。
「何處へ行つて泊つても僕は茶代を先へ出したことが無い。」斯うK君が言つた。「何時でも發つ時に置く。待遇が好ければ多く置いて來るし、惡ければまた其樣にして來る。


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