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佐橋甚五郎 - 森 鴎外 ( もり おうがい )

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  • 「森鴎外私論」吉野俊彦 森鴎外評論-批評-書籍・10冊 N21681
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 豊太閤(ほうたいこう)が朝鮮(ちょうせん)を攻めてから、朝鮮日本との間には往来が全く絶えていたのに、宗対馬守義智(そうつしまのかみよしとし)が徳川(とくがわ)家の旨(むね)を承(う)けて肝(きも)いりをして、慶長(けいちょう)九年の暮(く)れに、松雲孫(しょううんそん)、文※(ぶんいく)、金考舜(きんこうしゅん)という三人の僧が朝鮮から様子を見に来た。徳川家康(いえやす)は三人を紫野(むらさきの)の大徳寺(だいとくじ)に泊(と)まらせておいて、翌年の春|秀忠(ひでただ)といっしょに上洛(じょうらく)した時に目見(めみ)えをさせた。
 中一年置いて慶長十二年四月に、朝鮮から始めての使が来た。もう家康駿府(すんぷ)に隠居(いんきょ)していたので、京都(きょうと)に着いた使は、最初に江戸(えど)へ往けという指図(さしず)を受けた。使は閏(うるう)四月二十四日に江戸の本誓寺(ほんせいじ)に着いた。五月六日に将軍に謁見(えっけん)した。十四日に江戸を立って、十九日興津(おきつ)の清見寺(せいけんじ)に着いた。家康は翌二十日の午(うま)の刻に使を駿府の城に召(め)した。使は一応老中本多上野介正純(ほんだこうずけのすけまさずみ)の邸(やしき)に入って、そこで衣服を改めて登城(とじょう)することになった。
 このたびの使は通政大夫呂祐吉(つうせいたゆうりょゆうきつ)、通訓大夫慶暹(つうくんたゆうけいせん)、同|丁好寛(ていこうかん)の三人である。本国から乗物を三つ吊(つ)らせて来た。呂祐吉の乗物には造花を持たせた人形が座の右に据(す)えてあった。捧(ささ)げて来た朝鮮王|李※(りえん)の国書は江戸差し出した。次は上々官|金僉知(きんせんち)、朴僉知(ぼくせんち)、喬僉知(きょうせんち)の三人で、これは長崎(ながさき)で造らせた白木の乗物に乗っていた。次は上官二十六人、中官八十四人、下官百五十四人、総人数二百六十九人であった。道中の駅々では鞍置馬(くらおきうま)百五十|疋(ぴき)、小荷駄馬(こにだうま)二百余疋、人足三百余人を続(つ)ぎ立てた。
 駿府の城ではお目見えをする前に、まず献上物が広縁(ひろえん)に並(なら)べられた。人参(にんじん)六十|斤(きん)、白苧布(しろあさぬの)三十疋、蜜(みつ)百斤、蜜蝋(みつろう)百斤の四色(よいろ)である。江戸将軍家への進物(しんもつ)十一色に比べるとはるかに略儀(りゃくぎ)になっている。もとより江戸駿府とに分けて進上するという初めからのしくみではなかったので、急に抜差(ぬきさ)しをしてととのえたものであろう。江戸で出した国書の別幅(べっぷく)に十一色の目録があったが、本書とは墨色が相違(そうい)していたそうである。
 この日に家康は翠色(みどりいろ)の装束(しょうぞく)をして、上壇(じょうだん)に畳(たたみ)を二|帖敷(じょうし)かせた上に、暈繝(うんげん)の錦の茵(しとね)を重ねて着座した。使は下段に進んで、二度半の拝をして、右から左へ三人|並(なら)んだ。上々官|金僉知(きんせんち)、朴僉知(ぼくせんち)、喬僉知(きょうせんち)の三人はいずれも広縁に並んで拝をした。ここでは別に書類を捧呈(ほうてい)することなどはない。茶も酒も出されない。しばらくして上(かみ)の使三人がまた二度半の拝をすると、上々官三人も縁でまた拝をした。上々官の拝がすんでから、上の使の三人は上々官をしたがえて退出した。
 家康は六人の朝鮮人の後影(うしろかげ)を見送って、すぐに左右を顧(かえり)みて言った。
「あの縁にいた三人目の男を見知ったものはないか」
 側には本多正純を始めとして、十余人の近臣がいた。案内して来た宗もまだ残っていた。しかし意味ありげな大御所のことばを聞いて、皆(みな)しばらくことばを出さずにいた。ややあって宗が危ぶみながら口を開いた。
「三人目は喬僉知(きょうせんち)と申しまするもので」
家康は冷やかに一目見たきりで、目を転じて一座を見渡(みわた)した。
「誰も覚えてはおらぬか。わしは六十六になるが、まだめったに目くらがしは食わぬ。あれは天正(てんしょう)十一年に浜松(はままつ)を逐電(ちくてん)した時二十三|歳(さい)であったから、今年は四十七になっておる。太い奴(やつ)、ようも朝鮮人なりすましおった。あれは佐橋甚五郎(さはしじんごろう)じゃぞ」
 一座は互いに目を合わせたが、今度はしばらくの間誰一人ことばを出すものがなかった。本多何か問いたげに大御所の気色(けしき)を伺(うかが)っていた。
 家康本多を顧みて、「もうよい、振舞(ふるま)いの事を頼(たの)むぞ」と言った。これは家康がこの府中の城に住むことにきめて沙汰(さた)をしたのが今年の正月二十五日で、城はまだ普請中(ふしんちゅう)であるので、朝鮮の使の饗応(きょうおう)を本多が邸(やしき)ですることに言いつけておいたからである。
「一応とりただしてみることにいたしましょうか」と、本多はやはり気色を伺いながら言った。
「いや。それは知らぬと言うじゃろう。上役(うわやく)のものは全く知らぬかも知れぬ。とにかくあの者どもは早くここを立たせるがよい。土地のものと文通などをいたさせぬようにせい」
「はっ」といって本多は忙(いそ)がしげに退出した。
 饗応の用意はかねてととのえてあった。使は本多の邸へ引き取って常の衣服に着換(きが)えた上で、振舞いを受けることになっていたのである。


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