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作家のみた科学者の文学的活動 - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )

  • 【a005-02-16】◆阿川佐和子【あんな作家こんな作家どんな作家】
  • 38あんな作家こんな作家どんな作家 阿川佐和子 2003.5.28
  • 失われた世代の作家たち-20世紀アメリカ作家論- 昭和30年初版
  • ━日本美術倶楽部推奨作家━前川幸夫 海外でも人気の作家ですⅡ
  • 送込み 作家 宮ノ川顕 サイン色紙 レア 人気ミステリー作家
  • 〓作家物〓日展作家 水野双鶴 ぐいのみ (共箱)  C
  • a▲みき書房▲放送作家入門▲日本放送作家協会編▲昭和55年初版
  • ━日本美術倶楽部推奨作家━ 作家名: 小沢 眞弓
  • 水上勉**[*”文壇放浪”*]**瞼に残る,あの作家,この作家**切手可
  • ★阿川佐和子 文庫a43「あんな作家こんな作家~」 初版★
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        「生」の科学文学  随分古いことになるが、モウパッサンの小説に「生の誘惑」というのがあり、それを前田晁氏であったかが訳して出版された。私は十四五で、その小説を熱心に読んだ。なかに、パリの社交界華美いかがわしい生活を送っている女の娘が、樹の下の草にねころびながら、男の友達に本を読んで貰っている。美しい娘は草の上にはらばいになって手に草の葉をもち、そこにつたわって来ている一匹の蟻を眺めてそれと遊びながら、蟻の生活を書いた本を読んで貰っている。その光景がモウパッサン一流の筆致で活々と描かれていた。
 ファブルの名を知ったのは、多分これがきっかけであったと思う。それから、ファブルの昆虫記をすこし読んだが、これは何冊も読みつづけることが出来なかった。どういうことが読みつづけられない原因か考えていなかったのであるが、昨年本ばかり読んで暮さなければならない生活に置かれていた間に再びファブルやその伝記科学詩人」にめぐり会い、科学文学というものについて新しく感想を刺戟されたのであった。
 ファブルの伝記をよむと、彼が同時代人であったチャールズ・ダアウィンの科学的方法生活法に内心猛烈な反撥を蔵していたらしい。ダアウィンの境遇は謂わばよい意味でのお坊ちゃん風な色調がつよいのに反して、ファブルはコルシカ辺に教師をしたりして貧困と窮乏と闘いつつ、自分科学への道を切りひらいて行っている。イギリス人フランス人、特にドウデエなどがまざまざと特徴づけている南フランスの血が、ファブルの気象の中で境遇的にもダアウィンと撥(はじ)き合ったことは人間生活画面として無限に興味がある。
 素人でよく分らないけれども、ダアウィンが帰納的に種を観察し、進化観察して行ったに対してファブルが、どこまでも実証的な足場を固執したのも面白い。だが、ファブルの或る意味での科学者としての悲劇は、寧ろそういうところにあったのではなかろうか。
 ファブルはダアウィンの著作退屈でやり切れぬものとして軽蔑している。事実ダアウィン自身文章をかくことはまことに苦手で、はじめと終りの脈絡が書いているうちに自分でもわからなくなるような時があるとかこっている。然し今日のわたくしどもは、却って退屈なダアウィンの方が、ファブルより科学の本としては却って親しめるのである。ここに科学者によって考えられている文学的なるものの微妙問題がかくされていると思うのである。
 科学理性の主動するもの、芸術文学感情感覚が主として発動するものという簡単区分方法は、今日科学者理解からも文学者理解からも、もう少し複雑に、所謂(いわゆる)科学的に高められて来ている。ファブルなどの時代では、文学に於ても十分問題である擬人法ロマンチック色彩の横溢が、文学的であるとして考えられていたらしい。冷たい、理知だけの操作でない、対象との人間らしい共感においての観察という点の強調が、虫に頬かぶりをさせたり、草叢のアパッシュたらしめたりした。ファブルの伝記者は、アナトール・フランスがファブルの文章は悪文であると云ったということをおこっているが、今日第三者は、フランスはやはり文学の正道から見ての真実を云ったと思わざるを得ないのである。

        科学文学交流

 よく科学者に珍らしい詩人的要素とか審美的感覚とかいう表現が、一つの讚辞として流用されている。故寺田寅彦博士存在は、文化の綜合的な享楽者または与え手という意味で、多数の人々の敬愛をあつめている。絵も描き文章に達し、音楽も愛し、しかも音楽(セロ)の演奏ぶりなどにはなかなか近親者に忘れがたい好感を与えるユーモアがあふれていたようである。日本明治以来の興隆期の文化は、夏目漱石でその頂点に達し同時に漱石芸術には、今日日本予想せしめる顕著な内部矛盾が示されている。
 寺田氏の文化性というものも、日本のその時代特色を多くもっていると思う。社会的な境遇から云っても、寺田氏にあっては好きな勉強の主な一つとして科学が選ばれている。氏の文章をよむと、科学的なもの、文学的なもの、絵画的なものが一箇の能才者の内部に綜合された諸要素として立ち現われて来ている。寺田氏の科学的業績を云々する資格はもとよりないのであるけれども、文学的遺業について見ると、寺田氏がこの人生に向った角度にあらそわれぬ明治時代色があり、同時代の食うに困らなかった知識人の高級なディレッタンティズムが漂っているのである。文学才能音楽絵画の天分が、強い透明な焔で科学的天稟の間に統一され切っているのではない。寺田氏は、豊富自分才能のあの庭、この花園散策する姿において、魅力を感じる人々に限りない愛着を抱かせているのである。
 チンダルのアルプス紀行は、科学文学との関係で、寺田氏とは異った典型であると思う。チンダルは科学者の心持で終始一貫して、その科学精神の勁(つよ)くリアリスティックであることから独特の美を読者に感じさせる。所謂文学的な辞句の努力文学感情と云われているものやへの人為的な屈折なしに、すっきりとした高い人間らしい美を示している。科学者文筆活動の示し得る望ましい美は、こういう統一の姿においてではなかろうか。今日科学可能明日科学のために未だのこされている客観現実の豊饒さ、科学的方法が年から年へ進歩する行進曲意味を心と身にひき添えて科学者たることを生きる歓びと感じ得る科学者科学的探求を、云うところの学問として静的に見ず、社会歴史とに働きかけ又それらから働きかけられつつ動く人間行為、実践として科学を把握する科学者。これから益々そういう科学者が生れなければならない。
 今日我々がうけついでいる文化感情知性は、社会歴史に制せられてその本質様々矛盾、撞着、蒙昧をもっていることは認めなければならない事実である。科学者科学を見る態度にもこれをおのずから反映している。特に、今日科学では未だ現実の諸現象のあまねき隅々までを、すべての人々の感情に納得ゆくように解明し切らない部分がのこされていることが、科学者自身の生きかたにさえ妙な信念の欠乏と分裂とをおこさせている実例が決して尠くない。この分裂において、ヨーロッパ科学者は多く昔ながらの神へ逃げこんだ。日本科学者主観的な天の観念或は日常的な人情のしがらみに身をからめた。科学的精神の発展の路は困難をもっていて、歴史の種々な時期に迷信と闘い、誤った国粋主義と闘い、同時に自身の制約とも闘って今日に及んで来ているのである。
 日本科学者の心持は今日どのような状態におかれているのであろうか。非常に複雑な問題であるが、明治大正時代から見れば、科学者自覚されて来た社会意識の点で、今日はやはり特徴ある一時期であると云えると思う。さて、日本科学者は上向線を辿っていた経済政治文化の波頭におされて、主観的には科学のための科学邁進していると思いながら、客観的には当時の社会支配勢力に役立ちつつあった。ダアウィンの学説が、十九世紀イギリス資本主義興隆科学的裏づけとしてつかわれた如くに。

        科学者社会的基調

 昨今の社会情勢は推移して、もはや科学性のそれ以上の発展と支配力の利害とは一致し得なくなって来た。科学に対する統制科学の発展を阻害して目前の功利主義へひきとめる形としてあらわれて来ている。


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