元日の釣 - 石井 研堂 ( いしい けんどう )
上
元日に雨降りし例(ためし)なしといふ諺は、今年も亦|中(あた)りぬ。朝の内、淡雲|天(そら)を蔽ひたりしが、九時ごろよりは、如何にも春らしき快晴、日は小斎の障子一杯に射して、眩しき程明るく、暖かさは丁度四五月ごろの陽気なり。
数人一緒に落合ひたりし年始客の、一人残らず帰り尽せるにぞ、今まで高笑ひや何かにて陽気なりし跡は、急に静かになりぬ。
机の前の座に着けば、常には、書損じの反故(ほご)、用の済みし雑書など、山の如く積み重なりて、其の一方は崩れかゝり、満面塵に埋もれ在る小机も、今日だけは、特(こと)に小さつぱりなれば、我ながら嬉し。
頬杖をつき、読みさしの新聞に対(むか)ひしが、対手酒のほろ酔と、日当りの暖か過ぐると、新聞の記事の閑文字(かんもんじ)ばかりなるにて、終(つい)うと/\睡気を催しぬ。これではと、障子を半ば明けて、外の方をさし覘(のぞ)けば、大空は澄める瑠璃色の外、一片の雲も見えず、小児の紙鳶(たこ)は可なり飛※(ひよう)して見ゆれども、庭の松竹椿などの梢は、眠れるかの如くに、些(すこ)しも揺がず。
扨(さて)も/\穏かなる好き天気かな。一年の内に、雨風さては水の加減にて、釣に適当の日とては、真(まこと)に指折り数ふる位きり無し。数日照り続きし今日こそは、申し分の無き日和(ひより)なれ。例の場所にて釣りたらば、水は浪立ずして、熨(の)したる如く、船も竿も静にて、毛ほどの中(あた)りも能く見え、殊に愛日を背負ひて釣る心地は、嘸(さぞ)好かるべし。この陽気にては、入れ引に釣れて、煙草吸ふ間も無く、一束二束の獲物有るは受合ひなり。あゝ元日でさへ無くば往きたし。この一日千金の好日和を、新年……旧年……相変らず……などの、鸚鵡(おうむ)返しに暮すは勿体無し。今日往きし人も必ず多からん。今頃は嘸(さぞ)面白く釣り挙げ居つらん。軒に出せし国旗の竿の、釣竿の面影あるも思の種なり。紙鳶挙ぐる子供の、風の神弱し、大風吹けよと、謡ふも心憎しなど、窓に倚りて想ひを碧潭(へきたん)の孤舟(こしゅう)に騁(は)せ、眼に銀鱗の飛躍を夢み、寸時恍惚たり。
やゝありて始めて我に返り、思ふまじ思ふまじ、近処の手前も有り、三ヶ日丈け辛抱する例は、自ら創(はじ)めしものなるを、今更破るも悪しゝ。其代り、四日の初釣には、暗きより出でゝ思ふまゝ遊ばん。併(しか)し、此天気、四日まで続くべきや。若し今夜にも雨雪など降りて水冷えきらば、当分暫くは望みなし。殊に、明日の潮は朝底りの筈なれば、こゝ二三日は、実に好き潮なり。好機は得離く失ひ易し、天気の変らざる内、明日にも出でゝ念(おもい)を霽(は)らし、年頭の回礼は、三日四日に繰送らんか。綱引の腕車(くるま)を勢よく奔(はし)らせ、宿処ブツクを繰り返しながら、年始の回礼に勉むる人は、詮(せん)ずる所、鼻の下を養はん為めなるべし。彼れ悪事ならずば、心を養ふ此れ亦、元日なりとて、二日なりとて、誰に遠慮気兼すべき。さなり/\、往かう/\と、同しきことを黙想す。
されども、想ひ返しては又心弱く、誰と誰とは必ず二日に来るかた仁(じん)にて、衣服に綺羅を飾らざれども、心の誠は赤し。殊に、故(ことさ)ら改らずして、平日の積る話を語り合ふも亦一興なり。然るを、予(われ)の留守にて、空(むな)しく還すはつれ無し。世上、年に一度の釣をも為(せ)ぬ人多し。一日二日の辛抱何か有らん。是非四日まで辛抱せんかと、兎(と)さま角(こう)さま思ひ煩ひし上句(あげく)、終に四日の方に勝たれ、力無く障子を立て、又元の座に直りぬ。
一便毎に配達受けし、「恭賀新年」の葉書は、机上に溜りて数十百枚になりぬ。賀客の絶間に、返事書きて出さんかと、一枚づゝ繰り返し見つ。中には、暮の二十九日に届きしを先鋒として、三十日三十一日に届きしも有り。或は、旧年より、熱海の何々館に旅行中と、石版に摺りたるにて、麹町局の消印鮮かに見ゆるあり。或は新年の御題(ぎょだい)を、所謂(いわゆる)ヌーボー流に描き、五遍七遍の色版を重ねて、金朱絢爛たるも有り。さて/\凝りしものかな、とは思ふものゝ、何と無く気乗りせず、返事は晩にせんと、其のまゝ揃へて、又机の上に重ぬ。
顔のほてりは未だ醒めず、書読むも懶(ものう)し、来客もがなと思へど、客も無し。障子に面して、空しく静座すれば、又四日の出遊は、岡釣(おかづり)にすべきか、船にすべきか、中川に往かんか、利根川(本名江戸川)にせんかなど、思ひ出す。これと同時に、右の手は無意識に自ら伸びて、座右の品匣(しなばこ)(釣の小道具入)を引き寄せぬ。綸巻(いとまき)を取り出しぬ。検(あらた)め見れば、鈎※(はりす)、沈(おもり)、綸など、紊(みだ)れに紊れ、処々に泥土さへ着きて、前回の出遊に、雪交りの急雨に降(あ)ひ、手の指|亀(かじか)みて自由利かず、其のまゝ引きくるめ、這々(ほうほう)の体にて戻りし時の、敗亡の跡(あと)歴然たり。
銅盥(かなだらい)に湯を取らせ、綸巻を洗ひかけしに、賀客の訪(おとな)ふ声あり。其のまゝ片隅に推しやり、手を拭ひながら之を迎へ入る。客は、時々来る年少技術家にて、白襟の下着に、市楽三枚重ね、黒|魚子(ななこ)五つ紋の羽織に、古代紫の太紐ゆたかに結び、袴の為めに隠れて、帯の見えざりしは遺憾なりしも、カーキー色のキヤラコ足袋を穿(うが)ちしは明なりし。先づ、新年おめでたうより始まりて、祝辞の交換例の如く、煮染、照りごまめも亦例の如くにて、屠蘇(とそ)の杯も出でぬ。
下
客は早くも、主人の後方(しりえ)なる、品匣(しなばこ)に目をつけて、『釣の御用意ですか。』
と、釣談の火蓋を切りぬ。主人は、ほゝ笑みながら、
『どうも、狂が直らんので……。
数人一緒に落合ひたりし年始客の、一人残らず帰り尽せるにぞ、今まで高笑ひや何かにて陽気なりし跡は、急に静かになりぬ。
机の前の座に着けば、常には、書損じの反故(ほご)、用の済みし雑書など、山の如く積み重なりて、其の一方は崩れかゝり、満面塵に埋もれ在る小机も、今日だけは、特(こと)に小さつぱりなれば、我ながら嬉し。
頬杖をつき、読みさしの新聞に対(むか)ひしが、対手酒のほろ酔と、日当りの暖か過ぐると、新聞の記事の閑文字(かんもんじ)ばかりなるにて、終(つい)うと/\睡気を催しぬ。これではと、障子を半ば明けて、外の方をさし覘(のぞ)けば、大空は澄める瑠璃色の外、一片の雲も見えず、小児の紙鳶(たこ)は可なり飛※(ひよう)して見ゆれども、庭の松竹椿などの梢は、眠れるかの如くに、些(すこ)しも揺がず。
扨(さて)も/\穏かなる好き天気かな。一年の内に、雨風さては水の加減にて、釣に適当の日とては、真(まこと)に指折り数ふる位きり無し。数日照り続きし今日こそは、申し分の無き日和(ひより)なれ。例の場所にて釣りたらば、水は浪立ずして、熨(の)したる如く、船も竿も静にて、毛ほどの中(あた)りも能く見え、殊に愛日を背負ひて釣る心地は、嘸(さぞ)好かるべし。この陽気にては、入れ引に釣れて、煙草吸ふ間も無く、一束二束の獲物有るは受合ひなり。あゝ元日でさへ無くば往きたし。この一日千金の好日和を、新年……旧年……相変らず……などの、鸚鵡(おうむ)返しに暮すは勿体無し。今日往きし人も必ず多からん。今頃は嘸(さぞ)面白く釣り挙げ居つらん。軒に出せし国旗の竿の、釣竿の面影あるも思の種なり。紙鳶挙ぐる子供の、風の神弱し、大風吹けよと、謡ふも心憎しなど、窓に倚りて想ひを碧潭(へきたん)の孤舟(こしゅう)に騁(は)せ、眼に銀鱗の飛躍を夢み、寸時恍惚たり。
やゝありて始めて我に返り、思ふまじ思ふまじ、近処の手前も有り、三ヶ日丈け辛抱する例は、自ら創(はじ)めしものなるを、今更破るも悪しゝ。其代り、四日の初釣には、暗きより出でゝ思ふまゝ遊ばん。併(しか)し、此天気、四日まで続くべきや。若し今夜にも雨雪など降りて水冷えきらば、当分暫くは望みなし。殊に、明日の潮は朝底りの筈なれば、こゝ二三日は、実に好き潮なり。好機は得離く失ひ易し、天気の変らざる内、明日にも出でゝ念(おもい)を霽(は)らし、年頭の回礼は、三日四日に繰送らんか。綱引の腕車(くるま)を勢よく奔(はし)らせ、宿処ブツクを繰り返しながら、年始の回礼に勉むる人は、詮(せん)ずる所、鼻の下を養はん為めなるべし。彼れ悪事ならずば、心を養ふ此れ亦、元日なりとて、二日なりとて、誰に遠慮気兼すべき。さなり/\、往かう/\と、同しきことを黙想す。
されども、想ひ返しては又心弱く、誰と誰とは必ず二日に来るかた仁(じん)にて、衣服に綺羅を飾らざれども、心の誠は赤し。殊に、故(ことさ)ら改らずして、平日の積る話を語り合ふも亦一興なり。然るを、予(われ)の留守にて、空(むな)しく還すはつれ無し。世上、年に一度の釣をも為(せ)ぬ人多し。一日二日の辛抱何か有らん。是非四日まで辛抱せんかと、兎(と)さま角(こう)さま思ひ煩ひし上句(あげく)、終に四日の方に勝たれ、力無く障子を立て、又元の座に直りぬ。
一便毎に配達受けし、「恭賀新年」の葉書は、机上に溜りて数十百枚になりぬ。賀客の絶間に、返事書きて出さんかと、一枚づゝ繰り返し見つ。中には、暮の二十九日に届きしを先鋒として、三十日三十一日に届きしも有り。或は、旧年より、熱海の何々館に旅行中と、石版に摺りたるにて、麹町局の消印鮮かに見ゆるあり。或は新年の御題(ぎょだい)を、所謂(いわゆる)ヌーボー流に描き、五遍七遍の色版を重ねて、金朱絢爛たるも有り。さて/\凝りしものかな、とは思ふものゝ、何と無く気乗りせず、返事は晩にせんと、其のまゝ揃へて、又机の上に重ぬ。
顔のほてりは未だ醒めず、書読むも懶(ものう)し、来客もがなと思へど、客も無し。障子に面して、空しく静座すれば、又四日の出遊は、岡釣(おかづり)にすべきか、船にすべきか、中川に往かんか、利根川(本名江戸川)にせんかなど、思ひ出す。これと同時に、右の手は無意識に自ら伸びて、座右の品匣(しなばこ)(釣の小道具入)を引き寄せぬ。綸巻(いとまき)を取り出しぬ。検(あらた)め見れば、鈎※(はりす)、沈(おもり)、綸など、紊(みだ)れに紊れ、処々に泥土さへ着きて、前回の出遊に、雪交りの急雨に降(あ)ひ、手の指|亀(かじか)みて自由利かず、其のまゝ引きくるめ、這々(ほうほう)の体にて戻りし時の、敗亡の跡(あと)歴然たり。
銅盥(かなだらい)に湯を取らせ、綸巻を洗ひかけしに、賀客の訪(おとな)ふ声あり。其のまゝ片隅に推しやり、手を拭ひながら之を迎へ入る。客は、時々来る年少技術家にて、白襟の下着に、市楽三枚重ね、黒|魚子(ななこ)五つ紋の羽織に、古代紫の太紐ゆたかに結び、袴の為めに隠れて、帯の見えざりしは遺憾なりしも、カーキー色のキヤラコ足袋を穿(うが)ちしは明なりし。先づ、新年おめでたうより始まりて、祝辞の交換例の如く、煮染、照りごまめも亦例の如くにて、屠蘇(とそ)の杯も出でぬ。
下
客は早くも、主人の後方(しりえ)なる、品匣(しなばこ)に目をつけて、『釣の御用意ですか。』
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