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入社の辞 - 芥川 竜之介 ( あくたがわ りゅうのすけ )

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  • 別冊毎日グラフ 芥川龍之介 生誕百年、そして今
  • 絶版■芥川龍之介【邪宗門・杜子春】新潮文庫帯/昭和42年/葱.秋
芥川龍之介  予(よ)は過去二年間、海軍機関学校英語を教へた。この二年間は、予にとつて、決して不快な二年間ではない。何故と云へば予は従来、公務の余暇(よか)を以(もつ)て創作に従事し得る――或は創作余暇を以て公務に従事し得る恩典に浴してゐたからである。
 予の寡聞(くわぶん)を以てしても、甲教師超人哲学紹介を試みたが為に、文部当局の忌諱(きゐ)に触(ふ)れたとか聞いた。乙教師恋愛問題創作に耽(ふけ)つたが為に、陸軍当局の譴責(けんせき)を蒙(かうむ)つたさうである。それらの諸先生に比べれば、従来予が官立学校教師として小説家兼業する事が出来たのは、確(たしか)に比類|稀(まれ)なる御上(おかみ)の御待遇として、難有(ありがた)く感銘すべきものであらう。尤もこれは甲先生や乙先生が堂々たる本官教授だつたのに反して、予は一介の嘱託(しよくたく)教授に過ぎなかつたから、予の呼吸し得た自由空気の如きも、実は海軍当局が予に厚かつた結果と云ふよりも、或は単に予の存在があれどもなきが如くだつた為かも知れない。が、さう解釈する事は独(ひと)り礼を昨日の上官に失するばかりでなく、予に教師の口を世話してくれた諸先生に対しても甚だ御気の毒の至(いたり)だと思ふ。だから予は外(ほか)に差支(さしつか)へのない限り、正に海軍当局の海の如き大度量に感泣して、あの横須賀工廠(よこすかこうしやう)の恐る可き煤煙を肺の底まで吸ひこみながら、永久に「それは犬である」の講釈を繰返して行つてもよかつたのである。
 が、不幸にして二年間の経験によれば、予は教育家として、殊に未来海軍将校陶鋳(たうちう)すべき教育家として、いくら己惚(うぬぼ)れて見た所が、到底然るべき人物ではない。少くとも現代日本の官許教育方針を丸薬の如く服膺(ふくよう)出来ない点だけでも、明(あきらか)に即刻放逐さるべき不良教師である。勿論これだけの自覚があつたにしても、一家|眷属(けんぞく)の口が乾上る惧(おそれ)がある以上、予は怪しげな語学資本運転させて、どこまでも教育家らしい店構へを張りつづける覚悟でゐた。いや、たとへ米塩(べいえん)の資に窮さないにしても、下手(へた)は下手なりに創作押して行かうと云ふ気が出なかつたなら、予は何時までも名誉ある海軍教授看板を謹(つつし)んでぶら下(さ)げてゐたかも知れない。しかし現在の予は、既(すで)に過去の予と違つて、全精力を創作に費さない限り人生に対しても又予自身に対しても、済(す)まないやうな気がしてゐるのである。それには単に時間の上から云つても、一週五日間午前八時から午後三時まで機械の如く学校に出頭してゐる訣(わけ)に行くものではない。そこで予は遺憾(ゐかん)ながら、当局並びに同僚たる文武教官各位の愛顧に反(そむ)いて、とうとう大阪毎日新聞へ入社する事になつた。
 新聞は予に人並の給料をくれる。のみならず毎日出社すべき義務さへも強(し)ひようとはしない。これは官等の高下をも明かにしない予にとつて、白頭(はくとう)と共に勅任官を賜(たまは)るよりは遙(はるか)に居心の好い位置である。この意味に於(おい)て、予は予自身の為に心から予の入社を祝したいと思ふ。と同時に又我帝国海軍の為にも、予の如き不良教師が部内に跡(あと)を絶つた事を同じく心から祝したいと思ふ。
 昔の支那人は「帰らなんいざ、田園|将(まさ)に蕪(ぶ)せんとす」とか謡(うた)つた。予はまだそれほど道情を得た人間だとは思はない。が、昨(さく)の非を悔(く)い今の是(ぜ)を悟(さと)つてゐる上から云へば、予も亦同じ帰去来(ききよらい)の人である。春風は既に予が草堂の簷(のき)を吹いた。これから予も軽燕(けいえん)と共に、そろそろ征途へ上(のぼ)らうと思つてゐる。
大正八年三月



底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正松永正敏
2007年6月26日作成
青空文庫作成ファイル
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