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冬の王 - ランド ハンス ( )

  • 古書≪森鴎外集≫7 青年、舞姫他 【 森鴎外】河出書房 貴重 初版
  • 「森鴎外私論」吉野俊彦 森鴎外評論-批評-書籍・10冊 N21681
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ハンス・ランド Hans Land 森鴎外訳  このデネマルクという国は実に美しい言語には晴々しい北国(ほっこく)の音響があって、異様に聞える。人種も異様である。驚く程純血で、髪の毛は苧(お)のような色か、または黄金色(こがねいろ)に光り、肌は雪のように白く、体は鞭(むち)のようにすらりとしている。それに海近く棲(す)んでいる人種の常で、秘密らしく大きく開いた、妙に赫(かがや)く目をしている。
 己(おれ)はこの国の海岸愛する。夢を見ているように美しいハムレット太子(たいし)の故郷、ヘルジンギヨオルから、スウェエデンの海岸まで、さっぱりした、住心地(すみごこち)の好(よ)さそうな田舎家(いなかや)が、帯のように続いていて、それが田畑の緑に埋(うず)もれて、夢を見るように、海に覗(のぞ)いている。雨を催している日の空気は、舟からこの海岸を手の届くように近く見せるのである。
 我々は北国(ほっこく)の関門に立っているのである。なぜというに、ここを越せばスカンジナヴィアの南の果(はて)である。そこから偉大な半島がノルウェエゲンの瀲(みぎわ)や岩のある所まで延びている。
 あそこにイブセンの墓がある。あそこにアイスフォオゲルの家(いえ)がある。どこかあの辺(へん)で、北極探険アンドレエの骨が曝(さら)されている。あそこで地極(ちきょく)の夜(よ)が人を威(おど)している。あそこで大きな白熊(しろくま)がうろつき、ピングィン鳥(ちょう)が尻(しり)を据えて坐(すわ)り、光って漂い歩く氷の宮殿のあたりに、昔話にありそうな海象(かいぞう)が群がっている。あそこにまた昔話磁石の山が、舟の釘(くぎ)を吸い寄せるように、探険家の心を始終引き付けている地極の秘密が眠っている。我々は北極の閾(しきい)の上に立って、地極というものの衝(つ)く息を顔に受けている。
 この土地では夜(よる)も戸を締めない。乞食(こじき)もいなければ、盗賊もいないからである。斜面をなしている海辺(かいへん)の地の上に、神の平和のようなものが広がっている。何もかも故郷(こきょう)のドイツなどとは違う。更けても暗くはならない、此頃(このごろ)の六月の夜(よ)の薄明りの、褪(さ)めたような色の光線にも、また翌日の朝焼けまで微(かす)かに光り止(や)まない、空想的な、不思議に優しい調子の、薄色夕日景色にも、また暴風(あらし)の来そうな、薄黒い空の下で、銀鼠色(ぎんねずみいろ)に光っている海にも、また海岸に棲んでいる人民の異様な目にも、どの中にも一種の秘密がある。遠い北国(ほっこく)の謎(なぞ)がある。静か夏の日に、北風が持って来る、あちらの地極世界沈黙憂鬱(ゆううつ)とがある。
 己は静かな所で為事(しごと)をしようと思って、この海岸のある部落の、小さい下宿に住み込んだ。青々とした蔓草(つるぐさ)の巻き付いている、その家に越して来た当座の、ある日の午前(ごぜん)であった。己の部屋の窓を叩(たた)いたものがある。
「誰(たれ)か」と云(い)って、その這入(はい)った男を見て、己は目を大きく※(みは)った。
 背の高い、立派な男である。この土地で奴僕(ぬぼく)の締める浅葱(あさぎ)の前掛を締めている。男は響の好(よ)い、節奏のはっきりしたデネマルク語で、もし靴が一足間違ってはいないかと問うた。
 果して己は間違った靴を一足受け取っていた。男は自分の過(あやまち)を謝した。
 その時己はこの男の名を問うたが、なぜそんな事をしたのだか分からない。多分体格の立派なのと、項(うなじ)を反(そら)せて、傲然(ごうぜん)としているのとのためであっただろう。
「エルリングです」と答えて、軽く会釈して、男は出て行った。
 エルリングというのは古い、立派な、北国(ほっこく)の王の名である。それを靴を磨く男が名告(なの)っている。ドイツにもフリイドリヒという奴僕はいる。しかしまさかアルミニウスという名は付けない。この土地はおさんにインゲボルクがいたり、小間使にエッダがいたりする。それがそういう立派な名を汚(けが)すわけでもない。
 己はいつまでもエルリングの事を忘れる事が出来なかった。あの男のどこが、こんなに己の注意を惹(ひ)いたのだか、己の部屋に這入っていた時間余り短かったので、なんとも判断しにくい。目は青くて、妙な表情をしていた。なんでもずっと遠くにある物を見ているかと思うように、空(くう)を見ていた。悲しげな目というでもない。真面目(まじめ)な、ごく真面目な目で、譬(たと)えば最も静かな、最も神聖な最も世と懸隔している寂しさのようだとでも云いたい目であった。そうだ。


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