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冬日記 - 原 民喜 ( はら たみき )

  • №.6 「冬日によせて」 紫苑×ネズミ 小説
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 真白い西洋紙を展(ひろ)げて、その上に落ちてくる午後光線ぼんやり眺(なが)めていると、眼はその紙のなかに吸込まれて行くようで、心はかすかな光線うつろいに悶(もだ)えているのであった。紙を展(の)べた机は塵(ちり)一つない、清らかな、冷たい触感を湛(たた)えた儘(まま)、彼の前にあった。障子硝子越(ガラスご)しに、黐(もち)の樹が見え、その樹の上の空に青白い雲がただよっているらしいことが光線の具合で感じられる。冷え冷えとして、今にも時雨(しぐれ)が降りだしそうな時刻であった。廊下を隔てた隣室の方では、さきほどまで妻と女中の話声がしていたが、今はひっそりとしている。端近い近壁の家々も不思議静かである。何か書きはじめるなら今だ。今なら深い文章の脈が浮上って来るであろう。だが、何故(なぜ)かすぐにペンを紙の上に走らすことは躊躇(ちゅうちょ)された。西洋紙は視(み)つめているほどに青味を帯びて来て、そのなかには数々の幻影が潜んでいそうだ。弱々しく神経を消耗させて滅びて行く男の話、ものに脅えものに憑(つ)かれて死んでゆく友の話、いずれも失敗者の姿ばかりが彼の心には浮ぶのであった。……時雨に濡(ぬ)れて枯野を行く昔の漂泊詩人面影がふと浮んで来る、気がつくと恰度(ちょうど)ハラハラと降りだしたのである。そして今、露次の方に跫音(あしおと)がして、それが玄関の方へ近づいて来ると、彼はハッとして、きき慣れた跫音がその次にともなう動作をすぐ予想した。やがて玄関の戸がひらき、牛乳壜(ぎゅうにゅうびん)を置く音がする。かすかにかち合う壜の音と「こんちは」と呟(つぶや)く低い声がするのである。彼はずしんと、真空に投出されたような気持になる。微(かす)かにかち合う壜の音がまだ心の中で鳴りひびき、遠ざかって行く跫音が絶望的に耳に残る。それは毎日|殆(ほとん)ど同じ時刻に同じ動作で現れ、それを同じ状態の下にきく彼であった。だが、このもの音を区切りにやがてあたりの状態は少しずつ変って行く。バタンと乱暴に戸の開く音がして、けたたましい声で前の家の主婦は喋(しゃべ)りだす。すると、もう何処(どこ)でも夕餉(ゆうげ)の支度(したく)にとりかかる時刻らしかった。雨は歇(や)んだようだが、廊下の方に暮色がしのびよって来て、もう展(ひろ)げた紙の上にあった微妙美しい青も消え失せている。手を伸べて、スタンドスイッチを捻(ひね)ればよさそうであったが、それさえ彼には躊躇された。薄暗くなる部屋に蹲(うずくま)ったまま、彼はじりじりともの狂おしい想いを堪(た)えた。ものを書こうとして、書こうとしては躊躇し、この二三年をいつのまにか空費してしまった彼は、今もその躊躇の跡をいぶかりながら吟味しているのであったが、――時にこの悶えは娯(たの)しくもあったが、更により悲痛でもあったのだ。「黄昏(たそがれ)は狂人たちを煽情(せんじょう)する」とボオドレエルの散文詩にある老人のように、失意のうちに年老いてじりじりと夕暮を迎えねばならぬとしたら、――彼はそれがもう他人事(ひとごと)ではないように思えた。「マルテの手記」にある痙攣(けいれん)する老人が彼の方に近づいて来そうであった。

ベルリン――ロオマ行急行列車が、ある中位な駅の構内に進み入ったのは、曇った薄暗い肌(はだ)寒い時刻だった。幅の広い、粗天鵞絨(あらびろうど)の安楽椅子にレエスの覆(おお)いを掛けた一等の車室で、或る独(ひと)り旅(たび)の客が身を起した――アルブレヒトファンクワアレンである。彼は眼を醒(さ)ましたのである』
 夕食後、彼は妻の枕許(まくらもと)でトオマス・マンの「衣裳戸棚(いしょうとだな)」の冒頭を暗誦(あんしょう)してきかせた。女中のたつは通いで夜は帰って行ったから、その部屋はいま二人きりの領分であった。病気の妻はギラギラと眼を輝かし、彼の言葉に耳傾けていたが「絶唱だね」と彼がつけ加えると、それが他人の作品だと分り多少あきたらない面持にかえったが、猶(なお)も彼の意中をさぐろうとするように、凝(じっ)と空間を見詰めている。長い間、彼は何も書こうとしないが、まだ書こうとする熱意を喪(うしな)ってはいないのだろうか――そう妻は無言のうちに訊(たず)ねているようであった。だが、それはそれとして、妻も「衣裳戸棚」の旅の話を知っていた。あのような奇怪な絶望のはての娯(たの)しい旅へ出られたら、――それはこの頃二人に共通する夢でもあった。じりじりと押迫って来る何か不吉なものが、今にもこの小さな生活を覆(くつがえ)しそうな秋であった。台所硝子戸にドタンと風のあたる音がして、遠くの方にヒューッと唸(うな)る凩(こがらし)の音がする。電車が軋(きし)りながらすぐ近くの小駅に近づいて来る。不思議に外部のもの音が心に喰込(くいこ)んで来る。すると急に電灯のあかりが薄暗く感じられ、見慣れた部屋の壁の色がおそろしく冴(さ)えているのだ。ここには妻の一日の憂鬱(ゆううつ)がすっかり立籠(たちこも)っている。妻もまたこの二三年を病の床で暮し、来る日来る日をさびしく見送っているのだった。日によって、頬(ほお)が火照ったり、そうして、その後ではきっと熱が高かったが、些細(ささい)なことがらがひどく気に懸(かか)ることがある。かと思うと、ふと爽(さわ)やかな恢復期(かいふくき)の兆(きざし)が見えたりして、病気は絶えず一進一退していた。寝たままで、女中のたつを口で使っていたが、おつかいから帰って来るたつは、変動してゆく外の空気をいつも妻に語りつたえた。そうして、妻の焦躁(しょうそう)は無言の時、一際(ひときわ)はっきりと彼の方へ反映して来るようであった。その高い額の押黙って電灯に晒(さら)されている姿が、今も何となく彼には堪えがたくなる。彼はふと思いついたように座を立って、毎日習慣である冷水摩擦の用意にとりかかる。タオルを堅く洗面器の上で絞ると、シイツの上に両足を投出している妻の方へ持って行き、足さきの方から皮膚をこすって行くのであったが、膝(ひざ)から脇腹(わきばら)の方へ進むに随(したが)って、妻の下半身の表情がおもむろに現れて来る。彼はそれを愛撫(あいぶ)するというよりも、何か器具の光沢を磨(みが)いているような錯覚に陥りながら、やがて摩擦上半身へ移って行く。


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