刻々 - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )
一
朝飯がすんで、雑役が監房の前を雑巾がけしている。駒込署は古い建物で木造なのである。手拭を引さいた細紐を帯がわりにして、縞の着物を尻はし折りにした与太者の雑役が、ズブズブに濡らした雑巾で出来るだけゆっくり鉄格子のこま一つ一つを拭いたりして動いている。
夜前、神明町辺の博士の家とかに強盗が入ったのがつかまった。看守と雑役とが途切れ、途切れそのことについて話すのを、留置場じゅうが聞いている。二つの監房に二十何人かの男が詰っているがそれらはスリ、かっぱらい、無銭飲食、詐欺、ゆすりなどが主なのだ。
看守は、雑役の働く手先につれて彼方此方(あっちこっち)しながら、
「この一二年、めっきり留置場の客種も下ったなア」
と、感慨ありげに云った。
「もとは、滅多に留置場へなんか入って来る者もなかったが、その代り入って来る位の奴は、どいつも娑婆じゃ相当なことをやって来たもんだ。それがこの頃じゃどうだ! ラジオ(無銭飲食)だ、ナマコ一枚だ、で留置場は満員だものなア。きんたまのあるような奴が一人でもいるかね※」
保護室でぶつくさ、暗く、反抗的に声がした。
「ひっぱりようがこの頃と来ちゃア無茶だもん。うかうか往来も歩けやしねえや」
満州で侵略戦争を開始し、戦争熱をラジオや芝居で煽るようになってから、皮肉なことにカーキ色の癈兵の装(なり)で国家のためと女ばかりの家を脅かす新手の押売りが流行(はや)り、現に保護室にそんなのが四五人引っぱられて来ているのであった。
そんな話を聞いていると、私は左翼の者を引っぱるために、警察が飲食店の女中たちを一人つかまえさせればいくらときめて買収しているということを思い出した。交番の巡査が、何でも引っぱって来て一晩留置場へぶちこみさえすれば五十銭。共産党関係だったら五円。所謂「大物」だとそれ以上――蔵原惟人でいくらになった? そう思うと、体が熱くなるのであった。
暫くして、私は金網越しに云った。
「――だけれども結局、いくら引っぱって見たところではじまらないわけですね。世の中の土台がこのまんまじゃ。二十九日が来た。ソラ出ろ。……やっぱり食う道はありゃしない」
「ふむ……」
監房の前の廊下はまだ濡雑巾のあとが春寒く光り、朝で、気がだるんでいないので留置場じゅう森と、私の低いがはっきりした言葉を聞いている。
ガラガラと戸をあけて金モールをつけた背の高い司法主任が入って来た。片手でテーブルの上に出してある巡邏表(じゅんらひょう)のケイ紙に印を押しながら、看守に小声で何か云っている。顔の寸法も靴の寸法も長い看守は首を下げたまま、それに答えている。
「ハ。一名です。……承知しました。ハ」
金モールが出て行くと、看守は物懶(ものう)そうな物ごしで、テーブルの裏の方へ手を突込み鍵束をとり出した。そして、私のいる第一房の鉄扉をあけ、
「さア、出た」
鍵の先で招き出すような風にした。私が立ち上ってそのままあっち向きにぬいであるアンペラ草履をはこうとしたら、
「その紙なんかも持って……引越しだ」
と云った。
「引越し? どこへ?」
よそへ廻されるのか。瞬間そう思った。が、看守はそれに答えず、
「あっちにゴザのあるのを持って来て」
と命令した。便所へ曲ったところに二枚ゴザが巻いて立てかけてある。その一枚を持って来ると、そこへ敷いた、と廊下の隅、三尺の小窓の下を顎で示した。
「さア、そこへ坐るんだ」
何でも夜前つかまった強盗を入れるために、一房をあけたらしい。
自分が廊下を行き来するのを、ほかに見るもののない監房の男たちがじっと眺めているのだが、岨(そわ)が大きな声で、
「えらいところへ出ましたね、寒いゾ」
と、坐ったまま首だけのばして云った。保護室を通りすがったら、
「馬鹿にしてるね!」
今野が立膝をしたなり腹立たしげに、白眼をはっきりさせて云った。
「ふむ!」
成程、こういう風な人の動かしかたを、万事につけてやるものであるか。自分は強くそう思った。何も説明せず、先はどうなるのか見当がつかないように小切って命令し、行動の自主性を失わせる。弱い心を卑屈にするにはもって来いのやりかたである。
強盗が、カラーをとったワイシャツの上に縞背広の上衣だけきて入れられて来たが、留置場は冷淡な空気であった。何もとらずにつかまった。それが強盗としてのその男に対する与太者たちの評価に影響しているのであった。看守だけが、
「――つまらんことをやったもんだな。顔を知られてるにはきまってるでねか。今度やるなら、もっとうまいとこやるんだ! う?」
監房の金網に顔をさしよせて内を覗きながら云っている。その二十三四の八百屋だという男は、ガンコに頭をたれたきり腕組みをして身動きもしない。
夜前、神明町辺の博士の家とかに強盗が入ったのがつかまった。看守と雑役とが途切れ、途切れそのことについて話すのを、留置場じゅうが聞いている。二つの監房に二十何人かの男が詰っているがそれらはスリ、かっぱらい、無銭飲食、詐欺、ゆすりなどが主なのだ。
看守は、雑役の働く手先につれて彼方此方(あっちこっち)しながら、
「この一二年、めっきり留置場の客種も下ったなア」
と、感慨ありげに云った。
「もとは、滅多に留置場へなんか入って来る者もなかったが、その代り入って来る位の奴は、どいつも娑婆じゃ相当なことをやって来たもんだ。それがこの頃じゃどうだ! ラジオ(無銭飲食)だ、ナマコ一枚だ、で留置場は満員だものなア。きんたまのあるような奴が一人でもいるかね※」
保護室でぶつくさ、暗く、反抗的に声がした。
「ひっぱりようがこの頃と来ちゃア無茶だもん。うかうか往来も歩けやしねえや」
満州で侵略戦争を開始し、戦争熱をラジオや芝居で煽るようになってから、皮肉なことにカーキ色の癈兵の装(なり)で国家のためと女ばかりの家を脅かす新手の押売りが流行(はや)り、現に保護室にそんなのが四五人引っぱられて来ているのであった。
そんな話を聞いていると、私は左翼の者を引っぱるために、警察が飲食店の女中たちを一人つかまえさせればいくらときめて買収しているということを思い出した。交番の巡査が、何でも引っぱって来て一晩留置場へぶちこみさえすれば五十銭。共産党関係だったら五円。所謂「大物」だとそれ以上――蔵原惟人でいくらになった? そう思うと、体が熱くなるのであった。
暫くして、私は金網越しに云った。
「――だけれども結局、いくら引っぱって見たところではじまらないわけですね。世の中の土台がこのまんまじゃ。二十九日が来た。ソラ出ろ。……やっぱり食う道はありゃしない」
「ふむ……」
監房の前の廊下はまだ濡雑巾のあとが春寒く光り、朝で、気がだるんでいないので留置場じゅう森と、私の低いがはっきりした言葉を聞いている。
ガラガラと戸をあけて金モールをつけた背の高い司法主任が入って来た。片手でテーブルの上に出してある巡邏表(じゅんらひょう)のケイ紙に印を押しながら、看守に小声で何か云っている。顔の寸法も靴の寸法も長い看守は首を下げたまま、それに答えている。
「ハ。一名です。……承知しました。ハ」
金モールが出て行くと、看守は物懶(ものう)そうな物ごしで、テーブルの裏の方へ手を突込み鍵束をとり出した。そして、私のいる第一房の鉄扉をあけ、
「さア、出た」
鍵の先で招き出すような風にした。私が立ち上ってそのままあっち向きにぬいであるアンペラ草履をはこうとしたら、
「その紙なんかも持って……引越しだ」
と云った。
「引越し? どこへ?」
よそへ廻されるのか。瞬間そう思った。が、看守はそれに答えず、
「あっちにゴザのあるのを持って来て」
と命令した。便所へ曲ったところに二枚ゴザが巻いて立てかけてある。その一枚を持って来ると、そこへ敷いた、と廊下の隅、三尺の小窓の下を顎で示した。
「さア、そこへ坐るんだ」
何でも夜前つかまった強盗を入れるために、一房をあけたらしい。
自分が廊下を行き来するのを、ほかに見るもののない監房の男たちがじっと眺めているのだが、岨(そわ)が大きな声で、
「えらいところへ出ましたね、寒いゾ」
と、坐ったまま首だけのばして云った。保護室を通りすがったら、
「馬鹿にしてるね!」
今野が立膝をしたなり腹立たしげに、白眼をはっきりさせて云った。
「ふむ!」
成程、こういう風な人の動かしかたを、万事につけてやるものであるか。自分は強くそう思った。何も説明せず、先はどうなるのか見当がつかないように小切って命令し、行動の自主性を失わせる。弱い心を卑屈にするにはもって来いのやりかたである。
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