前記天満焼 - 国枝 史郎 ( くにえだ しろう )
1
ここは大阪|天満通(てんまとおり)の大塩中斎(おおしおちゅうさい)の塾である。
今講義が始まっている。
「王陽明の学説は、陸象山から発している。その象山の学説は、朱子の学から発している。周濂溪(しゅうれんけい)、張横渠(ちょうおうきょ)、程明道(ていめいどう)、程伊川(ていいせん)、これらの学説を集成したものが、すなわち朱子の学である。……朱子の学説を要約すれば、洒掃応待の礼よりはじめ、恭敬いやしくも事をなさず、かつ心を静止して、読書して事物を究め、聖賢の域に入れよとある。……がこれでは廻り遠い。人間そうそう永生きはできぬ、百般の事物を究理せぬうちに、一生の幕を下ろすことになろう。容易に聖賢になることはできぬ。……ここに至ってか陸象山、直覚的究理の説を立てた。陸象山云って曰く、――我心は天の与(あた)うるもの、万物の理は心内に在り、心内思考一番すれば、一切の理を認識すべしと――ところが陽明先生であるが、その象山の学説よりおこり、心即理、知行合一、致良知説を立てられた。……」
凜々として説いて行く。中斎この時四十三歳、膏(あぶら)ののった男盛りである。
数十人の門弟は襟を正し、粛然として聞いている。咳(しわぶき)一つするものがない。
説き去り説き進む中斎の講義……
「虚霊不昧、理具万事出、心外無理、心外無事」
ちょうどこの辺りまで来た時であった、夕陽が消えて宵となった。
「今日の講義はまずこの辺りで……」
云い捨て中斎が立ち上ったので、門弟一同も学堂を出た。
…………
居間に寛(くつろ)いだ大塩中斎は、小間使の持って来た茶を喫し、何か黙然と考えている。怒気と憂色とが顔にあり、思い詰めたような格好である。
すると、その時襖の陰から、
「宇津木矩之丞(うつぎのりのじょう)にございます。ちょっとお話し致したく」
「ああ宇津木か、入っておいで」
現われたのは若侍で、つつましく膝を進めたが、すぐに小声で話し出した。
「いよいよ平野屋では例の物を、江戸へ送るそうでございます」
「ふうんそうか、いよいよ送るか」
「どう致したものでございましょう?」
「そうさな」と中斎は考え込んだ。怒気とそうして憂色とが、いよいよ色濃くなってきた。
「やっぱりこっちへ取り上げることにしよう」
「はい」と云ったが矩之丞の顔には、不安と危惧(おそれ)とが漂っている。
「後世史家が何と申すやら、この点懸念にござります」
「うむ」と云ったが大塩中斎も、苦渋の表情をチラツカせた。
「拙者もそれを危惧ている。と云って目前の餓鬼道を見遁しにしては置けないな」
「先生の御気象と致しましては、御理(ごもっとも)千万に存ぜられます」
「俺は蔵書を売り払って、二万両の金を手に入れたが、日に日に増える窮民を、救ってやることは不可能だ」
「限りない人数でございますので」
「それで、断行しようと思う」
「はい」と云ったが宇津木矩之丞はやっぱり顔を曇らせている。
「本来けしからぬは徳川幕府じゃ。……その幕府の存在じゃ」と、中斎は日頃の持論の方へ、話の筋を向けだした。
「日本は神国、帝は現人神、天皇様御親政が我国の常道、中頃武家が政権を取ったは、覇道にして変則であるが、帝より政治をお預かりし、代って行なうと解釈すれば、認められないこともない。……しかしそれとて条件があって、国内(うち)は四民に不満なく、国外(そと)は外国(いこく)の侵逼(しんひつ)なく、五穀実り、天候静穏、礼楽ことごとく調うような、理想的政治を行なうなれば、預けまかせておいてもよかろう。……しかるに現今の徳川幕府の、政治の執り方はどうであるか? 北からはロシアが北海道をうかがい、西からはイギリスが支那を犯し、香港(ホンコン)島を占領し、その余威を籍(か)りて神国日本へ、開港を逼ろうとして虎視眈々じゃ。……さらにイギリスの双生児ともいうべき、アメリカ国に至っては、その成り上り者の根性をもって、傍若無人に日本に対し、同じく開港を強いようとしている。……それに対して徳川幕府は、特別に兵備をととのえようともせず、海岸防備を試みようともせず、外侮を受けようとしているのじゃ。……しかして国内の有様はどうか? 上は将軍家をはじめとし、台閣(だいかく)諸侯、奉行輩、奢侈に耽り無為に日を暮らし、近世珍らしい大飢饉が、帝の赤子を餓死させつつあるのに、ろくろく救済の策さえ講ぜず、安閑として眺めている。……これでは幕府の存在は、有害であって無益ではないか! すべからく天下に罪を謝し、政治(まつりごと)を京師(けいし)へ奉還し、天皇様御親政の日本本来の、自然の政体に返すべきじゃ!」
「先生々々、もうその御議論は……」
矩之丞は四辺(あたり)りを憚って、押止めるように手を振った。
「うむ、よしよし」と中斎は頷き、しばらく沈黙していたが、
「矩之丞」と秘めた声で、
「こういう内外の悪情勢に際し、何が最も恐ろしいか、何を最も戒心すべきか、知っておるかな? 心得ておるか?」
「…………」
「外国渡来の悪思想、及び悪い宗教じゃ」
「これはごもっともに存じます」
「外国渡来の悪趣味の娯楽、これも注意して打倒しなければいけない」
「ごもっともに存じます」
「外国渡来の悪宗教といえば、過ぐる年わしは吉利支丹信者の、貢(みつぎ)という巫女を京都(きょうと)で捕らえ、一味の者共々刑に処したが……」
「これは与力でおわしました頃の、先生のお手柄の随一として……」
「いやいや自慢をするのではない。心にかかることがあるからじゃ」
「…………」
「貢の門下にお久美というしたたか者の女がいたが、それをあの際取り逃がしてのう」
「久美なら私も存じておりまする」
「どこへ行ったものか行衛(ゆくえ)が知れない。……これが心にかかっておる。……引っ捕らえて刑に処せねばと……」
急に矩之丞は別のことを云った。
「二三ヶ月前に入門いたしました、飛田(ひだ)庄介、前川満兵衛、それから山村紋左衛門、ちと私には怪しいように……」
「どういう意味かな、怪しいとは?」
不思議だというように中斎は訊いた。
「隠密などではありますまいかと」
「これこれ」と中斎はにわかに笑い、
「お前は俺(わし)の前身を、もう忘れてしまったと見える」
「は、何事でございますか」
「俺は以前は与力だったよ。だからこの俺の塾内に、そのような隠密など入り込んで居れば、観破しないでは置かないはずだよ」
「これはごもっともに存じます」
矩之丞は苦笑した。
部屋内しばらく静かである。
と、中斎は静かに訊いた。
「例の物を平野屋が江戸へ送る、ハッキリした日取りは解(わか)って居るかな?」
「それはまだ不明にございます」
「是非とも探って確かめるよう」
「かしこまりましてございます」
自分の屋敷へ帰ろうと、宇津木矩之丞が只一人で、中斎の屋敷を立ち出たのは、その夜もずっと更けてからであった。
思案に暮れて歩いていたためか、道を取り違えて淀川縁へ出た。
2
「去年からかけて天候不順、五穀実らず飢民続出、それなのに官では冷淡を極め、救恤(すくい)の策を施そうともしない。富豪も蔵をひらこうともしない。これでは先生が憤慨されるはずだ。
「王陽明の学説は、陸象山から発している。その象山の学説は、朱子の学から発している。周濂溪(しゅうれんけい)、張横渠(ちょうおうきょ)、程明道(ていめいどう)、程伊川(ていいせん)、これらの学説を集成したものが、すなわち朱子の学である。……朱子の学説を要約すれば、洒掃応待の礼よりはじめ、恭敬いやしくも事をなさず、かつ心を静止して、読書して事物を究め、聖賢の域に入れよとある。……がこれでは廻り遠い。人間そうそう永生きはできぬ、百般の事物を究理せぬうちに、一生の幕を下ろすことになろう。容易に聖賢になることはできぬ。……ここに至ってか陸象山、直覚的究理の説を立てた。陸象山云って曰く、――我心は天の与(あた)うるもの、万物の理は心内に在り、心内思考一番すれば、一切の理を認識すべしと――ところが陽明先生であるが、その象山の学説よりおこり、心即理、知行合一、致良知説を立てられた。……」
凜々として説いて行く。中斎この時四十三歳、膏(あぶら)ののった男盛りである。
数十人の門弟は襟を正し、粛然として聞いている。咳(しわぶき)一つするものがない。
説き去り説き進む中斎の講義……
「虚霊不昧、理具万事出、心外無理、心外無事」
ちょうどこの辺りまで来た時であった、夕陽が消えて宵となった。
「今日の講義はまずこの辺りで……」
云い捨て中斎が立ち上ったので、門弟一同も学堂を出た。
…………
居間に寛(くつろ)いだ大塩中斎は、小間使の持って来た茶を喫し、何か黙然と考えている。怒気と憂色とが顔にあり、思い詰めたような格好である。
すると、その時襖の陰から、
「宇津木矩之丞(うつぎのりのじょう)にございます。ちょっとお話し致したく」
「ああ宇津木か、入っておいで」
現われたのは若侍で、つつましく膝を進めたが、すぐに小声で話し出した。
「いよいよ平野屋では例の物を、江戸へ送るそうでございます」
「ふうんそうか、いよいよ送るか」
「どう致したものでございましょう?」
「そうさな」と中斎は考え込んだ。怒気とそうして憂色とが、いよいよ色濃くなってきた。
「やっぱりこっちへ取り上げることにしよう」
「はい」と云ったが矩之丞の顔には、不安と危惧(おそれ)とが漂っている。
「後世史家が何と申すやら、この点懸念にござります」
「うむ」と云ったが大塩中斎も、苦渋の表情をチラツカせた。
「拙者もそれを危惧ている。と云って目前の餓鬼道を見遁しにしては置けないな」
「先生の御気象と致しましては、御理(ごもっとも)千万に存ぜられます」
「俺は蔵書を売り払って、二万両の金を手に入れたが、日に日に増える窮民を、救ってやることは不可能だ」
「限りない人数でございますので」
「それで、断行しようと思う」
「はい」と云ったが宇津木矩之丞はやっぱり顔を曇らせている。
「本来けしからぬは徳川幕府じゃ。……その幕府の存在じゃ」と、中斎は日頃の持論の方へ、話の筋を向けだした。
「日本は神国、帝は現人神、天皇様御親政が我国の常道、中頃武家が政権を取ったは、覇道にして変則であるが、帝より政治をお預かりし、代って行なうと解釈すれば、認められないこともない。……しかしそれとて条件があって、国内(うち)は四民に不満なく、国外(そと)は外国(いこく)の侵逼(しんひつ)なく、五穀実り、天候静穏、礼楽ことごとく調うような、理想的政治を行なうなれば、預けまかせておいてもよかろう。……しかるに現今の徳川幕府の、政治の執り方はどうであるか? 北からはロシアが北海道をうかがい、西からはイギリスが支那を犯し、香港(ホンコン)島を占領し、その余威を籍(か)りて神国日本へ、開港を逼ろうとして虎視眈々じゃ。……さらにイギリスの双生児ともいうべき、アメリカ国に至っては、その成り上り者の根性をもって、傍若無人に日本に対し、同じく開港を強いようとしている。……それに対して徳川幕府は、特別に兵備をととのえようともせず、海岸防備を試みようともせず、外侮を受けようとしているのじゃ。……しかして国内の有様はどうか? 上は将軍家をはじめとし、台閣(だいかく)諸侯、奉行輩、奢侈に耽り無為に日を暮らし、近世珍らしい大飢饉が、帝の赤子を餓死させつつあるのに、ろくろく救済の策さえ講ぜず、安閑として眺めている。……これでは幕府の存在は、有害であって無益ではないか! すべからく天下に罪を謝し、政治(まつりごと)を京師(けいし)へ奉還し、天皇様御親政の日本本来の、自然の政体に返すべきじゃ!」
「先生々々、もうその御議論は……」
矩之丞は四辺(あたり)りを憚って、押止めるように手を振った。
「うむ、よしよし」と中斎は頷き、しばらく沈黙していたが、
「矩之丞」と秘めた声で、
「こういう内外の悪情勢に際し、何が最も恐ろしいか、何を最も戒心すべきか、知っておるかな? 心得ておるか?」
「…………」
「外国渡来の悪思想、及び悪い宗教じゃ」
「これはごもっともに存じます」
「外国渡来の悪趣味の娯楽、これも注意して打倒しなければいけない」
「ごもっともに存じます」
「外国渡来の悪宗教といえば、過ぐる年わしは吉利支丹信者の、貢(みつぎ)という巫女を京都(きょうと)で捕らえ、一味の者共々刑に処したが……」
「これは与力でおわしました頃の、先生のお手柄の随一として……」
「いやいや自慢をするのではない。心にかかることがあるからじゃ」
「…………」
「貢の門下にお久美というしたたか者の女がいたが、それをあの際取り逃がしてのう」
「久美なら私も存じておりまする」
「どこへ行ったものか行衛(ゆくえ)が知れない。……これが心にかかっておる。……引っ捕らえて刑に処せねばと……」
急に矩之丞は別のことを云った。
「二三ヶ月前に入門いたしました、飛田(ひだ)庄介、前川満兵衛、それから山村紋左衛門、ちと私には怪しいように……」
「どういう意味かな、怪しいとは?」
不思議だというように中斎は訊いた。
「隠密などではありますまいかと」
「これこれ」と中斎はにわかに笑い、
「お前は俺(わし)の前身を、もう忘れてしまったと見える」
「は、何事でございますか」
「俺は以前は与力だったよ。だからこの俺の塾内に、そのような隠密など入り込んで居れば、観破しないでは置かないはずだよ」
「これはごもっともに存じます」
矩之丞は苦笑した。
部屋内しばらく静かである。
と、中斎は静かに訊いた。
「例の物を平野屋が江戸へ送る、ハッキリした日取りは解(わか)って居るかな?」
「それはまだ不明にございます」
「是非とも探って確かめるよう」
「かしこまりましてございます」
自分の屋敷へ帰ろうと、宇津木矩之丞が只一人で、中斎の屋敷を立ち出たのは、その夜もずっと更けてからであった。
思案に暮れて歩いていたためか、道を取り違えて淀川縁へ出た。
2
「去年からかけて天候不順、五穀実らず飢民続出、それなのに官では冷淡を極め、救恤(すくい)の策を施そうともしない。富豪も蔵をひらこうともしない。これでは先生が憤慨されるはずだ。
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