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剣侠 - 国枝 史郎 ( くにえだ しろう )

  • 横尾忠則装が秀逸!【講談社国枝史郎伝奇文庫】全28巻初版揃い
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木剣試合 1  文政×年の初夏のことであった。  杉浪之助(すぎなみのすけ)は宿を出て、両国をさして歩いて行った。
 本郷の台まで来たときである。榊原式部少輔(さかきばらしきぶしょうゆう)様のお屋敷があり、お長屋が軒を並べていた。
 と、
「エーイ」
「イヤー」
 という、鋭い掛声が聞こえてきた。
(はてな?)
 と、浪之助は足を止めた。
(凄いような掛声だが?)
 で、四辺(あたり)を見廻して見た。
 掛声はお長屋の一軒の、塀の内側から来たようであった。
 幸い節穴があったので、浪之助は覗いて見た。
 六十歳前後の老武士と、三十五六歳の壮年武士とが、植込の開けた芝生の上に下り立ち、互いに木剣を構えていた。
(こりゃアいけない)
 と浪之助は思った。
(まるでこりゃア段違いだ)
 老武士の構えも立派ではあったが、しかし要するに尋常で、構えから見てその伎倆(うで)も、せいぜいのところ免許ぐらい、しかるに一方壮年武士の方の伎倆は、どっちかというと武道不鍛練の、浪之助のようなものの眼から見ても、恐ろしいように思われる程に、思い切って勝れているのであった。
 それに浪之助には何となく、この二人の試合なるものが、単なる業(わざ)の比較ではなく、打物(うちもの)こそ木剣を用いておれ、恨みを含んだ真剣の決闘、そんなように思われてならなかった。
 豊かの頬、二重にくくれた頤、本来の老武士の人相は、円満であり寛容であるのに、額(ひたい)を癇癖(かんぺき)の筋でうねらせ、眼を怒りに血ばしらせている。
 これに反して壮年武士の方は、怒り代わりに嘲りと憎みを、切長の眼、高薄い鼻、痩せた頬、蒼白い顔色、そういう顔に漂わせながら、焦心(あせ)る老武士を充分に焦心らせ、苦しめるだけ苦しめてやろうと、そう思ってでもいるように、ジワリジワリと迫り詰めていた。
(やるな)
 と浪之助の思った途端、壮年武士木剣が、さながら水でも引くように、左り後ろへ斜めに引かれた。
 誘いの隙に相違なかった。
 それに老武士は乗ったらしい。
 一足踏み出すと真っ向へ下ろした。
 壮年武士は身を翻えしたが、横面を払うと見せて、無類の悪剣、老武士の痩せた細い足を、打ったら折れるに相違ない、それと知っていてその足を……打とうとしたきわどい一刹那に、
「あれ、お父(とう)様」という女の声が、息詰まるように聞こえてきた。
 正面に立っている屋敷の縁(えん)に、十八九の娘が立っていた。
 跣足(はだし)でその娘が駈け寄って来たのと、老武士木剣を閃(ひら)めかせたのと、壮年武士が「参った」と叫び、構えていた木剣をダラリと下げ、苦笑いをして右の腕を、左の掌で揉んだのとが、その次に起こった出来事であった。
 浪之助も塀の節穴越しに、苦笑せざるを得なかった。
(若い武士が打たれるはずはない。わざと勝を譲ったんだ)
 そう思わざるを得なかった。
 浪之助は娘を見た。
 柘榴(ざくろ)の蕾を想わせるような、紅(あか)い小さな唇が、娘を初々しく気高くしていた。


「何だそのような未熟の腕でいながら、傲慢らしく振舞うとは」
 こう老武士の窘(たしな)めるような声が、浪之助の耳へ聞こえてきたので、老武士の方へ眼を移して見た。
 娘を横手へ立たせたまま、壮年武士と向かい合い、老武士は説いているのであった。
「たとえどのような伎倆(うで)があろうと、世間には名人達人がある、上越す者がどれほどでもある、増長慢になってはいけないのう」
 こう云った時には老武士の声は、穏やかになり親切そうになり、顔からも怒りがなくなっていた。
第一わしのようなこんな老人に、もろく負けるようなそんな伎倆では、自慢しようも出来ないではないか。のう澄江(すみえ)、そうであろうがな」
「まあお父様そのようなこと……もうよろしいではござりませぬか……でも陣十郎様のお伎倆(うでまえ)は、お立派のように存ぜられますわ」
 藤と菖蒲(あやめ)をとりあわせた、長い袂の単衣(ひとえ)が似合って、※(ろう)たけて(ろう)たけて」は底本では「臈(ろう)たけて」]さえ見えるその娘は、とりなすようにそういうように云い、気の毒そうに壮年武士を見た。
 壮年武士の表情には、軽侮と傲慢とがあるばかりであった。
 しかし娘にそう云われた時、その表情を不意に消し、
「これは恐縮に存じます。……いや私の伎倆など、まだまだやくざでござりまして、まさしく小父様に右の籠手(こて)を、一本取られましてござります。……将来気をつけるでござりましょう」
「さようさようそれがよろしい、将来は気をつけ天狗にならず、ますます勉強するがよい。いやお前にそう出られて、わしはすっかり嬉しくなった。……では茶でものむとしようぞ。……陣十郎(じんじゅうろう)来い、澄江来い」
 好々爺の本性に帰ったらしく、こう云うと老武士木剣を捨て、屋敷の方へ歩き出した。
「では陣十郎様、おいでなさりませ」
「は」と云ったが陣十郎様という武士は、何か心に済まないかのように、何か云い出そうとするかのように澄江の顔を凝視するばかりで、歩き出そうとはしなかった。
「澄江様。……澄江様」
「はい、何でございますか?」
「私の甲源一刀流、お父上の新影流より、劣って居るとお思い遊ばしますかな?」
「いいえ……でも……わたくしなどには……」
「お解(わか)りにならぬと仰せられる?」
「わかりませんでござります」
「わからぬものは剣道ばかりか……男の、男の、恋心なども……」
「……」澄江の眼には当惑らしい表情が出た。
「打とうと思えば小父様など、たった一打ち手間暇はいらぬ。……打たずにかえって打たれたは……澄江さま、貴方のためじゃ」
「…………」
 その時屋敷の縁の上から、
「おいで、こら、何をして居る」
 老武士が呼んで手を拍った。
羊羹を切ったぞ。おいでおいで」
「はい」と云うと陣十郎へ背を向け、澄江はそっちへ小走った。
「ちと痛い」と右の手を揉み、
「あの老耄(おいぼれ)、フ、フ、何を……が、澄江には恩をかけた。……この手で……」
 と口の中で呟きながら、陣十郎という若い武士は、屋敷の方へそろそろと歩いた。


(どうにも変な試合だったよ)
 浪之助はそんなことを思いながら、両国の方へ歩いて行った。
(それにしてもちょっと美(い)い娘だった)
 こんなことをチラリと心の隅で思い、独り笑いをもらしたりした。


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