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化け物の進化 - 寺田 寅彦 ( てらだ とらひこ )

  • V8トライク,6000CC,日本最大クラス,車検たっぷり,化け物豪快
  • 楓 化け物材 X-36
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 人間文化進歩の道程において発明され創作されたいろいろの作品の中でも「化け物」などは最もすぐれた傑作と言わなければなるまい。化け物もやはり人間自然接触から生まれた正嫡子であって、その出入する世界は一面には宗教世界であり、また一面には科学世界である。同時にまた芸術世界ででもある。
 いかなる宗教でもその教典の中に「化け物」の活躍しないものはあるまい。化け物なしにはおそらく宗教なるものは成立しないであろう。もっとも時代の推移に応じて化け物表象変化するであろうが、その心的内容においては永久に同一であるべきだと思われる。
 昔の人は多くの自然界不可解現象化け物の所業として説明した。やはり一種の作業仮説である。雷電現象は虎(とら)の皮の褌(ふんどし)を着けた鬼の悪ふざけとして説明されたが、今日では空中電気と称する怪物活動だと言われている。空中電気というとわかったような顔をする人は多いがしかし雨滴の生成分裂によっていかに電気の分離蓄積が起こり、いかにして放電が起こるかは専門家にもまだよくはわからない。今年のグラスゴー科学者大会シンプソンウィルソンと二人の学者が大議論をやったそうであるが、これはまさにこの化け物の正体に関する問題についてであった。結局はただ昔の化け物名前と姿を変えただけの事である。
 自然界不思議さは原始人類にとっても、二十世紀科学者にとっても同じくらいに不思議である。その不思議を昔われらの先祖化け物帰納したのを、今の科学者分子原子電子へ持って行くだけの事である。昔の人でもおそらく当時彼らの身辺の石器土器を「見る」と同じ意味化け物を見たものはあるまい。それと同じようにいかなる科学者でもまだ天秤(てんびん)や試験管を「見る」ように原子電子を見た人はないのである。それで、もし昔の化け物実在でないとすれば今の電子原子実在ではなくて結局一種の化け物であると言われる。原子電子存在仮定する事によって物理界の現象遺憾なく説明し得られるからこれらが物理実在であると主張するならば、雷神存在仮定する事によって雷電風雨の現象説明するのとどこがちがうかという疑問が出るであろう。もっとも、これには明らかな相違の点がある事はここで改まって言うまでもないが、しかしまた共通なところもかなりにある事は争われない。ともかくもこの二つのものの比較はわれわれの科学なるものの本質に関する省察の一つの方面を示唆する。
 雷電怪物分解して一半は科学のほうへ入り一半は宗教のほうへ走って行った。すべての怪異も同様である。前者は集積し凝縮電子となりプロトーンとなり、後者は一つにかたまり合って全能の神様になり天地の大道となった。そうして両者ともに人間創作であり芸術である。流派がちがうだけである。
 それゆえに化け物歴史人間文化の一面の歴史であり、時と場所との環境変化がこれに如実に反映している。鎌倉(かまくら)時代化け物江戸時代化け物を比較し、江戸化け物ロンドン化け物を比較してみればこの事はよくわかる。
 前年だれか八頭の大蛇(だいじゃ)とヒドラのお化けとを比較した人があった。近ごろにはインドのヴィシヌとギリシアポセイドン関係を論じている学者もある。またガニミード神話の反映をガンダラのある彫刻に求めたある学者の考えでは、鷲(わし)がガルダに化けた事になっている。そしておもしろい事にはその彫刻に現わされたガルダの顔かたちが、わが国天狗大和尚(てんぐだいおしょう)の顔によほど似たところがあり、また一方ではジャヴァのある魔神によく似ている。またわれわれの子供の時からおなじみの「赤鬼」の顔がジャヴァ、インド、東トルキスタンからギリシアへかけて、いろいろの名前と表情とをもって横行している。また大江山(おおえやま)の酒顛童子(しゅてんどうじ)の話とよく似た話がシナにもあるそうであるが、またこの話はユリシースのサイクロップス退治の話とよほど似たところがある。のみならずこのシュテンドウシがアラビアから来たマレイ語で「恐ろしき悪魔」という意味言葉に似ており、もう一つ脱線すると源頼光音読がヘラクレースとどこか似通ってたり、もちろん暗合として一笑に付すればそれまでであるが、さればと言って暗合であるという科学証明もむつかしいような事例はいくらでもある。ともかくも世界じゅうの化け物たちの系図調べをする事によって古代民族間の交渉を探知する一つの手掛かりとなりうる事はむしろ既知の事実である。そうして言論や文字美術品を手掛かりとするこれと同様な研究よりもいっそう有力でありうる見込みがある。なぜかと言えば各民族化け物にはその民族宗教と科学芸術とが総合されているからである。
 しかし不幸にして科学進歩するとともに科学というものの真価が誤解され、買いかぶられた結果として、化け物に対する世人の興味が不正当に希薄になった、今どき本気になって化け物研究でも始めようという人はかなり気が引けるであろうと思う時代の形勢である。
 全くこのごろは化け物どもがあまりにいなくなり過ぎた感がある。今の子供らがおとぎ話の中の化け物に対する感じはほとんどただ空想的な滑稽味(こっけいみ)あるいは怪奇味だけであって、われわれの子供時代に感じさせられたように頭の頂上から足の爪先(つまさき)まで突き抜けるような鋭い神秘の感じはなくなったらしく見える。これはいったいどちらが子供らにとって幸福であるか、どちらが子供らの教育上有利であるか、これも存外多くの学校先生の信ずるごとくに簡単問題ではないかもしれない。西洋おとぎ話に「ゾッとする」とはどんな事か知りたいというばか者があってわざわざ化け物屋敷探険に出かける話があるが、あの話を聞いてあの豪傑をうらやましいと感ずべきか、あるいはかわいそうと感ずべきか、これも疑問である。ともかくも「ゾッとする事」を知らないような豪傑が、かりに科学者になったとしたら、まずあまりたいした仕事はできそうにも思われない。
 しあわせな事にわれわれの少年時代田舎(いなか)にはまだまだ化け物たくさんに生き残っていて、そしてそのおかげでわれわれは充分な「化け物教育」を受ける事ができたのである。郷里の家の長屋に重兵衛(じゅうべえ)さんという老人がいて、毎晩|晩酌(ばんしゃく)の肴(さかな)に近所の子供らを膳(ぜん)の向かいにすわらせて、生(なま)のにんにくをぼりぼりかじりながらうまそうに熱い杯をなめては数限りもない化け物の話をして聞かせた。思うにこの老人一千一夜物語著者のごとき創作天才であったらしい。そうして伝説化け物新作の化け物どもを随意に眼前におどらせた。われわれの臆病(おくびょう)なる小さな心臓老人の意のままに高く低く鼓動した。夜ふけて帰るおのおのの家路には木の陰、川の岸、路地の奥の至るところにさまざまな化け物の幻影が待ち伏せて動いていた。化け物は実際に当時のわれわれの世界にのびのびと生活していたのである。


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