化銀杏 - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )
一
貸したる二階は二間にして六畳と四畳半、別に五畳余りの物置ありて、月一円の極(きわめ)なり。家主(やぬし)は下の中の間の六畳と、奥の五畳との二間に住居(すま)いて、店は八畳ばかり板の間になりおれども、商売家(あきないや)にあらざれば、昼も一枚|蔀(しとみ)をおろして、ここは使わずに打捨てあり。
往来より突抜けて物置の後(うしろ)の園生(そのう)まで、土間の通庭(とおりにわ)になりおりて、その半ばに飲井戸あり。井戸に推並(おしなら)びて勝手あり、横に二個(ふたつ)の竈(かまど)を並べつ。背後(うしろ)に三段ばかり棚を釣りて、ここに鍋(なべ)、釜(かま)、擂鉢(すりばち)など、勝手道具を載(の)せ置けり。廁(かわや)は井戸に列してそのあわい遠からず、しかも太(いた)く濁りたれば、漉(こ)して飲用に供しおれり。建てて数十年を経たる古家なれば、掃除は手綺麗(てぎれい)に行届きおれども、そこら煤(すす)ぼりて余りあかるからず、すべて少しく陰気にして、加賀金沢の市中にてもこのわたりは浅野川の河畔一帯の湿地(しけち)なり。
園生は、一重の垣を隔てて、畑造りたる裏町の明地(あきち)に接し、李(すもも)の木、ぐみの木、柿の木など、五六本の樹立(こだち)あり。沓脱(くつぬぎ)は大戸を明けて、直ぐその通庭なる土間の一端にありて、上り口は拭(ふ)き込みたる板敷なり。これに続ける六畳は、店と奥との中の間にて、土地の方言茶の室(ま)と呼べり。その茶の間の一方に長火鉢を据えて、背(うしろ)に竹細工の茶棚を控え、九谷焼、赤絵の茶碗、吸子(きゅうす)など、体裁よく置きならべつ。うつむけにしたる二個(ふたつ)の湯呑(ゆのみ)は、夫婦(めおと)別々の好みにて、対にあらず。
細君は名をお貞(てい)と謂(い)う、年紀(とし)は二十一なれど、二つばかり若やぎたるが、この長火鉢のむこうに坐(すわ)れり。細面にして鼻筋通り、遠山の眉余り濃からず。生際(はえぎわ)少しあがりて、髪はやや薄(うす)けれども、色白くして口許(くちもと)緊(しま)り、上気性(のぼせしょう)と見えて唇あれたり。ほの赤き瞼(まぶた)の重げに見ゆるが、泣(なき)はらしたるとは風情異り、たとえば炬燵(こたつ)に居眠りたるが、うっとりと覚めしもののごとく涼しき眼の中(うち)曇を帯びて、見るに俤(おもかげ)晴やかならず、暗雲一帯|眉宇(びう)をかすめて、渠(かれ)は何をか物思える。
根上りに結いたる円髷(まるまげ)の鬢(びん)頬に乱れて、下〆(したじめ)ばかり帯も〆めず、田舎の夏の風俗とて、素肌に紺縮(こんちぢみ)の浴衣を纏(まと)いつ。あながち身だしなみの悪きにあらず。
教育のある婦人(おんな)にあらねど、ものの本など好みて読めば、文(ふみ)書く術(すべ)も拙(つたな)からで、はた裁縫の業(わざ)に長(た)けたり。
他の遊芸は知らずと謂う、三味線(さみせん)はその好きの道にて、時ありては爪弾(つめびき)の、忍ぶ恋路の音(ね)を立つれど、夫は学校の教授たる、職務上の遠慮ありとて、公に弾(ひ)くことを禁じたれば、留守の間を見計らい、細棹(ほそざお)の塵(ちり)を払いて、慎ましげに音〆(ねじめ)をなすのみ。
お貞は今思出したらむがごとく煙管(きせる)を取りて、覚束無(おぼつかな)げに一服吸いつ。
渠(かれ)は煙草(たばこ)を嗜(たしな)むにあらねど、憂(うき)を忘れ草というに頼りて、飲習わんとぞ務むるなる、深く吸いたれば思わず咽(む)せて、落すがごとく煙管を棄(す)て、湯呑に煎茶をうつしけるが、余り沸(たぎ)れるままその冷(さ)むるを待てり。
時に履物の音高く家(うち)に入来(いりく)るものあるにぞ、お貞は少し慌(あわた)だしく、急に其方(そなた)を見向ける時、表の戸をがたりとあけて、濡手拭(ぬれてぬぐい)をぶら提げつつ、衝(つ)と入りたる少年あり。
お貞は見るより、
「芳さんかえ。」
「奥様(おくさん)、ただいま。」
と下駄を脱ぐ。
「大層、おめかしだね。」
「ふむ。」
と笑い捨てて少年は乱暴に二階に上るを、お貞は秋波(ながしめ)もて追懸けつつ、
「芳ちゃん!」
「何?」
と顧みたり。
「まあ、ここへ来て、ちっとお話しなね。お祖母様(ばあさん)はいま昼寝をしていらっしゃるよ。騒々しいねえ。」
「そうかい。」
と下りて来て、長火鉢の前に突立(つった)ち、
「ああ、喉(のど)が渇く。」
と呟(つぶや)きながら、湯呑に冷(さま)したりし茶を見るより、無遠慮に手に取りて、
「頂戴。」
とばかりぐっと飲みぬ。
「あら! 酷(ひど)いのね、この人は。折角冷しておいたものを。」
わざと怨(えん)ずれば少年は微笑(ほほえ)みて、
「余ってるよ、奥様はけちだねえ。」
と湯呑を返せり。お貞は手に取りて中を覗(のぞ)き、
「何だ、けも残しゃアしない。」
と底の方に残りたるを、薬のように仰ぎ飲みつ。
「まあ、芳(よッ)さんお坐ンな、そうしてなぜ人を、奥様々々ッて呼ぶの、嫌なこッた。」
「だって、円髷に結ってるもの、銀杏返(いちょうがえし)の時は姉様(ねえさん)だけれど、円髷の時ゃ奥様だ。」
二
お貞はハッとせし風情にて、少年の顔を瞻(みまも)りしが、腫(はれ)ぼったき眼に思いを籠(こ)め、
「堪忍おしよ、それはもう芳さんが言わないでも、私はこの通り髪も濃くないもんだから、自分でも束ねていたいと思うがね、旦那が不可(いけない)ッて言うから仕様がないのよ。」
「だからやっぱり奥様(おくさん)じゃあないか。」
と少年は平気なり。お貞はしおれて怨(うら)めしげに、
「だって、他(ほか)の者(もん)なら可(い)いけれど、芳さんにばかりは奥様ッて謂われると、何だか他人がましいので、頼母(たのも)しくなくなるわ。せめて「お貞さん」とでも謂っておくれだと嬉しいけれど。」
とためいきして、力なげなるものいいなり。
往来より突抜けて物置の後(うしろ)の園生(そのう)まで、土間の通庭(とおりにわ)になりおりて、その半ばに飲井戸あり。井戸に推並(おしなら)びて勝手あり、横に二個(ふたつ)の竈(かまど)を並べつ。背後(うしろ)に三段ばかり棚を釣りて、ここに鍋(なべ)、釜(かま)、擂鉢(すりばち)など、勝手道具を載(の)せ置けり。廁(かわや)は井戸に列してそのあわい遠からず、しかも太(いた)く濁りたれば、漉(こ)して飲用に供しおれり。建てて数十年を経たる古家なれば、掃除は手綺麗(てぎれい)に行届きおれども、そこら煤(すす)ぼりて余りあかるからず、すべて少しく陰気にして、加賀金沢の市中にてもこのわたりは浅野川の河畔一帯の湿地(しけち)なり。
園生は、一重の垣を隔てて、畑造りたる裏町の明地(あきち)に接し、李(すもも)の木、ぐみの木、柿の木など、五六本の樹立(こだち)あり。沓脱(くつぬぎ)は大戸を明けて、直ぐその通庭なる土間の一端にありて、上り口は拭(ふ)き込みたる板敷なり。これに続ける六畳は、店と奥との中の間にて、土地の方言茶の室(ま)と呼べり。その茶の間の一方に長火鉢を据えて、背(うしろ)に竹細工の茶棚を控え、九谷焼、赤絵の茶碗、吸子(きゅうす)など、体裁よく置きならべつ。うつむけにしたる二個(ふたつ)の湯呑(ゆのみ)は、夫婦(めおと)別々の好みにて、対にあらず。
細君は名をお貞(てい)と謂(い)う、年紀(とし)は二十一なれど、二つばかり若やぎたるが、この長火鉢のむこうに坐(すわ)れり。細面にして鼻筋通り、遠山の眉余り濃からず。生際(はえぎわ)少しあがりて、髪はやや薄(うす)けれども、色白くして口許(くちもと)緊(しま)り、上気性(のぼせしょう)と見えて唇あれたり。ほの赤き瞼(まぶた)の重げに見ゆるが、泣(なき)はらしたるとは風情異り、たとえば炬燵(こたつ)に居眠りたるが、うっとりと覚めしもののごとく涼しき眼の中(うち)曇を帯びて、見るに俤(おもかげ)晴やかならず、暗雲一帯|眉宇(びう)をかすめて、渠(かれ)は何をか物思える。
根上りに結いたる円髷(まるまげ)の鬢(びん)頬に乱れて、下〆(したじめ)ばかり帯も〆めず、田舎の夏の風俗とて、素肌に紺縮(こんちぢみ)の浴衣を纏(まと)いつ。あながち身だしなみの悪きにあらず。
教育のある婦人(おんな)にあらねど、ものの本など好みて読めば、文(ふみ)書く術(すべ)も拙(つたな)からで、はた裁縫の業(わざ)に長(た)けたり。
他の遊芸は知らずと謂う、三味線(さみせん)はその好きの道にて、時ありては爪弾(つめびき)の、忍ぶ恋路の音(ね)を立つれど、夫は学校の教授たる、職務上の遠慮ありとて、公に弾(ひ)くことを禁じたれば、留守の間を見計らい、細棹(ほそざお)の塵(ちり)を払いて、慎ましげに音〆(ねじめ)をなすのみ。
お貞は今思出したらむがごとく煙管(きせる)を取りて、覚束無(おぼつかな)げに一服吸いつ。
渠(かれ)は煙草(たばこ)を嗜(たしな)むにあらねど、憂(うき)を忘れ草というに頼りて、飲習わんとぞ務むるなる、深く吸いたれば思わず咽(む)せて、落すがごとく煙管を棄(す)て、湯呑に煎茶をうつしけるが、余り沸(たぎ)れるままその冷(さ)むるを待てり。
時に履物の音高く家(うち)に入来(いりく)るものあるにぞ、お貞は少し慌(あわた)だしく、急に其方(そなた)を見向ける時、表の戸をがたりとあけて、濡手拭(ぬれてぬぐい)をぶら提げつつ、衝(つ)と入りたる少年あり。
お貞は見るより、
「芳さんかえ。」
「奥様(おくさん)、ただいま。」
と下駄を脱ぐ。
「大層、おめかしだね。」
「ふむ。」
と笑い捨てて少年は乱暴に二階に上るを、お貞は秋波(ながしめ)もて追懸けつつ、
「芳ちゃん!」
「何?」
と顧みたり。
「まあ、ここへ来て、ちっとお話しなね。お祖母様(ばあさん)はいま昼寝をしていらっしゃるよ。騒々しいねえ。」
「そうかい。」
と下りて来て、長火鉢の前に突立(つった)ち、
「ああ、喉(のど)が渇く。」
と呟(つぶや)きながら、湯呑に冷(さま)したりし茶を見るより、無遠慮に手に取りて、
「頂戴。」
とばかりぐっと飲みぬ。
「あら! 酷(ひど)いのね、この人は。折角冷しておいたものを。」
わざと怨(えん)ずれば少年は微笑(ほほえ)みて、
「余ってるよ、奥様はけちだねえ。」
と湯呑を返せり。お貞は手に取りて中を覗(のぞ)き、
「何だ、けも残しゃアしない。」
と底の方に残りたるを、薬のように仰ぎ飲みつ。
「まあ、芳(よッ)さんお坐ンな、そうしてなぜ人を、奥様々々ッて呼ぶの、嫌なこッた。」
「だって、円髷に結ってるもの、銀杏返(いちょうがえし)の時は姉様(ねえさん)だけれど、円髷の時ゃ奥様だ。」
二
お貞はハッとせし風情にて、少年の顔を瞻(みまも)りしが、腫(はれ)ぼったき眼に思いを籠(こ)め、
「堪忍おしよ、それはもう芳さんが言わないでも、私はこの通り髪も濃くないもんだから、自分でも束ねていたいと思うがね、旦那が不可(いけない)ッて言うから仕様がないのよ。」
「だからやっぱり奥様(おくさん)じゃあないか。」
と少年は平気なり。お貞はしおれて怨(うら)めしげに、
「だって、他(ほか)の者(もん)なら可(い)いけれど、芳さんにばかりは奥様ッて謂われると、何だか他人がましいので、頼母(たのも)しくなくなるわ。せめて「お貞さん」とでも謂っておくれだと嬉しいけれど。」
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