化鳥 - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )
一
愉快(おもしろ)いな、愉快いな、お天気が悪くって外へ出て遊べなくっても可(い)いや、笠(かさ)を着て、蓑(みの)を着て、雨の降るなかをびしょびしょ濡れながら、橋の上を渡って行(ゆ)くのは猪(いのしし)だ。
菅笠(すげがさ)を目深(まぶか)に被(かぶ)って、※(しぶき)に濡れまいと思って向風(むかいかぜ)に俯向(うつむ)いてるから顔も見えない、着ている蓑の裙(すそ)が引摺(ひきず)って長いから、脚も見えないで歩行(ある)いて行(ゆ)く、脊の高さは五尺ばかりあろうかな、猪、としては大(おおき)なものよ、大方猪ン中の王様があんな三角|形(なり)の冠を被(き)て、市(まち)へ出て来て、そして、私の母様(おっかさん)の橋の上を通るのであろう。
トこう思って見ていると愉快(おもしろ)い、愉快い、愉快い。
寒い日の朝、雨の降ってる時、私の小さな時分、何日(いつか)でしたっけ、窓から顔を出して見ていました。
「母様(おっかさん)、愉快(おもしろ)いものが歩行(ある)いて行(ゆ)くよ。」
その時母様は私の手袋を拵(こしら)えていて下すって、
「そうかい、何が通りました。」
「あのウ猪。」
「そう。」といって笑っていらっしゃる。
「ありゃ猪だねえ、猪の王様だねえ。
母様(おっかさん)。だって、大(おおき)いんだもの、そして三角|形(なり)の冠を被ていました。そうだけれども、王様だけれども、雨が降るからねえ、びしょぬれになって、可哀相(かわいそう)だったよ。」
母様は顔をあげて、こっちをお向きで、
「吹込みますから、お前もこっちへおいで、そんなにしていると、衣服(きもの)が濡れますよ。」
「戸を閉めよう、母様、ね、ここん処(とこ)の。」
「いいえ、そうしてあけておかないと、お客様が通っても橋銭を置いて行ってくれません。ずるいからね、引籠(ひっこも)って誰も見ていないと、そそくさ通抜けてしまいますもの。」
私はその時分は何にも知らないでいたけれども、母様(おっかさん)と二人ぐらしは、この橋銭で立って行ったので、一人(ひとり)前いくらかずつ取って渡しました。
橋のあったのは、市(まち)を少し離れた処で、堤防(どて)に松の木が並んで植(うわ)っていて、橋の袂(たもと)に榎(えのき)が一本、時雨榎(しぐれえのき)とかいうのであった。
この榎の下に、箱のような、小さな、番小屋を建てて、そこに母様と二人で住んでいたので、橋は粗造な、まるで、間に合せといったような拵え方、杭(くい)の上へ板を渡して竹を欄干にしたばかりのもので、それでも五人や十人ぐらい一時(いっとき)に渡ったからッて、少し揺れはしようけれど、折れて落ちるような憂慮(きづかい)はないのであった。
ちょうど市(まち)の場末に住んでる日傭取(ひようとり)、土方、人足、それから、三味線(さみせん)を弾いたり、太鼓を鳴(なら)して飴(あめ)を売ったりする者、越後獅子(えちごじし)やら、猿廻(さるまわし)やら、附木(つけぎ)を売る者だの、唄を謡うものだの、元結(もっとい)よりだの、早附木の箱を内職にするものなんぞが、目貫(めぬき)の市(まち)へ出て行(ゆ)く往帰(ゆきかえ)りには、是非|母様(おっかさん)の橋を通らなければならないので、百人と二百人ずつ朝晩|賑(にぎや)かな人通りがある。
それからまた向うから渡って来て、この橋を越して場末の穢(きたな)い町を通り過ぎると、野原へ出る。そこン処(とこ)は梅林で、上の山が桜の名所で、その下に桃谷というのがあって、谷間(たにあい)の小流(こながれ)には、菖蒲(あやめ)、燕子花(かきつばた)が一杯咲く。頬白(ほおじろ)、山雀(やまがら)、雲雀(ひばり)などが、ばらばらになって唄っているから、綺麗(きれい)な着物を着た間屋の女(むすめ)だの、金満家(かねもち)の隠居だの、瓢(ひさご)を腰へ提げたり、花の枝をかついだりして千鳥足で通るのがある。それは春のことで。夏になると納涼(すずみ)だといって人が出る。秋は蕈狩(たけがり)に出懸けて来る、遊山(ゆさん)をするのが、皆(みんな)内の橋を通らねばならない。
この間も誰かと二三人づれで、学校のお師匠さんが、内の前を通って、私の顔を見たから、丁寧にお辞儀をすると、おや、といったきりで、橋銭を置かないで行ってしまった。
「ねえ、母様(おっかさん)、先生もずるい人なんかねえ。」
と窓から顔を引込(ひっこ)ませた。
二
「お心易立(こころやすだて)なんでしょう、でもずるいんだよ。よっぽどそういおうかと思ったけれど、先生だというから、また、そんなことで悪く取って、お前が憎まれでもしちゃなるまいと思って、黙っていました。」
といいいい母様(おっかさん)は縫っていらっしゃる。
お膝の上に落ちていた、一ツの方の手袋の、恰好(かっこう)が出来たのを、私は手に取って、掌(てのひら)にあててみたり、甲の上へ乗ッけてみたり、
「母様(おっかさん)、先生はね、それでなくっても僕のことを可愛がっちゃあ下さらないの。」
と訴えるようにいいました。
こういった時に、学校で何だか知らないけれど、私がものをいっても、快く返事をおしでなかったり、拗(す)ねたような、けんどんなような、おもしろくない言(ことば)をおかけであるのを、いつでも情(なさけ)ないと思い思いしていたのを考え出して、少し鬱(ふさ)いで来て俯向(うつむ)いた。
「なぜさ。」
何、そういう様子の見えるのは、つい四五日前からで、その前(さき)にはちっともこんなことはありはしなかった。帰って母様(おっかさん)にそういって、なぜだか聞いてみようと思ったんだ。
けれど、番小屋へ入ると直(すぐ)飛出して遊んであるいて、帰ると、御飯を食べて、そしちゃあ横になって、母様の気高い美しい、頼母(たのも)しい、穏当な、そして少し痩(や)せておいでの、髪を束ねてしっとりしていらっしゃる顔を見て、何か談話(はなし)をしいしい、ぱっちりと眼をあいてるつもりなのが、いつか、そのまんまで寝てしまって、眼がさめると、また直(すぐ)支度を済(すま)して、学校へ行(ゆ)くんだもの。そんなこといってる隙(ひま)がなかったのが、雨で閉籠(とじこも)って、淋しいので思い出した、ついでだから聞いたので。
「なぜだって、何なの、この間ねえ、先生が修身のお談話(はなし)をしてね、人は何だから、世の中に一番えらいものだって、そういつたの。母様(おっかさん)、違ってるわねえ。」
「むむ。」
「ねッ違ってるワ、母様。」
と揉(もみ)くちゃにしたので、吃驚(びっくり)して、ぴったり手をついて畳の上で、手袋をのした。横に皺(しわ)が寄ったから、引張(ひっぱ)って、
「だから僕、そういったんだ、いいえ、あの、先生、そうではないの。人も、猫も、犬も、それから熊も、皆(みんな)おんなじ動物(けだもの)だって。」
「何とおっしゃったね。」
「馬鹿なことをおっしゃいって。
トこう思って見ていると愉快(おもしろ)い、愉快い、愉快い。
寒い日の朝、雨の降ってる時、私の小さな時分、何日(いつか)でしたっけ、窓から顔を出して見ていました。
「母様(おっかさん)、愉快(おもしろ)いものが歩行(ある)いて行(ゆ)くよ。」
その時母様は私の手袋を拵(こしら)えていて下すって、
「そうかい、何が通りました。」
「あのウ猪。」
「そう。」といって笑っていらっしゃる。
「ありゃ猪だねえ、猪の王様だねえ。
母様(おっかさん)。だって、大(おおき)いんだもの、そして三角|形(なり)の冠を被ていました。そうだけれども、王様だけれども、雨が降るからねえ、びしょぬれになって、可哀相(かわいそう)だったよ。」
母様は顔をあげて、こっちをお向きで、
「吹込みますから、お前もこっちへおいで、そんなにしていると、衣服(きもの)が濡れますよ。」
「戸を閉めよう、母様、ね、ここん処(とこ)の。」
「いいえ、そうしてあけておかないと、お客様が通っても橋銭を置いて行ってくれません。ずるいからね、引籠(ひっこも)って誰も見ていないと、そそくさ通抜けてしまいますもの。」
私はその時分は何にも知らないでいたけれども、母様(おっかさん)と二人ぐらしは、この橋銭で立って行ったので、一人(ひとり)前いくらかずつ取って渡しました。
橋のあったのは、市(まち)を少し離れた処で、堤防(どて)に松の木が並んで植(うわ)っていて、橋の袂(たもと)に榎(えのき)が一本、時雨榎(しぐれえのき)とかいうのであった。
この榎の下に、箱のような、小さな、番小屋を建てて、そこに母様と二人で住んでいたので、橋は粗造な、まるで、間に合せといったような拵え方、杭(くい)の上へ板を渡して竹を欄干にしたばかりのもので、それでも五人や十人ぐらい一時(いっとき)に渡ったからッて、少し揺れはしようけれど、折れて落ちるような憂慮(きづかい)はないのであった。
ちょうど市(まち)の場末に住んでる日傭取(ひようとり)、土方、人足、それから、三味線(さみせん)を弾いたり、太鼓を鳴(なら)して飴(あめ)を売ったりする者、越後獅子(えちごじし)やら、猿廻(さるまわし)やら、附木(つけぎ)を売る者だの、唄を謡うものだの、元結(もっとい)よりだの、早附木の箱を内職にするものなんぞが、目貫(めぬき)の市(まち)へ出て行(ゆ)く往帰(ゆきかえ)りには、是非|母様(おっかさん)の橋を通らなければならないので、百人と二百人ずつ朝晩|賑(にぎや)かな人通りがある。
それからまた向うから渡って来て、この橋を越して場末の穢(きたな)い町を通り過ぎると、野原へ出る。そこン処(とこ)は梅林で、上の山が桜の名所で、その下に桃谷というのがあって、谷間(たにあい)の小流(こながれ)には、菖蒲(あやめ)、燕子花(かきつばた)が一杯咲く。頬白(ほおじろ)、山雀(やまがら)、雲雀(ひばり)などが、ばらばらになって唄っているから、綺麗(きれい)な着物を着た間屋の女(むすめ)だの、金満家(かねもち)の隠居だの、瓢(ひさご)を腰へ提げたり、花の枝をかついだりして千鳥足で通るのがある。それは春のことで。夏になると納涼(すずみ)だといって人が出る。秋は蕈狩(たけがり)に出懸けて来る、遊山(ゆさん)をするのが、皆(みんな)内の橋を通らねばならない。
この間も誰かと二三人づれで、学校のお師匠さんが、内の前を通って、私の顔を見たから、丁寧にお辞儀をすると、おや、といったきりで、橋銭を置かないで行ってしまった。
「ねえ、母様(おっかさん)、先生もずるい人なんかねえ。」
と窓から顔を引込(ひっこ)ませた。
二
「お心易立(こころやすだて)なんでしょう、でもずるいんだよ。よっぽどそういおうかと思ったけれど、先生だというから、また、そんなことで悪く取って、お前が憎まれでもしちゃなるまいと思って、黙っていました。」
といいいい母様(おっかさん)は縫っていらっしゃる。
お膝の上に落ちていた、一ツの方の手袋の、恰好(かっこう)が出来たのを、私は手に取って、掌(てのひら)にあててみたり、甲の上へ乗ッけてみたり、
「母様(おっかさん)、先生はね、それでなくっても僕のことを可愛がっちゃあ下さらないの。」
と訴えるようにいいました。
こういった時に、学校で何だか知らないけれど、私がものをいっても、快く返事をおしでなかったり、拗(す)ねたような、けんどんなような、おもしろくない言(ことば)をおかけであるのを、いつでも情(なさけ)ないと思い思いしていたのを考え出して、少し鬱(ふさ)いで来て俯向(うつむ)いた。
「なぜさ。」
何、そういう様子の見えるのは、つい四五日前からで、その前(さき)にはちっともこんなことはありはしなかった。帰って母様(おっかさん)にそういって、なぜだか聞いてみようと思ったんだ。
けれど、番小屋へ入ると直(すぐ)飛出して遊んであるいて、帰ると、御飯を食べて、そしちゃあ横になって、母様の気高い美しい、頼母(たのも)しい、穏当な、そして少し痩(や)せておいでの、髪を束ねてしっとりしていらっしゃる顔を見て、何か談話(はなし)をしいしい、ぱっちりと眼をあいてるつもりなのが、いつか、そのまんまで寝てしまって、眼がさめると、また直(すぐ)支度を済(すま)して、学校へ行(ゆ)くんだもの。そんなこといってる隙(ひま)がなかったのが、雨で閉籠(とじこも)って、淋しいので思い出した、ついでだから聞いたので。
「なぜだって、何なの、この間ねえ、先生が修身のお談話(はなし)をしてね、人は何だから、世の中に一番えらいものだって、そういつたの。母様(おっかさん)、違ってるわねえ。」
「むむ。」
「ねッ違ってるワ、母様。」
と揉(もみ)くちゃにしたので、吃驚(びっくり)して、ぴったり手をついて畳の上で、手袋をのした。横に皺(しわ)が寄ったから、引張(ひっぱ)って、
「だから僕、そういったんだ、いいえ、あの、先生、そうではないの。人も、猫も、犬も、それから熊も、皆(みんな)おんなじ動物(けだもの)だって。」
「何とおっしゃったね。」
「馬鹿なことをおっしゃいって。
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