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十姉妹 - 山本 勝治 ( やまもと かつじ )

  • 古書≪森鴎外集≫7 青年、舞姫他 【 森鴎外】河出書房 貴重 初版
  • 「森鴎外私論」吉野俊彦 森鴎外評論-批評-書籍・10冊 N21681
  • 岩波文庫1675昭和41年/阿部一族他二編森鴎外 岩波書店
  • 600円~ 岩波文庫【青年】森鴎外 (プチソフト1)
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・山椒大夫  他四篇」(旺文社文庫)◇◆
  • ◆◇ 森鴎外著「青年」(新潮文庫) ◇◆  名著! 
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・うたかたの記  他三篇」(岩波文庫)◇◆
  • ◆新品DVD★『NHK 名作の風景 8』森鴎外 正岡子規 夏目漱石1円
  • 森鴎外 高瀬舟・高瀬舟縁起・寒山捨得・寒山捨得縁起 CD 未開封
  • 森鴎外 舞姫 雁 井上靖 訳編 明治の古典8 初版
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 田面には地図の様な線条が縦横に走って、旱(ひでり)の空は雨乞の松火(たいまつ)に却って灼かれたかの様に、あくまでも輝やき渡った。情けないほどのせせらぎにさえ仕掛けた水車を踏む百姓足取りは、疲れた車夫の様に力が無く、裸の脊を流れる汗は夥しく増えた埃りに塗(まみ)れて灰汁(あく)の様だった。
 そして、小作争議事務所に当てたS寺の一室は日増しに緊張して行った。

「おい、遂々(とうとう)、彼奴等、白東会を雇いやがったぜ」引裂く様に障子を開けて入ってきた藤本は、一座を睨み廻して報告すると、新たに現われた敵を眼前に挑む様に唇を噛んだ。居合わせた者は一様に肩を揺すり眼を据えた。
知ってるやろ、この県の白東会の支部長云うたら、ほら、この間町でコーヒ呑んだやろ、あの時隅に坐って俺達をにらんでいた紋付羽織着てた奴、彼奴だよ、永い間東京をうろついていた、そら、町の前川新聞取次店息子や……」
「ああ、胸毛の生えた、柔道二段とか云う、心臓の強そうな……」と誰かが訊くと、藤本はグッと首肯(うなず)いて胸を張った。
「そうや、あれで江戸仕込みの壮士やそうな、どうせ、腕力と心臓の強いだけが取柄の男さ、けど、注意せんと彼奴等の唯一の戦術である『切り込み』があるか知れんぜ、地主からだいぶ金も出てる様子やから……」
 藤本の歪めた唇には、激げしい敵愾心が、冷めたい微笑となって漂っていた。同じ想像と期待に、一座の顔は潮の引く様にすっと蒼ざめて、誰れもが深い溜息をついた。
 慎作は、勿論この報告に衝撃を受けた。が、その衝撃が、忽ち火に落ちた錫箔の様に崩折れて、燃えあがるべき反抗心が、雑草を揺がす一戦(ひとそよ)ぎの風ほどの力しかないのを如何(どう)することも出来なかった。一寸ひるがえった心が、直ぐと暗い懐疑と姑息内省に重くよどんでしまった。慎作は、新らしく刺戟されて炎の様に闘志を沸き立たせて居る同志の前に、深く自分を恥じた。同時に、この心の秘密を持ちつつ、同志と共に嘆き共に憤っているかのように装っている自分に、たまらない憎悪を感ぜずにはいられなかった。やっぱり俺は駄目だ。この刺戟に於てさえ、自分の心は豚の様に無感動だ、俺はいよいよ戦列の落伍者だ。何時、何処で、どうして、あれほどまでに燃えあがっていた意識が、常夜燈の様に消えることのないと信じ切っていた反抗の火が、かくまで力弱くされたか自分ながら不可解だった。いや、諸々の原因数えあげることは出来たが、その諸々の原因そのものが本来なれば胸の火をより燃え熾(さ)からしむべき薪である筈だった。この新らしい薪であるべき事柄が、何時の間にか石綿の様に燃えなくなった以上に、却って自分を卑怯にする鞭の役目を努めるとは、前線に立つ者にとって致命傷だと思った。だが、この理智に頓着なく慎作の心は懐疑に燻って羊の様に繊弱なものになる一方であった。理智と思想に於てはまだ、決して曇っていないと確信しているだけに、この脆弱感情の泥沼から匍いあがろうとする焦燥は一倍強かったが、次々と周囲に起る事柄が反抗を薄めて、不可抗力に裾をかまれた様に動きがとれないのだった。
 そうだ。第一に暗い一家の現在が、慎作をひしぐ力の最大なものに違いはなかった。
 前年からの借金が抜けない上に、養蚕不成功に次ぐこの大旱だった。家産を傾むけた正直一途というものよりほかに、何の才能も持合わせない父は、目前の仕事を唯がむしゃらにするより思案が無かった。日向追っかけ廻る様になっても、まだ維新当時、区長という大役の下命された名誉を、晩酌の酔と共に吹聴することを忘れない祖父は、去年の春、祖父そっくりの頑固者だった兄が死ぬと共に、飾るべき何物もなく、只、ストーヴのように温かい資本家を憎む思想感情とを土産に、顔を蒼くし髪を長くして帰郷するやいなや、農民運動に寧日ない慎作を目の敵にして、事々に小姑の様な執拗さで盾付いた。母は洗濯とボロ綴り総て時間消費し、妹の絹は、あどけなさと快活な足音とを何処かで失くした様な佗しい小娘だった。
 催促のはげしい負債返還の日が近づいても、一年衣類代と肥料代に当てるべき養蚕上り高さ予想外に少くない現在如何にし様もない事は、碌々稼ぎを手伝えない慎作には身に沁みて分かっていた。仙人の様にしなびた脛を、一種超然たるあぐらに組んだ祖父は、落着き過ぎた下半身とは反対に、顔を無闇にガクンガクンさせて、切抜け様もない窮迫を、慎作と父のせいの様にして怒鳴り立てた。
「ほんまに如何する気や、お前等|呑気(のんき)そうに黙ってくさるが、今度こそわしにも見当はつかんぞ、おい慎作、お前の……その何や、新らしいとか云う頭で考えついたこと云うてみい。ヘン、こんな世帯智恵は出まへんがな、直造かて、足しにもならん水換えばかり能やないぜ、何んとか法見付けたらどうやね」
 七十八にしてはまだ弾力のある声だった。父は眼を眇(すが)める様にしてチラと慎作を一瞥しただけで黙っていた。皆の無視的な態度祖父の尖がった肩を余計に厳めしくした。
組合やたら、何やたら、碌でもないことばっかり仕腐って、ええ若い者が何の様や、一ペンでもええから、絹に一枚の木綿物位、買うてやってみい、罰は当たらんぞォ」
 だが、慎作は祖父毒舌には別に反感も覚えなかった。無理にいからした肩も尖先の様にとがり、憎まれ口も歯のない唇にもつれるのを見ると、寧ろ哀憐が先に立った。祖父と違って父は、組合運動のため蕩児の様に家を明ける慎作を責めなかった。時々開催する演説会等にも、祖父だと「文章規範も碌に読めンそこいらの青二才の話し見たいな、ヘッ、あほらしゅて聞けまへんわい!」と鼻先で嗤(わら)って、てんで問題にもしなかったが、父は、暇の許す限り出席した。慎作が昂奮して卓を叩き拍手の前に一寸見得切る時等、見ると、大抵父も遠慮勝ではあったがパンパンと手を叩いて、少なからず得意気であった。それは慎作の演説共鳴すると云うよりは、何んでもよい自分息子が人前で拍手されることを祝福する、愚かな親心の飾らない現われであるらしかった。慎作はそれをくすぐったく思ったが、併しこの父のたとえ子煩悩からの支持にしても、家の中では古い豪傑の様に威張り返って居る祖父手前甚だ心強くもあった。必然、父は板ばさみになった。そこへ母は、父に譲らない引込思案の女だった。祖父が、「体あたり」式な論法で糞味噌に慎作をやっつけ、ひいては、それを黙視する父自身にまで鋭鋒を向けてくると、流石(さすが)に父も、昔の思想習慣に引戻されて父親としての責任も考え出す様ではあったが、それでも、丁度赤穂浪士の様に苦難して百姓達の幸福の為めに闘うのだと勇んで走り廻って居る慎作の、固い決心の様を見ては、どうしても口に出しては攻撃しかねる様だった。それに慎作の演説会場に於ける一種の勇姿も、鳥渡(ちょっと)捨てかねる風でもあった。兎も角、父と母との思惑は水銀の様に動き易く難かしく言わば「対立」するところの祖父と慎作との間を、振子の様に行ったり来たりした。

 ある日だった。
 慎作は帰宅するとすぐ祖父に掴まって、宣告的に言い渡された。
「おい、お前は反対やそうなが、こうなったら背に腹は換えられんさかい、どうせ、肥代にも足らん金や、繭の金で小鳥飼おうと思うのや、今、流行ってる十姉妹(じゅうしまつ)な、あれに定(き)めたんや」
 慎作は、吐胸をつかれて言葉が無かった。愈々来た……ある決定的な問題が、突然、目前一杯に立はだかった様な気がした。

 民衆への救いででもあるのか、或は悪魔の手弄(てなぐさ)みか、実際この十姉妹流行は、一時天下を風靡した万年青(おもと)と同じく、不可解な魅力を以って、四国を発端にして中国近畿、殊に慎作の故郷附近には感冒よりも凄じい伝染力をふるった。この小鳥は、安易な世話と僅少な食餌代とで六十日目毎に幾つかの雛鳥を巧みに巣立させた。


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