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半七捕物帳 06 半鐘の怪 - 岡本 綺堂 ( おかもと きどう )

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半七捕物帳 半鐘の怪      一  半七老人を久し振りでたずねたのは、十一月はじめの時雨(しぐ)れかかった日であった。老人四谷の初酉(はつとり)へ行ったと云って、かんざしほどの小さい熊手(くまで)を持って丁度いま帰って来たところであった。
「ひと足ちがいで失礼するところでした。さあ、どうぞ」
 老人はその熊手神棚にうやうやしく飾って、それからいつもの六畳の座敷へわたしを通した。酉の市(まち)の今昔談が一と通り済んで、時節柄だけに火事のはなしが出た。自分職業に幾らか関係があったせいであろうが、老人江戸の火事の話をよく知っていた。放火はもちろん重罪であるが、火事場どろぼうも昔は死罪であったなどと云った。そのうちに、老人笑いながらこんなことを語りだした。
「いや、世の中には案外なことがあるもんでしてね。これは少し差し合いがありますから、町内の名は申されませんが、やっぱり下町(したまち)のことで、いつかお話をしたお化け師匠の家(うち)のあんまり遠くないところだと思ってください。そこに変なことが出来(しゅったい)したんで、一時は大騒ぎをしましたよ」
 神田明神祭りもすんで、もう朝晩は袷(あわせ)でも薄ら寒い日がつづいた。うす暗い焼芋屋の店さきに、八里半と筆太(ふでぶと)にかいた行燈の灯がぼんやりと点(とも)されるようになると、湯屋白い煙りが今更のように眼について、火事早い江戸に住む人々の魂をおびえさせる秋の風が秩父の方からだんだんに吹きおろして来た。その九月の末から十月の初めにかけて、町内の半鐘がときどき鳴った。
「そら、火事だ」
 あわてて駈け出した人々は、どこにも煙りの見えないのに呆れた。そういうことがひと晩のうちに一度二度、時によると三、四度もつづいて、一つばんもある。二つばんもある。近火の摺りばんを滅多打ちにじゃんじゃんと打ち立てることもある。町内ばかりでなく、その半鐘の音がそれからそれへと警報を伝えて、隣り町(ちょう)でもあわてて半鐘を撞く。火消しはあてもなしに駈けあつまる。それは湯屋の煙りすらも絶えている真夜中のことで、なにを見誤ったのかちっとも要領を得ないで引き揚げることもある。しまいには人も馴れてしまって、誰かが悪戯(いたずら)をするに相違ないと決まったが、ほかの事とは違うので、そのいたずら者の詮議が厳重になった。
 仔細もなしに半鐘をつき立てて公方(くぼう)様の御膝元をさわがす――その罪の重いのは云うまでもない。第一に迷惑したのは、その町内の自身番に詰めている者共であった。
「自身番というのは今の派出所を大きくしたようなものです」と、半七老人説明してくれた。
「各町内に一個所ずつあって、屋敷町にあるのは武家持ちで辻番といい、商人町(あきんどまち)にあるのは町人持ちで自身番というんです。俗に番屋とも云います。むかしは地主が自身に詰めたので自身番と云ったんだそうですが、後にはそれが一つの株になって、自身番の親方というのがそれを預かって、ほかに店番の男が二、三人ぐらい詰めていました。大きい自身番には、五、六人も控えているのがありました。その頃の火の見梯子は、自身番の屋根の上に付いていて、火事があると店の男が半鐘を撞くか、または町内の番太郎が撞くことになっていました。それですから半鐘になにかの間違いがあれば、さしずめ自身番のものが責任を帯びなければならないのです。今お話し申すのは小さい自身番で、親方が佐兵衛、ほかに手下定番(じょうばん)が二人詰めているだけでした」
 佐兵衛はもう五十ぐらいの独身者(ひとりもの)で、冬になるといつも疝気に悩んでいる男であった。ほかの二人は伝七と長作と云って、これも四十を越した独身者であった。この三人は当の責任者であるだけに、町(ちょう)役人からも厳し叱られて、毎晩交代で火の見梯子を見張っていることになった。彼等が夜通し厳重に見張っているあいだは別になんの変ったこともなかったが、少し油断して横着をきめると、半鐘はあたかもかれらの懶惰(らんだ)を戒めるように、おのずからじゃんじゃん鳴り出した。町役人立合い検査したが、半鐘にはなんの異状もなかった。その自然に鳴り出すのは夜に限られていた。
 不思議を信ずることの多いこの時代人達にも、まさか半鐘自然に鳴り出そうとは思えなかった。殊に人が見張っているあいだは決して鳴らないのに因(よ)っても、それが何者かの悪戯(いたずら)であることは誰にも想像された。おいおいに冬空に近づいて、火というものに対する恐れが強くなって来たのに付け込んで、何者かが人を嚇すつもりでこんな悪戯をするに相違ないと思った。しかもそのいたずら者が発見されないので、諸人の心は落ち着かなかった。たとい人間悪戯にしても、こんな事が毎晩つづくのは、やがてほんとうの大火を喚び起す前兆ではないかとも危ぶまれた。気の早いものは荷ごしらえをして、いつでも立ち退くことができるように用心しているものもあった。老人を遠方の親類にあずけるものもあった。藁一本を炙(く)べた煙りもこの町内の人々の眼に鋭く泌みて、かれの尖った神経は若い蘆の葉のようにふるえ勝ちであった。もうこうなっては、自身番や番太郎耄碌(もうろく)おやじを頼りにしていることは出来なくなったので、仕事師は勿論、町内の若いものも殆ど総出で、毎晩この火の見梯子中心にして一町内を警戒することになった。
 いたずら者もこの物々しい警戒に恐れたらしく、それから五、六日は半鐘の音を立てなかった。十月お会式(えしき)の頃から寒い雨がびしょびしょ降りつづいた。この頃は半鐘の音がしばらく絶えたのと、雨が毎日降るのとに油断して、町内の警戒もおのずとゆるむと、あたかもそれを待っていたように、不意の禍がひとりの女の頭の上に落ちかかって来た。
 女は町内の路地のなかに住んでいるお北という若い女で、以前は柳橋で芸奴を勤めていたのを、日本橋辺のある大店(おおだな)の番頭に引かされて、今ではここに小ぢんまりした妾宅を構えているのであった。その日は昼間から旦那が来て五ツ頃(午後八時)に帰ったので、お北はそれから近所の銭湯へ行った。


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