半七捕物帳 23 鬼娘 - 岡本 綺堂 ( おかもと きどう )
半七捕物帳
鬼娘
一
「いつかは弁天娘のお話をしましたから、きょうは鬼むすめのお話をしましょうか」と、半七老人は云った。
馬道(うまみち)の庄太という子分が神田三河町の半七の家へ駈け込んで来たのは、文久元年七月二十日の朝であった。
「お早うございます」
「やあ、お早う」と、裏庭の縁側で朝顔の鉢をながめていた半七は見かえった。「たいへん早いな、めずらしいぜ」
「なに、この頃はいつも早いのさ」
「そうでもあるめえ。朝顔の盛りは御存じねえ方だろう。だが、朝顔ももういけねえ、この通り蔓(つる)が伸びてしまった」
「そうですねえ」と、庄太は首をのばして覗(のぞ)いた。「時に親分。すこし耳を貸して貰いてえことがあるんですよ。わっしの近所にどうも変なことが流行り出してね」
「なにが流行る、麻疹(はしか)じゃあるめえ」
「そんなことじゃあねえので……」と、庄太はまじめにささやいた。「実はわっしの隣りの家のお作という娘がゆうべ死んでね」
「どんな娘で、いくつになる」
「子供のような顔をしていたが、もう十九か二十歳(はたち)でしょうよ。まあ、ちょいと渋皮の剥(む)けたほうでね」
それが普通の死でないことは半七にもすぐに覚られた。かれはすぐに起ちあがって、茶の間へ庄太を連れ込んだ。
「そこで、その娘がどうした。殺されたか」
「殺されたには相違ねえんだが……。そいつが啖(く)い殺されたんですよ」
「化け猫にか」と、半七は笑った。「いや、冗談じゃあねえ。ほんとうに啖い殺されたのか」
「ほんとうですよ。なにしろわっしの隣りですからね。こればかりは間違い無しです」
庄太の報告はこうであった。
今から半月ほどまえの宵に、馬道(うまみち)の鼻緒屋の娘で、ことし十六になるお捨(すて)というのが近所まで買物に出ると、白地の手拭をかぶって、白地の浴衣を着た若い女が、往来で彼女とすれ違いながら、もしもしと声をかけた。なに心なく振りかえると、その女はうす暗いなかで薄気味のわるい顔をしてにやにやと笑った。年のわかいお捨は俄かにおそろしくなって、返事もしないで一生懸命に逃げ出した。勿論それぎりの話で、その若い女はまさかに幽霊や化け物でもあるまい、おそらく気ちがいであろうという噂であった。
それから又五、六日経つと、更におそろしい出来事が起った。やはり同じ町内の酒屋の下女で、今年二十一になるお伝というのが、裏手の物置へ何か取り出しにゆくと、やがてきゃっという声をあげて倒れた。その悲鳴を聞きつけて、内から大勢が駈け出してみたが、薄暗い灯ともし頃で、そこらに物の影もみえなかった。お伝は何者にか喉笛を啖(く)い切られて死んでいた。それだけでもすでに怖ろしい出来事であるのに、それにもう一つの怪しい噂が付け加えられて、更に近所の人々をおびやかしたのである。
それはこの晩、かの鼻緒屋のお捨(すて)を嚇(おど)したという怪しい娘によく似た女が、あたかもそれと同じ時刻に酒屋の裏口を覗いていたのを見た者があるというのであった。前後ともに暗い時刻であるので、よくその正体を見とどけることは出来なかったが、前の女も後の女もおなじく白地の手拭をかぶって、白地の浴衣を着ていて、どうも同じ人間であるらしいと思われた。そうして、その怪しい女とお伝の死と、そのあいだにも何かの関係があるらしく思われて来た。鼻緒屋の娘は運よく逃(のが)れたが、酒屋の下女は運わるく啖い殺されたのではあるまいか。こういう風に二つの事件をむすび付けて解釈すると、かれは一種のおそろしい鬼女であるかも知れない。鬼婆で名高い浅茅(あさじ)ヶ原に近いだけに、鬼娘の噂がそれからそれへと仰々(ぎょうぎょう)しく伝えられて、残暑の強いこの頃でも、気の弱い娘子供は日が暮れると門涼(かどすず)みに出るのを恐れるようになった。
それでも鬼女の奇怪な事実はまだ一般には信じられなかった。ある人々はそれを臆病者の噂と聞き流して、いわゆる高箒(たかぼうき)を鬼と見るたぐいに過ぎないと冷笑(あざわら)っていた。しかもそれから又|十日(とおか)と経たないうちに、強い人々もいよいよ臆病者の仲間入りをしなければならないような事件が重ねて出来(しゅったい)した。鬼娘が又もや一人の女を屠(ほふ)ったのである。それは山(やま)の宿(しゅく)の小間物屋の女房で、かれは誰も知らない間に、裏の井戸端で啖い殺されていた。勿論それも同じ鬼娘の仕業(しわざ)であることに決められてしまった。
諸人の不安がだんだん募って来た時、鬼娘は更に第三の生贄(いけにえ)を求めた。それは庄太のとなりに住んでいるお作という娘であった。庄太の家はかの酒屋から遠くない露路のなかで、そこには裏店(うらだな)としてやや小綺麗な五軒の小さい格子作りがならんでいた。庄太の家は露路の口から四軒目で、隣りの長屋にお作という娘が母のお伊勢と二人で暮らしていた。その奥は空地になっていて、そこには大きい掃溜(はきだ)めがあった。昔から栽(う)えてある大きい桜が一本立っていた。お作は浅草の奥山の茶店に出ているが、そのほかに内々で旦那取りをしているとかいうので、近所の評判は余りよくなかった。そんな噂もあるだけに、母子(おやこ)はいつも身綺麗にして、不足もないらしく暮らしていた。隣り同士でもあり、殊に庄太の商売を知っているので、お作親子はふだんから愛想よく彼に附き合って、いろいろの物をくれたりした。
お作が啖い殺されたのは、ゆうべの六ツ半(午後七時)を過ぎた頃であった。
「お早うございます」
「やあ、お早う」と、裏庭の縁側で朝顔の鉢をながめていた半七は見かえった。「たいへん早いな、めずらしいぜ」
「なに、この頃はいつも早いのさ」
「そうでもあるめえ。朝顔の盛りは御存じねえ方だろう。だが、朝顔ももういけねえ、この通り蔓(つる)が伸びてしまった」
「そうですねえ」と、庄太は首をのばして覗(のぞ)いた。「時に親分。すこし耳を貸して貰いてえことがあるんですよ。わっしの近所にどうも変なことが流行り出してね」
「なにが流行る、麻疹(はしか)じゃあるめえ」
「そんなことじゃあねえので……」と、庄太はまじめにささやいた。「実はわっしの隣りの家のお作という娘がゆうべ死んでね」
「どんな娘で、いくつになる」
「子供のような顔をしていたが、もう十九か二十歳(はたち)でしょうよ。まあ、ちょいと渋皮の剥(む)けたほうでね」
それが普通の死でないことは半七にもすぐに覚られた。かれはすぐに起ちあがって、茶の間へ庄太を連れ込んだ。
「そこで、その娘がどうした。殺されたか」
「殺されたには相違ねえんだが……。そいつが啖(く)い殺されたんですよ」
「化け猫にか」と、半七は笑った。「いや、冗談じゃあねえ。ほんとうに啖い殺されたのか」
「ほんとうですよ。なにしろわっしの隣りですからね。こればかりは間違い無しです」
庄太の報告はこうであった。
今から半月ほどまえの宵に、馬道(うまみち)の鼻緒屋の娘で、ことし十六になるお捨(すて)というのが近所まで買物に出ると、白地の手拭をかぶって、白地の浴衣を着た若い女が、往来で彼女とすれ違いながら、もしもしと声をかけた。なに心なく振りかえると、その女はうす暗いなかで薄気味のわるい顔をしてにやにやと笑った。年のわかいお捨は俄かにおそろしくなって、返事もしないで一生懸命に逃げ出した。勿論それぎりの話で、その若い女はまさかに幽霊や化け物でもあるまい、おそらく気ちがいであろうという噂であった。
それから又五、六日経つと、更におそろしい出来事が起った。やはり同じ町内の酒屋の下女で、今年二十一になるお伝というのが、裏手の物置へ何か取り出しにゆくと、やがてきゃっという声をあげて倒れた。その悲鳴を聞きつけて、内から大勢が駈け出してみたが、薄暗い灯ともし頃で、そこらに物の影もみえなかった。お伝は何者にか喉笛を啖(く)い切られて死んでいた。それだけでもすでに怖ろしい出来事であるのに、それにもう一つの怪しい噂が付け加えられて、更に近所の人々をおびやかしたのである。
それはこの晩、かの鼻緒屋のお捨(すて)を嚇(おど)したという怪しい娘によく似た女が、あたかもそれと同じ時刻に酒屋の裏口を覗いていたのを見た者があるというのであった。前後ともに暗い時刻であるので、よくその正体を見とどけることは出来なかったが、前の女も後の女もおなじく白地の手拭をかぶって、白地の浴衣を着ていて、どうも同じ人間であるらしいと思われた。そうして、その怪しい女とお伝の死と、そのあいだにも何かの関係があるらしく思われて来た。鼻緒屋の娘は運よく逃(のが)れたが、酒屋の下女は運わるく啖い殺されたのではあるまいか。こういう風に二つの事件をむすび付けて解釈すると、かれは一種のおそろしい鬼女であるかも知れない。鬼婆で名高い浅茅(あさじ)ヶ原に近いだけに、鬼娘の噂がそれからそれへと仰々(ぎょうぎょう)しく伝えられて、残暑の強いこの頃でも、気の弱い娘子供は日が暮れると門涼(かどすず)みに出るのを恐れるようになった。
それでも鬼女の奇怪な事実はまだ一般には信じられなかった。ある人々はそれを臆病者の噂と聞き流して、いわゆる高箒(たかぼうき)を鬼と見るたぐいに過ぎないと冷笑(あざわら)っていた。しかもそれから又|十日(とおか)と経たないうちに、強い人々もいよいよ臆病者の仲間入りをしなければならないような事件が重ねて出来(しゅったい)した。鬼娘が又もや一人の女を屠(ほふ)ったのである。それは山(やま)の宿(しゅく)の小間物屋の女房で、かれは誰も知らない間に、裏の井戸端で啖い殺されていた。勿論それも同じ鬼娘の仕業(しわざ)であることに決められてしまった。
諸人の不安がだんだん募って来た時、鬼娘は更に第三の生贄(いけにえ)を求めた。それは庄太のとなりに住んでいるお作という娘であった。庄太の家はかの酒屋から遠くない露路のなかで、そこには裏店(うらだな)としてやや小綺麗な五軒の小さい格子作りがならんでいた。庄太の家は露路の口から四軒目で、隣りの長屋にお作という娘が母のお伊勢と二人で暮らしていた。その奥は空地になっていて、そこには大きい掃溜(はきだ)めがあった。昔から栽(う)えてある大きい桜が一本立っていた。お作は浅草の奥山の茶店に出ているが、そのほかに内々で旦那取りをしているとかいうので、近所の評判は余りよくなかった。そんな噂もあるだけに、母子(おやこ)はいつも身綺麗にして、不足もないらしく暮らしていた。隣り同士でもあり、殊に庄太の商売を知っているので、お作親子はふだんから愛想よく彼に附き合って、いろいろの物をくれたりした。
お作が啖い殺されたのは、ゆうべの六ツ半(午後七時)を過ぎた頃であった。
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