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半七捕物帳 36 冬の金魚 - 岡本 綺堂 ( おかもと きどう )

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  • 半七捕物帳(全7巻)岡本綺堂著・春陽文庫
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半七捕物帳 冬の金魚      一  五月のはじめに赤坂をたずねると、半七老人格子のまえに立って、稗蒔売(ひえまきうり)の荷をひやかしていた。わたしの顔をみると笑いながら会釈(えしゃく)して、その稗蒔のひと鉢を持って内へはいって、ばあやにいいつけて幾らかの代を払わせて、自分は先に立って私をいつもの横六畳へ案内した。
「急に夏らしくなりましたね」と、老人は青々した小さい鉢を縁側に置きながら云った。「しかし此の頃はなんでも早くなりましたね。新暦五月のはじめにもう稗蒔を売りにくる。苗屋の声も四月の末からきこえるんだから驚きますよ。ゆうべも一ツ木の御縁日に行ったら、金魚屋が出ていました。人間の気が短くなって来たから、誰も彼も競争で早く早くとあせるんですね。わたくし共のようなむかし者の眼からみると……これでも昔は気のみじかい方だったんですがね……むやみに息ぜわしくなって、まわり燈籠追っかけっくらを見せられているようですよ。この分では今にお正月床の間金魚鉢でも飾るようになるかも知れませんね。いや、今の人のことばかり云っちゃあいられません。むかしも寒中金魚をながめていた人もあったんですよ」
天水桶にでも飼って置いたんですか」と、わたしは訊(き)いた。
「いや、天水桶の金魚は珍らしくもありません。大きい天水桶ならば底の方に沈んで、寒いあいだでも凌いでいられますからね。こんにちでは厚い硝子(ガラス)の容れ物に飼って、日あたりのいいところに出しておけば、冬でも立派に生きています。しかし昔はそんなことをよく知らないもんですから、ビードロの容れものに金魚を飼うなんて贅沢な人も少なかったようです。たまにあったところで、それはやっぱり夏場だけのことでした。ところが、又いろいろのことを考え出す人間があって、寒い時にも金魚を売るものがある。それは湯のなかで生きている金魚だというんだから、珍らしいわけですね。文化文政のころに流行(はや)って、一旦すたれて、それが又江戸の末になってちょっと流行ったことがあります。しょせんは一時の珍らしいもの好きで長くはつづかないんですが、それでも流行るときには馬鹿に高い値段で売り買いが出来る。例の万年青(おもと)や兎とおなじわけで、理窟も何もあったものじゃありません。そう、そう、その金魚ではこんな話がありましたよ」

 お玉ヶ池の伝説はむかしから有名であるが、その旧跡は定かでない。地名としては神田|松枝町(まつえちょう)のあたりを総称して、俗にお玉ヶ池と呼んでいたのである。その地名が人の注意をひく上に、そこには大窪詩仏梁川星巌(やながわせいがん)のような詩人が住んでいた。鍬形※]斎(くわがたけいさい)や山田芳洲のような画家も住んでいた。撃剣家では俗にお玉ヶ池の先生という千葉周作道場もあった。それらの人達の名によって、お玉ヶ池の名は江戸時代にいよいよ広く知られていた。
 これは勿論、それらの人々と肩をならぶべくもないが、俳諧宗匠としては相当に知られている松下庵其月(しょうかあんきげつ)というのがやはりこのお玉ヶ池に住んでいた。この辺はむかしの大きい池をうずめた名残(なごり)とみえて、そこらに小さい池のようなものがたくさんあった。其月の庭には蛙も棲んでいられるくらいの小さい池があって、本人はそれがお玉ヶ池の旧跡だと称していたが、どうも信用出来ないという噂が多かった。かれはその池のほとりに小さい松をうえて、松下庵と号していたのであるが、その点を乞いに来る者も相当あって、俳諧宗匠としては先ず人なみに暮らしていた。
 弘化三年十一月のなかばである。時雨(しぐれ)という題で一句ほしいような陰(くも)った日の午(ひる)すぎに、三十四五の痩せた男が其月宗匠の机のまえに黒い顔をつき出した。
「おまえさんに少しお願いがあるんですがね」
 かれは道具屋の惣八という男で、掛物色紙短冊(しきしたんざく)も多年取りあつかっている商売上の関係から、ここの家の門(かど)を度々くぐっているのであった。其月は机の上にうずたかく積んである俳諧の巻をすこし片寄せながら微笑(ほほえ)んだ。
「惣八さんのお願いでは、また何か掘り出しものの売り込みかね。おまえさんの物はこのごろどうも筋が悪いといって、どこでも評判がよくないようだぜ」
「ところが、これは大丈夫、正銘(しょうめい)まがいなしの折紙付きという代物(しろもの)です。宗匠、まあ御覧ください」
 風呂敷をあけて勿体(もったい)らしく取り出したのは、芭蕉の「枯枝に烏のとまりけり秋の暮」の短冊であった。それが真物(ほんもの)でないことは其月にもひと目で判った。もう一つは其角の筆で「十五から酒飲みそめて今日の月」の短冊で、これには其月もすこし首をかたむけたが、やはり疑わしい点が多かった。其月は無言で二枚の短冊を惣八のまえに押し戻すと、その顔つきで大抵察したらしく、惣八は失望したように云った。
「いけませんかえ」
「はは、大抵こんなことだろうと思った。承知していながら、押っかぶせようというのだから罪が深い」と、其月は取り合わないように笑っていた。
「どっかへ御世話は願えないでしょうか」
 其月はだまって頭(かぶり)をふった。
「困ったな」と、惣八はあたまを掻いていた。「其角の方もいけませんかしら」
「どうもむずかしい」
「やれ、やれ」と、惣八は詰まらなそうにしまい始めた。「ところで、もう一つ御相談があるんですがね」
 今度の相談は例の金魚で、寒中でも湯のなかで生きている朱錦(しゅきん)のつがいがある。それをどこへか売り込む口はあるまいか。売り手は二匹八両二歩と云っているのであるが、二歩たしかに負ける。


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